私はひたすら壁掛け時計をにらんでいた。
十二時二四分。
時計というのは不思議なものでこっちが早く動けと念じてにらむと逆に秒針の動きは遅くなる。
いや、そもそもにらもうがにらむまいが時間の進み具合は変わらない、か。
授業終了まで残り三六分。
この授業を乗り切ればいよいよ昼休み。
ああ……早くお弁当が食べたい。今日はご飯の上に昨日の残りのから揚げを大量にのせた私特製のから揚げ弁当。
二日目のふにゃっとしたから揚げと多少固くなったお米の庶民的な組み合わせの味に、思いを馳せてると急にお腹が鳴った。
ぐううぅ~
私の隣の席で板書していた梓の手が止まった。
我輩は猫ではありません。ただの女子高生です。なんちゃって。
そしてそんな女子高生である私の耳にも隣の席からのお腹の虫の音は、はっきり聞こえてきました。
思わず手を止めてしまった私を、隣の席に座っている純がにらんできました。
いやいや、どうしてそんなとがめるような視線を私が浴びなければいけないのでしょうか。
本人には自覚が無いかもしれませんが花の女子高生のお腹の虫の音にしてはいささか大きすぎるように思えます。
猫じゃなくても聞こえますよ。ほら、みんなだってこっちを向いて……
梓「ぷっ……」
あ、笑ってしまったのはあれです。
いつかムギ先輩が私に見せてくれたマンボウの真似を思い出しただけです本当です。
人間が物事に集中するのにはおおよそ三十分の時間がかかり
さらにその集中力が継続される時間はだいたい一時間半程度だと言われている。
つまり二時間を勉強一回分と考え、休憩を挟みつつそれを繰り返すのが理想の勉強のスタイルらしい。
中学生の頃に通っていた塾の講師がそんなようなことを話していた気がする
しかし、だとしたら学校の授業が一限、五十分に設定されているのはなぜだろう……
……などと自分で言うのもおかしな話しだけど、私にしては珍しく授業中に授業と全く関係のない内容にうつつをぬかしていた。
授業が終わるまであと三十分。
ランチタイムまであとちょっと。頑張ろう。
後の祭というのか後悔先立たずというのかとにかく私が自分の致命的なミスに気づいたのは、今から約一時間前のことだった。
普段は絶対にしない古典の宿題をして意気揚々と学校に行ったまではよかった。
しかし、三限と四限の間の休み時間に小腹がすいたので早弁と洒落込もうとして私はとんでもないことに気づいた。
緊急事態!オーノー!弁当を忘れた!
いやいやいやいや、宿題をやらなかったり教科書を忘れたりするのは私にとっては日常茶飯事だが、まさか弁当を忘れるとは。
なんでもっと早く気づかなかったんだろう。
家に出る前に、なんて贅沢なことは言わないがせめて学校に着くまでに気づいていれば……
さすがに昼抜きで午後の授業を乗り切るのは私には無理だ。
こうなったらみんなの弁当からお裾分けしてもらうか?
でもそれだと絶対に足りないし、そうじゃなくてもいちいちみんなから貰うのは心苦しい。
どうしよう。大ピンチだ。
このままではりっちゃん隊員は放課後のティータイムにありつく前にくたばってしまう。
早急に対策を練らねば……!
ピシッ
板書してある内容を片っ端からノートに写していたら不意にシャープペンの芯が折れた。
カチカチカチカチッ
どうやら今ので中の芯が完璧に切れてしまったらしい。
私は手を休めて新しい芯をシャープペンに入れることにした。
しかし、本来芯を入れるはずの部分についていた消しゴムは酷使した結果、削れてしまっていた。
これでは消しゴムを外せない。
仕方なく先端部分から芯を入れようとするが、今度は芯が詰まっているのか上手く入らない。
澪「……む」
思わず唸ってしまった。
他のものに変えればそれで済む話しだったけど安易に他のペンに変えるのは何か悔しい。
澪「こうなったら……」
とりあえず先端の辺りで詰まっている芯を取り除けば入れることができるだろう。
私はシャープペン本体を解体することにした。
お勉強にはぴったりのぽかぽか陽気のおかげで私はいつもより集中して授業に取り組むことができていた。
この時間は世界史の授業。
誰だってきっとそうだろうけど、やっぱりできるなら私も勉強の時間はなるべく減らしたい。
そういうわけで、普段から授業中は他事には気を払わないで、先生の言葉にのみ集中するように心がけている。
でも……うららかな陽気は私を睡眠へと誘おうとしていた。
一瞬寝たいという欲求が頭を掠めだけれど、そんな誘惑には負けちゃだめ。
あと三十分もしないうちにお昼休みだもの。
毎日の楽しみのひとつであるみんなとのおしゃべりの時間がもうすぐ来る。
今日はどんなことを話そう?
