夕食を済ませて食器を洗い終わった私は、居間にお姉ちゃんの姿がないことに気がついた。
お姉ちゃんは大抵、ご飯を食べ終わったあとは寝転がりながらテレビを観たりして動かないことが多い。
もちろん、いつもということではないけど、見慣れた姿ではあった。
お風呂にでも入りに行ったのかと思ったけど、まだバスタオルを用意していなかったし、お風呂場から音が聞こえてもこなかった。
となると、部屋に何かをしに行ったのだろう。ギターの練習? 勉強? そんなところか。
今のうちにバスタオルとかを出しておこう。
そう思った、そのときだった。
天井から大きな物音がした。正確には二階から。
「な、なに?」
お姉ちゃんだろうけど、今のは何かが崩れるような、そんな音だった。一体、夜遅くになって何をしているのだろう。
心配になった私は、一目散にお姉ちゃんの部屋に駆け込んだ。
「お姉ちゃん! 大丈夫!?」
「あ、憂~」
「お姉ちゃん、なにしてるの?」
押し入れに頭を突っ込んだままのお姉ちゃんに私は問いかけた。よく見ると、先ほどの音の原因だと思われる物が床に散乱していることに気がつく。
「てんとう虫を探してるんだよ」
「てんとう虫……?」
意味がわからない。なぜ、夜にてんとう虫を探す必要があるのだろう。そもそも、てんとう虫は押入れにはいないと思う。押し入れにいるのはドラえもんだ。
そうか、お姉ちゃんはドラえもんを探しているのかもしれない。遠まわしに言って、私を試しているんだろう。だけど、そのぐらいの問題なら私にだってわかる。
「お姉ちゃん、ドラえもんはいないよ」
「へ、ドラえもん?」
「ドラえもんを探してるんじゃないの」
「違うよー、私が探してるのはてんとう虫だよ。ドラえもんじゃなくて」
「そっか……」
違ったらしい。では、なんなのだろう。
その他に押し入れに住んでいるのっていうと、中々思いつかない。
「お姉ちゃん、押し入れにてんとう虫はいないと思うよ」
「うーん、いると思ったのにいないね」
そう言って、お姉ちゃんは捜索を続行する。
いないと自分で言っておきながら続行する。
さて、困った。どう考えても押し入れから、てんとう虫が見つかる図を想像することができない。漫画でもなさそうな展開だと思う。
と、ここで一つの疑問が浮かんだ。
「てんとう虫を見つけてどうするの?」
そう、夏の夜にてんとう虫を見つけて何をしようとしているのか。押し入れにてんとう虫がどうこうよりも、そちらの方に目を向けるべきなのかもしれない。
「んー、まだ秘密だよ」
「駄目だよー、危ないことしちゃ」
てんとう虫を使った危険なことなんて思いつかないけど、念のために注意しておく。
「わかってるよー」
「お姉ちゃん、お風呂いつでも入れるからね」
「んー」
お姉ちゃんを残して一階に下りた私は、まだ用意していなかったタオル類を収納ボックスから取り出して、お風呂場前のキャスター付きワゴンの上に置いておく。
リビングに戻って、明日の朝昼晩の献立を考える。買い物のときに、ある程度は献立のスケジュールを調整しているので、この作業は確認の意味合いが強い。
献立のスケジュールを記入したメモに目を通して、冷蔵庫にある食材の在庫に問題がないか考える。
「うん」
明日の食事に関しては問題なしだ。
家事はこれで一通り終了したので、自分の部屋に戻って夏休みの宿題の続きでもやることにした。
部屋の電気を点けて、机の隅に積まれたプリントや冊子の束の一番上に置いてあるものを手にとって机に広げ、椅子に座る。
シャープペンと消しゴムを筆箱から取り出し、いざ勉強を始めようとすると、
「憂ー! 憂ー!」
どたどたと音を立てながら廊下を走る音と一緒に、私を呼ぶ声が聞こえた。
椅子から立ち上がって部屋を出る。音のする方に向かって、
「おねーちゃーん?」
「憂ー!」
足音が徐々に近づいてくる。
「あ、いたいた」
右手に何かを握りながら、お姉ちゃんがやってきた。
「どうかしたの?」
「てんとう虫、発見したよー」
「てんとう虫……本当に?」
「うん。はいこれ」
そう言って、お姉ちゃんから懐中電灯を受け取る。
てんとう虫じゃなく、懐中電灯を受け取る。
「てんとう虫……」
「うん」
「これがそうなの?」
「うん」
「……」
どうリアクションをしていいのかわからない。
「これって、懐中電灯だよね」
「うん」
「てんとう虫?」
「てんとう虫」
駄目だ、私にはわからない。
てんとう虫、じゃなくて懐中電灯をお姉ちゃんに返す。
「それで、懐中電灯をなにに使うの?」
「知りたい?」
「う、うん」
そこまで興味があるわけではないけど、危ないことをされてはたまらないので頷く。
「裏山に行こうと思って」
「今から?」
「うん。憂も一緒に行こうよ」
「なにをしに行くの?」
「行ってからのお楽しみ~」
お姉ちゃんはそれだけ言うと、玄関の方へさっさと駆けていった。私も渋々、後に続く。
歩きやすい運動靴を履いて家の外に二人して出る。外は夜にも関わらず空気が蒸していて、汗とともに肌に絡みつくような気がした。
敷地外に出て、家の隣にある鳥居へ向かう。
