ツアーの終了と同時に、創造レコードとHTTの契約期間が終了しました。
レーベルには、契約更新の意思はなかったようです。
和「唯は個人的には友達だけど、あのアルバムのことについてはもう思い出したくないわ」
真鍋先輩にとっても、『らぶれす!』は苦い思い出になってしまったようで、
そのことがHTTとの契約終了の遠因になったことは間違いなさそうです。
その後、HTTはとあるメジャーレコード会社と新たに契約を結び、バンドは莫大な契約金を手にしました。
誰もが、メジャーでの『らぶれす!』に続くHTTのアルバムを期待していました。
しかし、それはとうとうリリースされることはなかったのです。
そんなある日、私の携帯に澪先輩から一本の電話が入りました。
澪『やぁ梓、久しぶりだな』
梓「こちらこそ。久しぶりです。どうしたんですか一体?」
澪『どうしたもこうしたもないよ。私たちのバンドの今度のライヴにギターで参加して欲しくてさ』
梓「ストライプスのライヴに……ですか」
澪先輩の今やっているバンドは『アクアブルー・ストライプス』。
自身が高校1年生の時の学園祭ライヴで観客に晒したパンツの色から名前をとったという、曰くつきのバンドです。
澪『律もさ、久しぶりに梓に会いたいって言ってるよ』
アクアブルー・ストライプスは、ベースボーカルの澪先輩とドラムスの律先輩の2人編成という、ギターレスの画期的なバンドでした。
ちなみに澪先輩と律先輩は晴れて結ばれ、ストライプスも今では世間も公認の夫婦バンドになっているそうです。
梓「ちょっとだけ、考えさせて下さい――」
澪『何言ってるんだよ。最近じゃ殆ど音楽活動もせずに喫茶店の店番して過ごしているんだろう?
悪い誘いじゃないと思うし、このままだと梓まで唯みたいに……』
梓「唯先輩ですか……」
澪『あ……悪い……思い出させちゃったな』
梓「いえ、いいんです。参加の件、とりあえず前向きに考えてみます」
『らぶれす!』アルバムに伴うツアーの終了とともに、放課後ティータイムは無期限の活動休止状態となりました。
誰が言い出したわけでもない、自然な流れでした。
その後、世間においても、次々に新たなガールズ・バンドが登場し、一時はHTT一色だった音楽シーンの様相も大分変わりました。
モデル並の美貌を誇るボーカル、デーモン・アルバー子、率いるポップなロックバンド『ブラブラー』、
いまどき珍しいムギ先輩も驚くほどのゲジ眉と、しょっちゅうのように起こす喧嘩が自慢の
乃絵瑠(のえる)&莉亜夢(りあむ)姉妹が率いる王道ロックバンド『オアシズ』、
ボーカルのトム・ヨーコはじめ、メンバー全員が名門大学卒業というインテリジェンスが自慢のギターロックバンド『ラジオ頭』、
これらのバンドの台頭により、HTTが音楽シーンで確立していたはずの地位は、徐々に相対的に下がっていきました。
しかし、一方ではHTTのメンバー達も休止期間を新たな音楽活動に充てていました。
先述した澪先輩と律先輩の夫婦ユニット『アクアブルー・ストライプス』は、
HTTとは180度違うまっすぐなサウンドを売りにし、ライヴツアーを連日ソールドアウトさせるほどの人気を誇っていました。
一方、HTT末期での苦い経験から、バンド活動からは離れたムギ先輩は、
シンセサイザーの演奏を通じて得た電子音楽の素養を活かし、個人で多数の名義を使い分けるテクノミュージシャンとして活躍していました。
ムギカル・シスターズ、タクアン・ワールド、ダフト・マユゲ等々……
世の第一線を走るテクノミュージシャンの正体が全てムギ先輩だと知る人間は、世間にもそうはいないはずです。
まさにミュージシャン個人の匿名性が高いテクノというジャンルだからこそできる芸当です。
そして私はといえば……
HTT休止初期こそ様々なバンドのセッションにギター1本で参加し、小銭を稼いでいたのですが、それもすぐに嫌になってしまったのです。
プロデューサー「梓ちゃんさぁ、HTTばりの轟音ギターもいいけど、ちょっと食傷気味だよ。たまにはもうちょっとテクニカルなのも弾いてくれないと」
梓「は、はい……」
そんなことを言われ、唯先輩から授かった轟音スタイルのプレイを捨てることもありました。
そして何よりも致命的だったのは、私の傍らに横たわるどうしようもない空白に堪えることができず、
音楽を演奏することをちっとも楽しめなくなったことでした。
その空白とは――すなわち唯先輩のことです。
認めざるを得ません。
私は唯先輩に未練がある。
そうして、私は唯先輩の幻影を感じざるを得ない音楽活動から足を洗い、
軽音部時代にムギ先輩から学んだお茶の知識を活かし、小さな喫茶店を営む毎日を過ごしていました。
そして、唯先輩はといえば……
唯「メジャーに移籍して、今度はお金の問題もないよ。これなら、次はもっと凄いアルバムができるね!」
HTT休止寸前に、そんなことを言っていたといいます。