「――ここでよく皆さんが勘違いするのは奥さんがお嬢さんの了承を得ずに勝手に――」
現在、先生が熱心に話しをしているのは夏目漱石の彼の名作についてですが
私は昨日お姉ちゃんと一緒のベッドで寝ていたせいで田山花袋の蒲団を思い出していました。
先に断っときますが、別にお姉ちゃんのベッドで眠りについたからと言って変なことはしていません。
まさかお姉ちゃんの匂いが染み込んだベッドを嗅いだりだとか、自分の鼻水をベッドにつけたりだとか
とにかくそのような人間としての品性を疑われるようなことは、お姉ちゃんと神様と仏様に誓って一切していません。
ただ、仲睦まじい姉妹らしく二人で抱き合って寝ていただけなんです。
「――まあ、そもそも田舎の出身で恋愛もしたことのないわたしやKのことなど奥さんやお嬢さんからしたら――」
さて、あと三十分程度の時間でお昼休みです。それくらいの時間はきちんと授業に集中しましょう。
姿勢を正して、黒板に書いてあることを書き取ろうとしていると
鞄の中をごそごそと探っている純ちゃんが私の視界に入ってきました。
何をしているんでしょう?
【PM 12:37 鈴木純】
基本、私はある程度の我慢はできるタイプの人間だ。
少なくとも自分ではそう思っている。けどやっぱり私も青春を謳歌する女子高生。
一度自覚してしまった空腹にはさすがにあらがえないみたいだった。
というわけで、私は鞄から、下敷きはどこいったかな~、とか探すふりをしつつ
お弁当と一緒に用意しておいた、たけのこの里をこっそり頂こうと鞄を漁っていた。
純「ん?」
おかしい。
これはおかしい。ううん、おかしいとかそういうレベルじゃない。
もしかして、いや、もしかしなくてもまさか私はしでかしてしまったのか?
私は。
お弁当を忘れた。
はい、ここで問題。私こと鈴木純の三種の神器はなんでしょうか?
回答時間は三秒………………はい終了。
答えはお弁当と携帯電話とベースでした。
それにしてもお弁当を忘れるなんて。いったい私はこの先どうやって生きていけばいいんだろう。
しかも今日はお気に入りのから揚げ弁当だったのに……。
こうなったらタイムマシーンでも作って過去にさかのぼろうか?
いや、それよりもどこでもドアを作って家にさっさと帰るほうがいいかな?
もう考えるのもメンドクサイなあ。
ドラえもんを作るのが一番手っ取り早い気がする。
ドラえもんなら秘密道具とかでお昼ご飯を出すのも朝飯前なんだろうなあ。
ん?お昼ご飯なのに朝飯前?
意味がわからなくなってきた。私はもうダメがもしれない。
ていうか私がドラえもんになるのが、この問題を解決する一番の近道なんじゃないのかな?
【PM 12:40 秋山澪】
「――そもそもヘンリ8世がなぜ首長法を制定したのかと言うと彼の妻であるカザリン――」
「せんせーい!カザリンがキャサリンになってまーす」
三分かけてようやくシャープペンを直し、再び動き始めた私の手が再び止まった。
キャサリンと書いてしまった部分をカザリンと書き直すために消しゴムで消そうとして――
ぐしゃっ
澪「……!」
力を入れすぎたのかノートがしわくちゃになってしまった。
せっかく丁寧に書いていたのに……。
どうしよう書き直そうかな?
【PM 12:41 琴吹紬】
「――先生は今カザリンをキャサリンと誤って書いてしまいましたが、別にこれは間違いではなく――」
そういえばキャサリンという名前には様々な派生があると聞いたことがあった。
単純に読み間違えてしまう場合もあるらしいけど、国によって読み方が違うらしい。
そうそう。名前と聞いて次に思い出すのは唯ちゃんのギターのことだった。
唯ちゃんのギターには名前がある。ギー太っていう素敵な名前が。
どうやら唯ちゃんにとって、あのレスポールのギターは男の子らしい。
そういえば、最近は澪ちゃんや梓ちゃんまで自分の楽器に名前をつけていたっけ。
エリザベスにムッタン。
どちらもとってもいい名前だと思う。
私も自分のキーボードに名前をつけてみようかしら。
たとえば……キーボーなんてどうだろう?
【PM 12:44 中野梓】
今日の天気はお昼ねをするのにまさにぴったりでした。
猫じゃなくても思わず寝てしまいたくなるようなぽかぽか陽気に睡魔が活動し始めたみたいです。
私のまぶたは徐々に重くなっていきました。
純「先生!」
梓「!?」
純の鋭い声がまどろむ私を起こしました。
この娘は、授業中は静かにしていなければならないということを教えてもらわなかったのでしょうか。
私は隣で突然立ち上がったクラスメイトにとがめるような視線を送ってみましたが、彼女はまるで気づいていませんでした。
純「先生。目眩がするんでちょっくら保健室に行ってきてもいいですか!」
妙にキビキビとした純はお腹を押さえてそう言いました。
どうして目眩がするのにお腹を押さえるんでしょうか?
