その日も、律は澪の部屋にいた。
澪と二人で――澪と律は二人一緒に並んでベッドに座っていた。

澪は唯と付き合うのをきっかけに、その日から日記をつけ始めた。律は自分に身体を預ける彼女の温もりを 感じつつ、その日記に目を通していた。
澪らしい丁寧な細かい字で書かれた数々の思い出の中には、 一ヶ月間、自らの殻に閉じこもり部屋に引きこもっていた時のことまで執筆されていた。
もっともこの時に限って言えば、精神的安定を極端なまでに欠いていたせいか、 それまでの字とは打って変わってミミズが這ったかのように酷い字が並べられていた。

律「――あれから一週間、か」

澪が復活の兆しを見せたあの日から、今日で一週間になろうとしていた。

澪は相変わらず、学校へは登校していない。 けれども、徐々に良い方向に向かっているのも確かだった。
澪は少ないながらも、以前のように笑うようになった。 口数も徐々にではあるが、増えてきている。
今でも隣を見れば、穏やかな寝顔がそこにある。無意識に律は、彼女の黒髪を撫でた。

律「……!」

不意にあることに気づいて、律は心臓を鷲掴みされたかのように息を呑んだ。ほとんど同時に携帯電話の着信音が鳴る。


――電話の着信音が、日常の崩壊を告げる、不気味な鐘の音のように聞こえた。




しとしとと降る雨が律の気分を
僅かに鬱屈とさせたが、それでも傘を差して唯の家へ向かった。

律の、放課後に唯の家に行って彼女に手を合わせるという習慣は今も継続している。

けれども休日に唯の家を訪ねたのは始めてだった。

傘――唯が自ら命を絶った日の前日、一緒に帰る律と唯を
ストーキングした人物が落としたと思われる傘――持ち主は既にわかっている。

律の歩くペースは無意識に速くなっていた。


傘の持ち主――琴吹紬は仏壇の前で手を合わせていた。

紬「わざわざ呼び出してごめんなさい」

紬はゆったりと振り返って今まさに部屋に足を踏み入れた律を一瞥した。




律「それで、メールで話したいことがある、
ってわざわざ唯の家に呼び出して、一体全体何のようだよ?」

自然と声が刺々しくなる。

紬「……私、どうしても唯ちゃんに謝りたくなったの」

律「謝りたくなった?」

紬「唯ちゃんだけじゃない……澪ちゃんにも」

紬のかんばせに深い悲しみがたゆたう。
後悔しても後悔しきれない――そんな表情を浮かべた。

紬「もっと早く気づくべきだった。りっちゃん」

紬の言葉に含まれた氷剣は、律の肺腑を一切の遠慮も無くえぐり取った。


紬「――どうして、唯ちゃんを殺そうと思ったの?

どうして澪ちゃんをあそこまで苦しめたの?」




律「――で、こういう場合ってやっぱりとぼけるべきなのか?
それとも証拠はあるのか、とか聞くべきだと思う?」

紬「……」

律は壁に背中を預けた体勢で紬の表情を窺う。
紬は無理矢理こしらえたとわかる無表情で、口を開いた。

紬「証拠なんてない。でも……おかしなことが幾つかあるわ」

律「たとえば?」

紬「私が最初に違和感を抱いたのは、りっちゃんが、唯ちゃんと澪ちゃんのことで
私に相談した時よ」

吹けば飛んでしまうかのような微かな疑問。
けれども、紬が律に疑惑の眼を向けるきっかけになったのは、間違いなくそれだった。

紬「唯ちゃんは、澪ちゃんに告白する前にね、
私に相談してきたの。澪ちゃんはどんな人が好きなんだろう、って」



律「……それで?」

紬「私は唯ちゃんにこう言ったの。

私よりもりっちゃんの方が澪ちゃんのことには
詳しいはずだから、りっちゃんに聞いたら――って。

実際、唯ちゃんは、じゃあそうする、って言ったの。

もし、唯ちゃんが私が言ったとおりにりっちゃんに
相談していたなら何か二人の関係について知っててもいいはずなのに――りっちゃんは
あの時まるで二人が付き合っていることも、全く知らないかのような振る舞いを見せたし、
唯ちゃんから相談をされたとも言わなかった」