しかし、その後私たち4人にレコーディングの連絡が来ることもありませんでしたし、
『らぶれす!』のように唯先輩が一人でレコーディングをしているという話も聞きませんでした。
こうして完全なる活動凍結状態――。
つまりは、HTTが『活動休止』と呼ばれる所以の殆どは唯先輩によるものなのです。
一度、3rdアルバム用のデモテープをレコーディングしているとの噂が流れましたが、その後の音沙汰はありません。
また一度、HTTの1stアルバムである『Houkago Tea Time Isn't Anything』と『らぶれす!』、
そして何枚かリリースしたシングル音源等のリマスター作業を行っているとの噂がありましたが、やはりその後の音沙汰はありません。
たまに他のバンドの楽曲のリミックスやソロ名義での映画への楽曲の提供などでその名を見ることはできたものの、
原則HTTの活動に関して、唯先輩は何ら具体的な活動を起こすことはありませんでした。
いつしか、何の動きも起こさない唯先輩は『怠け者』、『CD出す出す詐欺』、果ては『音楽界のニート
平沢唯』との異名で呼ばれるようになりました。
今では、HTTのメンバーも、レコード会社の人間も、音楽雑誌の記者も、唯先輩がどこで何をしているか、誰も知りません。
こうして音楽界のニートの新たな伝説がひとつ、またひとつと増えていくのです。
律「いやー、今日のライヴも最高だったよ。特に澪のボーカルの調子が良かったな!」
澪「そ、そうか? でも律のドラミングもなかなかよかったぞ……なんて……(恥ずかしい)」
梓「あのー……楽屋でいちゃつくのは止めてもらえませんかね……」
律澪「べ、別にいちゃついてなんか……!!」
結局、私は二人の熱意に負ける形で、アクアブルー・ストライプスのライヴツアーにギタリストとして参加しました。
相思相愛の澪先輩と律先輩に目の前でいちゃつかれるのは何とも微妙な感じですが、この際気にしないこととします……。
すると、急に真面目な顔になった律先輩がこんな提案をしてきました。
律「なぁ梓、正式にストライプスに加入する気はないか?」
梓「えっ、私がですか?」
そして、さらに衝撃的な事実が澪先輩から語られます。
澪「実はな、梓にいい返事をもらえれば、ムギも誘おうと思ってるんだ」
梓「!!」
それはつまり――殆どHTTメンバーの再結集に等しいことでした。
しかし、私はどうしても『そこ』に触れないわけには行きません。
梓「唯先輩は……どうするんですか?」
律澪「…………」
二人はともに黙り込んでしまいました。
それでも沈黙の裏にある言葉は読み取れました。
つまり、唯先輩にとって、5人編成のHTTはもう終わっているのです。
その証拠に、バンドの最高傑作である『らぶれす!』を、あの人はほぼ一人で創り上げ、その後の音沙汰はない。
しかも、今の『音楽界のニート』たる唯先輩に、具体的な音楽活動を期待することなど、まさに非現実的。
梓「やっぱり、少し考えさせて下さい」
それでも私は自信がありませんでした。
短期間のライヴツアーならまだしも、唯先輩が隣にいないにもかかわらず、継続的なバンド活動などできるのか?
そんな不安の方が、まだ圧倒的に大きかったのです。
その少し後のことでした。
ストライプスの取材にやってきた音楽雑誌の記者から、私は驚くべき情報を聞くことになりました。
なんと、長い間沈黙を続けていた唯先輩が、『プライマル・アイスクリーム』という、
人気ガールズロックバンドの新ギタリストとして加入することが決定したというのです。
澪「そんな……あの唯が今更になって新しいバンドだって?」
澪先輩が驚くのも無理はありません。
律「つまり……HTTはやっぱり唯の中ではもう終わっているってことか……」
律先輩の言葉は、特に重く私の心に響きました。
それでも、私は信じたくなかったのです。
だからこそ、あの人の真意が知りたかった。
ちょうどその時、『プライマル・アイスクリーム』のメンバーとなった唯先輩の、
幾年ぶりかのインタビュー記事がその音楽雑誌に掲載されるとの噂を聞きつけ、私は書店へ走りました。
澪「梓、悪いことは言わない。記事を読むのは止めたほうが……」
律「世の中には知らなくていいこともあると思うんだ……」
唯先輩と私の過去の関係を知る澪先輩と律先輩のそんな言葉も、私のことを思ってのものであることは理解していました。
それでも私は……諦められない。
そうして、私は恐る恐るページをめくりました。
―本当に久しぶりですね(笑)
唯「そうだね! 雑誌のインタビューなんて何年ぶりだろ~」
―先ずは今回のプライマル・アイスクリームへの電撃加入のいきさつを教えていただければ。
唯「私も長いこと引き篭もってたから、いい加減憂に怒られちゃって。『お姉ちゃん、いい加減にしないと本当にニートになっちゃうよ?』って」
―HTTの印税収入があるじゃないですか。『らぶれす!』は今でも売れ続けているアルバムですよね?