夏ということもあって窓を開けているのか、テレビの音だったり談笑の声が、路地を歩いてても虫の鳴き声に混じって近所の家々から聞こえてきた。どこかで犬も吠えている。
「ねえ、お姉ちゃん。本当に行くの? もう遅いんだし、明日にした方がいいよ。暗い中じゃ危ないし」
「善は急げだよ」
「善ならいいけど……」
そんなことを言っているうちに鳥居をくぐり、境内に足を踏み入れて社殿に到着する。
裏山というのは、神社の裏側に広がる小高い丘みたいなものだ。小さい頃にはお姉ちゃんや和ちゃんと一緒に、何度か登った記憶がある。
家の周りは街灯が設置されているので明るかったけど、社殿の周りには電灯はなかった。それでも月明かりと懐中電灯のおかげで、裏山への入り口は簡単に見つかった。
自然の見晴台へ行くための道みたいなものだったので、入り口といっても門があるわけではなく、初見の人には何の道だかわからないと思う。
入り口から先は闇に包まれていて、手前に林立する木々を確認するのがやっとの暗さが、訪問者を拒ぶようにして立ちはだかる。
「やっぱり危ないよ、お姉ちゃん。明日にしようよ」
「へーきだよぉ。これがあるんだし」
懐中電灯を掲げてお姉ちゃんが言う。
「しゅっぱーつ!」
なんの躊躇もなく歩み始めるお姉ちゃんに遅れまいと、私も深淵の闇の中に足を踏み入れた。
山というか、森の中は空が見えないほどに木々が繁茂していて、月明かりは私達の元には届かない。光を頼らずに暗闇を歩くのは、水を持たずに砂漠を渡るのと似て困難だ。砂漠に行ったことはないけど。
幸い、今は懐中電灯があったので完全な暗闇というわけでもないけど、水を飲めば減っていくのと一緒で、有限である懐中電灯の光もそのうち消えてしまう。
もちろん、この小さな丘であれば、光がなくとも抜け出すことはできるだろうけど、水がなければ生きていけないのと同様、人は光がなくてはやはり生きてはいけないことを実感する
懐中電灯の光を頼りに、なだらか斜面を登っていく。障害物はなく、地面も固まっているのですいすいと進んでいける。
お姉ちゃんが足を動かす度に手元が揺れ、懐中電灯の先から伸びる光の筋も同時に右へ左へと揺れた。
風が吹くと木々が揺れて頭上に繁った枝葉が涼しげな音を立てた。
それにしても、ここに来るのは何年ぶりだろう。小学校高学年のときにお姉ちゃんと初日の出を見に行ったのが最後だとすると、七、八年ぶりだろうか。随分と歳をとったものだ。と、若者らしからぬことを思ってしまう。
突如、お姉ちゃんが足を止めて懐中電灯の光を私にかざした。
「ねえねえ、カブトムシとかクワガタとかヘラクレスとかいるかなあ?」
「ヘラクレスじゃなければいるかもしれないけど……。もしかして昆虫採取に来たの?」
「違うよぉ。そんな子どもみたいなことしないよ」
「そっか。えー、じゃあ、なにをしに来たの?」
「まだひみつ」
お姉ちゃんは、にひひと笑って再び歩き出す。
本当になんのために来たのだろう。昆虫採取ではないらしいけど。
虫といえば、虫除けスプレーを使ってくればよかった。服装も夏ということもあって肌の露出面積が多いので、蚊にとっては恰好の標的といえる。
蚊は吸血する際に置き土産を最低でも三つ残していくから厄介だ。一つは刺した痕。もう一つは唾液。最後に痒み。唾液と痒みはともかく、女子にとって痕が残るのは許せないことだ。
けれど、蚊に全く刺されずにこの季節を越すのは不可能と言っていい。だから、毎年この季節は蚊に刺される度に憂鬱になってしまう。
森の中では虫の鳴声が四方八方から聞こえてくる。耳をくすぐるようでありながら涼やかな音色だった。
日中から気温が下がったとはいえ夏であることは変わりない。家を出てからそんなに時間は経っていないのに、額に汗が滲み出てきているのがわかった。入浴前でよかったと思う。入浴後なら、もう一度入り直さなければいけなかった。
お風呂場を頭の中でイメージしていると、それは何故か玄関のイメージへと変わった。それで思わず「あっ!」と声を上げてしまう。なぜなら施錠してくるのを忘れたのを思い出したから。
「どうしたの?」
お姉ちゃんが再び足を止めて懐中電灯をこちらに向けた。
「う、ううん。なんでもない」
なんでもなくはないけど、お姉ちゃんに言っても仕方がないことなので黙っておく。ああ、家の電気も点けっぱなしだったっけ、勿体ない。もっとしっかりしないといけない。
懐中電灯が進行方向に向き直る。
ざっ、ざっ、と砂場で穴掘りをするような足音が連なって、森の中を進んで行く。
やがて、アーチ形のように見える出口を懐中電灯の光が照らし出した。
「あ、着いたよ憂」
そう言って、一人で出口に突っ走るお姉ちゃん。
「あ、走ったら危ないよ。お姉ちゃん!」
注意してみたものの、懐中電灯の光は薄くぼんやりとして、どんどん視界の奥へ行ってしまう。私は暗闇の中で足元に気をつけながら、光を目印に小走りになった。
しかし、光が落ちるとともに何かが倒れた音を聞いて、すぐに元のゆっくりとした足取りに戻る。
最終更新:2010年05月18日 23:31