律は何も答えず、紬の次の言葉を待った。

紬「それだけじゃない――りっちゃんは澪ちゃんが日記をつけていたことは知ってるわね」

律「まあな」



紬「四日前、澪ちゃんの家に行ったの」

そういえば……律は澪が三日前に話していたことを思い出す。
紬が澪の家を訪ねたことについてそれとなく触れていた。

律「澪が言ってたけど、ムギもそういや、澪のとこに時々顔出してたんだな」

紬「ええ。そして四日前、澪ちゃんの顔を久々に見て、色々なことを話したの。

唯ちゃんやりっちゃんのことや、梓ちゃんや軽音部のこととかも――それで澪ちゃんが
日記をつけてるって話になって、その日記を見せてもらったの。

最初は少し恥ずかしがってたけど……その日記を見ていてある法則に気づいたの」

律は図らずも唇を噛んでいた。

律「法則、ね。私も日記には目を通したよ。でもわかんなかったけど」

紬「後でもう一度見てみればいいわ。澪ちゃんを散々苦しめた手紙が送られて来る日には
決まってもう一つあるものが来てたの――もっともこの法則が当て嵌まるのは澪ちゃんが、
唯ちゃんとりっちゃんと一緒に帰るようになってから以降だけれどもね」




睨むかのように細められた紬の目が、冬の水面のように静かに律を見つめた。

紬「りっちゃん――あなたよ」

もちろん、律自身、既にそれについては気づいていた。

紬「それだけじゃない。

澪ちゃんがストーキングされるようになったのも、澪ちゃんが図書館へ行き始めてから。

つまり、りっちゃんと一緒に帰らなくなってから。

そしてストーカーが澪ちゃんをつけるのを止めたのも、
りっちゃんが、澪ちゃんと唯ちゃんと一緒に帰るようになってから……これは偶然かしら?」

――それとも必然?

紬の問いには答えず、律は逆に質問し返した。

律「唯が死ぬ前日。私と唯をつけてたのはなんでだよ?」



紬「唯ちゃんからね、あの日の前日の夜に電話が来たの」

その時のことを思い出しているのか、紬の表情は悲しみを漂わせた。

紬「唯ちゃんが自殺した二日前――唯ちゃんが澪ちゃんの
家から帰ろうとした時、りっちゃん、背後から唯ちゃんを襲ったそうね」

律「襲った、ね……まあ、確かに背後から襲いかかる形にはなっちゃったけど……
別にそんなつもりは最初はなかったんだよ。

澪へこ手紙をポストに投函して、適当に付け回す。

ついでに唯が一人で澪の家に行ったときは、今度は唯をストーキングする――そんな
ことをしばらくは続けてて、その日もただ、ストーキングしてただけだったはずだった。

……けれども、我慢できなくなった。いつも通り唯の背中を追っているだけねつもり
だったのに、唯が澪を独占しているのかと思ったら何か、目の前が真っ赤になって……」

気づいたら律は唯の背中を力任せに突き飛ばしていた。




地面に倒れ伏す唯に律は、馬乗りになって、耳元でひっそりと、陰惨たる呪詛を呟いた。

――澪を返せ――

自分の声が自分のものに思えなかった。
自分の声帯を誰かが、勝手に使って勝手に声を出したかのような――とにかく
自分が自分じゃなくなってしまうかのような恐怖が律の全身を冬の寒さ以上に震わせた。