唯「そうだけど、とりあえずは人前に出ることからはじめようと思って。
そうしたらちょうどプライマルがツアーに帯同するギタリストを探しているって話を聞いて、連絡を取ったんだよ~」
―と、いうことはもしかするとプライマルには正式加入したわけではない?
唯「そうだね。とりあえずツアーには参加するけど、その後のことは決まってないよ」
―そうだったんですか。てっきり正式加入されたものかと思っていました。
唯「プライマルと私じゃ、音楽性がちょっと違うし、それにプライマルのメンバーは1度や2度ならまだしも毎晩毎晩私の弾くギー太の轟音を聴いていたら耐えられないと思うよ~」
―(笑) しかし、それならばどうしても聞かなくてはいけないことがありますね。
唯「ああ、やっぱり? そう来ると思ってたんだ~」
―単刀直入に聞きます。放課後ティータイムの次のアルバムはいつ出るんですか?
唯「う~ん、いろいろアイデアはあるんだよ。今度はドラムンベースに轟音ギターを乗せてみようとか、
ダンスミュージックっぽいのをやってみようとか、それでデモテープを作ったりはするんだけど、
ほら、わたしって、すごく凝る人だし――」
―『コントロールフリーク平沢唯』ですか。
唯「そうそう(笑) だからいつも時間ばかりむだにかかっちゃって、
気付いたころにはそんな新しいアイデア自体が古くなっちゃってるっていう繰り返し」
―メンバーとは連絡は取り合っているんですか?
最近では
秋山澪と
田井中律のアクアブルー・ストライプスに
中野梓が加入するなんて話もありましたし、
琴吹紬も実はムギカル・シスターズ名義で活動しているという噂がありますよね。
唯「みんなとは連絡は取っていない、というより、取れないんだ」
―それはかの名盤『らぶれす!』のレコーディング中にメンバー間の不和が表面化したから?
それが現在までのHTTの活動休止の原因だなんて言われていますよね?
唯「不和……というか……私がいけないんだけどね。とにかく、あの『らぶれす!』アルバムは素晴らしい出来だったけど、
そのかわりに犠牲にしたものが多すぎたんだ。今思えばわたしも若かったんだね……」
―『らぶれす!』は殆ど貴方独りで作ったもので、HTT名義と言えども実質は『平沢唯のソロアルバム』なんていう評価も今ではされていますよね。
唯「どうしてそういう風に言われるか、わたしにはわからないよ。
たしかにあのアルバムでの殆どの楽器をわたしは演奏したし、ミックスもマスタリングも殆ど全部一人でやったけど」
―やっぱり、ソロアルバムじゃないですか。
唯「でも曲の殆どの歌詞は澪ちゃんが書いたやつだし、ムギちゃんやりっちゃんが書いた曲だってあったんだよ?
それにあのアルバムの大元のコンセプトは、あずにゃんに影響されて出来たんだから」
―そ、そうだったんですか……。
しかし、それだけの傑作が現時点でHTTのラストアルバムになってしまっているわけですが……やはりHTTはもう終わってしまったのでしょうか。
唯「終わってないよ!」
―え!?
唯「HTTは終わってないよ! HTTが終わったかどうかを決めることができるのは私たちだけだし、勝手に外野に決められたくないよ!」
―す、すいません……。しかし、HTTが終わっていないということは、活動を再開する可能性もあると?
唯「当然だよ。今はまだその時期じゃないかもしれないけど、いつか絶対にHTTは戻ってくるよ! それももうすぐ……もうすぐだよ! 英語でいえばSoon!」
―それでは、HTTの新たな音が届けられる日を、我々は待っていてもいいんですね?
唯「そういうこと!」
―今日はどうもありがとうございました。プライマルでのギタープレイも楽しみにしています。
唯「おーでぃえんすの鼓膜を突き破るくらいでっかい音でギー太を弾くから、楽しみにしててね!」
律「……どうだった?」
ページを閉じ、静かに雑誌を置いた私を気遣うように律先輩は恐る恐る声をかけてくれました。
澪先輩も心配そうな様子で私を気にしています。
しかし、私はそんな二人の様子も気にならなくなるほど……泣いていました。
最終更新:2010年05月23日 00:07