【PM 12:46 鈴木純】
私のオスカー女優も目の玉を飛び出してしまうような素晴らしい演技に
現代文の教師は完璧に騙されたらしく、あっさり保健室に行くのを許してくれた。
ちょろい!
まあでも、空腹のせいで少し目眩がするような気がしないでもないので全くのウソってわけでもないんだけど。
さて、なぜ私がこんなウソをついたのか説明してさしあげよう。
そう。私は思い出したんだ。
この学校に購買があることに!
つまり食料ゲットは簡単にできるということだ。
でもでも、問題が全くないわけでもない。
購買のパンは意外と人気があるわりに販売数は多くない。
つまり、お望みのパンが手に入る可能性は高くない。
ましてゴールデンチョコパンを手に入れるのは至難と言っても過言ではないと思う。
最悪の場合、コッペパンのお世話になるかもしれない。
コッペパン。
コッペパンだけはイヤだ。絶対に絶対にイヤだ。
梓や憂が色彩豊かな美味しいお弁当を食べている中、私だけ味も見た目もそっけないコッペパンを食べる。
なんて貧しいランチタイムなんだろう。
しかも梓も憂も基本的に優しい性格の持ち主だから、
憂『純ちゃんかわいそう……』
梓『お母さんがお弁当を作ってくれない上に、購買で一番安いコッペパンを買ってくるなんて……』
憂『あんまりにもかわいそうだから私のタコさんウインナーあげるね』
梓『私のうさぎの形したりんごもあげるよ』
なんて、同情を誘うような風景がお昼休みに待っているのかと思うと、背筋に氷水を流されたかのようなゾッとした気分になる。
しかし心配はご無用。今回私にはとっておきの秘策がある。
純「さて、狙うはもちろんゴールデンチョコパン!」
【PM 12:50 田井中律】
よく考えるまでもなく、私は購買で食料を手に入れればいいことに気がついた。
だがしかし、だがしかし!。
購買のパンの競争率の高さはハンパじゃない。
過去に私も購買の争いに参戦したことがあるけど、これがすごいすごい。
女子高とは思えないほどの押し合いへし合い。
うっかり間違ってオバサマたちのバーゲンセールスに迷い込んでしまったのかと思うほどだった。
購買の激闘は私のような可憐でほっそい身体の女子にはとてもじゃないけど、キツすぎる。
柔道部部員とかは特にヤバい。マジででかいし太いしで、一回かるーくミンチにされた。
正直購買にはいい思い出がないけど、背に腹は変えられない。
……んーところで背に腹は変えられないってどういう意味だっけ?
【PM 12:53 秋山澪】
「――ところでヘンリ8世と言えばロリコンでエロくて有名ですが――」
「せんせー、ロリコンでエロいについては書いたほうがいいですかー?」
「欄外にでもメモっといて下さい」
今度はエリザベス1世をエロザベス1世と書いてしまった。
しかもオレンジのペンなので消しゴムで消すこともできない。
澪「……」
でも大丈夫。こういう時に備えて修正テープを用意してある。
これさえあれば何度間違っても安心。
澪「……?」
あ、あれ?
おかしいぞ?
なんでテープが出てこないんだ?
嫌な予感がして確認してみると案の定テープが切れていた。
私はノートをひきちぎった。
【PM 12:54 真鍋和】
「――今渡したプリントはきちんと保管して下さい」
「せんせーい。プリントが三枚足りませーん」
「えーそれでは……」
視線を感じて私は顔をあげた。
「すみませんが、真鍋さん」
和「はい」
「このプリントを職員室に行ってコピーしてもらっていいですか?」
もちろん私は頷いた。
【PM 12:56 平沢憂】
地球温暖化が関係あるのかは知りませんが、ここのところ蒸し暑い日が続いていたので今日のようなからっとした天気は久々でした。
しかし、照りつける日差しは夏を象徴するかのように鋭く、気温も決して低くないので過ごしやすいとは言い難いですが。
ちなみに私の席は窓に一番近い廊下側なので比較的風が通るので過ごしやすいです。
今し方、保健室に向かった純ちゃんも窓側付近で、しかも一番後ろという絶好のポジションに陣取っています。
「――わたしがお嬢さんを好きだということはとっくに二人にはばれていたわけです。つまりこの話は――」
不意に私が身を乗り出ししたのは、先生の話に興味が湧いたからではありません。
私は窓から廊下を見ました。より正確に言うなら廊下を我が物顔で歩いている黒ネコを。
にゃあ~
ほんのわずかの時間だけネコさんと目が合いましたが、ネコさんはすぐ目を逸らすと
そのまま教室を横切っていきました。
最終更新:2010年06月01日 00:12