それだけ呟いた時には冬の寒さが冷静な思考を呼び覚ましていて律は全力で逃げた。

怖かった。何もかもが。全てが全て。自分の周りを取り囲む
有象無象が、とにかく怖くて怖くて仕方なかった。

律「唯のやつ、さすがに私がストーキングしてた犯人だって気づいたはずなのにな。
何で私を糾弾しなかったのか……私には未だにわからない」

何より、どうして唯は自殺したのだろう。




紬「唯ちゃんはね、りっちゃんが犯人だって、もちろん気がついてた。
澪ちゃんを苦しめたのも、唯ちゃんを苦しめのも全部理解してた。

唯ちゃんは今までの経緯を全部説明してくれた。

説明した後、電話越しで、唯ちゃんは泣いてた。

どうしたらいいのかわからないって。どうすればいいんだろう、って。

でもね、ずっと泣いてた唯ちゃんが突然、泣き止んだの――わたしが何とかする、
力強くそう言ったわ。

唯ちゃんは続けて、だからムギちゃんは何もしないで見守っていてほしい、って
私に頼んだの。だから私は何もしないでおこう、そう思ったけれど……」

律「じゃあ、それで……」

紬は小さく頷く。

紬「りっちゃんと唯ちゃんが二人だけで、音楽準備室に残る、って言ったから、
気になってこっそり音楽準備室の扉の前で、盗み聞きさせてもらったわ」



律「なるほど、それで私と唯のことが気になって後をつけたのか」

紬「自分自身の目で確かめたかった。りっちゃんが本当に犯人なのか、って。
それで確信したわ。間違いなくりっちゃんが犯人なんだって」

心なしか青ざめた紬の唇から漏れでた吐息は震えていた。

紬「りっちゃんは気づいてた?唯ちゃんたちをつけつてた
私が傘を落とした時以外、りっちゃんは一度も後ろを振り返らなかったのよ」

ある種、当たり前の話だった。



犯人である律には後ろを振り返るべき理由などなかったからだ。

律「まあ、真剣に話す唯に引きこまれていたってのもあるけど」

唯がまるで背後を振り返らなかったのも、犯人は背後ではなく目の前にいたのだから、
当たり前のことだった。

律「……はは、まさかな、こんな形で糾弾されるなんてな」

でも。

ここまで全てのことがつまびらかになっていきながら、
唯の行動の理由も、彼女の自殺の理由も律にはわからなかった。

紬「りっちゃん、最初の質問に答えて。どうしてあんなことをしたの?」

唯の自殺の理由はまるでわからなかったが、律の行動の理由はあまりにも簡単だった。

律「唯から澪を奪い去りたかった」




律「澪には私だけを見ていてほしかった」

かつて唯に向かって告げた言葉が無意識に律の口から出ていた。
あの時の唯がどんな顔をしていたのか、今は、もう思い出せない。

けれどもあの時の自分の気持ちは明確に覚えている。
胸を焦がすかのような焦躁と澪を恋しいと思う気持ち。そして唯への身勝手な敵意。

唯が澪に告白する際に、律に相談したことがあった。
律は深く考えなかった。深く考えることを拒絶した。
唯と澪が恋人同士になる――その事実から目を背けた。

だが、間もなく訪れた現実に、律はうちひしがれた。

二人がキスしていたのを見て、二人が仲睦まじく会話をしていたのを見て、唯の胸で
泣く澪を見て、湧き出て止まない嫉妬心を抑えれことなんて、できなかった。

何より自分に嘘をつき続けることができなかった。

律「最初は、自分が澪のことを好きだって認めるのが怖かった」

――だって私は女で、澪も女なんだぜ。
額を押さえた律は天井を仰いだ。




律「唯に感心したのは、澪を好きになった、
それだけじゃなく、周りに相談してまで、澪にコクったってことなんだ。
私にはそんな勇気はなかった」

だから――

律「唯も澪も両方追い詰めた。
唯を殺すつもりなんて無かったけど、
追い詰める気はあった。澪もそうだ。私が追い詰めて、
私を、私だけを頼るように仕向けた。私に依存してほしかったから」

結果として、それは成功した。上手く行き過ぎたくらいだった。

ただし、沢山のものを代償にして、だが。

紬「そう」

その一言だけを置いて、紬は身を翻す。

律はその背中にかける台詞を持ち合わせてなどいなかった。
――いや一つだけある、か。

律「ムギ、一つだけ聞きたい。どうして唯は自殺したんだと思う?」

紬は一瞬だけ、律を振り返った。


紬「明日、現代文の課題があるから、きちんとやってきてね」




律「なるほど、な」

面白い偶然もあるもんだ、と律は独り言ちた。

現代文の課題の範囲である『夏目漱石』の『こゝろ』の文書を 目で追いつつ、問題を解いていく。


苦手なはずの現代文の問題が、不思議なほど簡単に解けていく。

律「まるで、この『わたし』は私で、『K』は唯で、『お嬢さん』は澪じゃん」

自分の行動はそっくりそのまま、この物語の『わたし』を
なぞったかのようだ――馬鹿馬鹿しいと思いつつも、笑い飛ばす気にはなれなかった。


いよいよ課題の最後の問題を解こうとして、律の手が止まった。
問題文を読んで、数回教科書の最後あたりの文書を目で追っていく。

最後の問題はこんな問題だった。


『Kの自殺の理由を二つ挙げよ』


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最終更新:2010年05月10日 22:32