粉雪の降る早朝、わたしは独り、学校への道のりを歩いていた。
時折吹く冷たい風が、さらされた顔のほおを容赦なく突き刺す。
厳しい十二月の寒さに、わたしは思わず体をふるわせた。
口から吐き出したささやかな息は、白い色取りを添えて、辺りに霧散する。
よりそうようにして一緒に登校していた妹の姿は、今はもういない。
いつだったか二人でいっしょに巻いたマフラーは、その長さを余らせ、寂しげにたなびいていた。
「ういー・・・」
自分でも知らないうちに、わたしは妹の名前をつぶやいていた。反応の返ってこない言葉は、行き場所を失ってさまよい、消える。
冬の朝独特の静けさが、頼りないわたしの鼓膜を引き裂いたような、そんな気がした。
「おはよー」
わたしは学校に着くとまず、クラスの親友たちにおはようの挨拶をする。
乾燥した空気のせいか、思ってたよりもうまく、言葉を発することができなかった。
「おっすー唯」
そんなことは気にも留めず、りっちゃんは元気よく挨拶を返してくれた。
教室は暖房をつけたばかりで、たいして暖まっておらず、わたしは身を縮こませた。
それに対してりっちゃんは、普段どおりはつらつとした表情をみせている。
「おはよ唯」
「おはよう唯ちゃん」
澪ちゃんとムギちゃんの二人も、わたしに笑顔をみせて挨拶してくれた。
そんな当たり前のことがわたしにはすごく嬉しくて、思わず顔をほころばせる。
「みおちゃ~~~ん。寒かったよ~~」
「わわっ!?冷たいからやめろって唯!」
気持ちが昂ぶったわたしはつい、澪ちゃんに抱きついてほおずりしてしまった。
澪ちゃんが必死になって抵抗する。でも嫌そうな感じはまるでない。
澪ちゃんの、やわらかくてかすかに甘い、そんな匂いがわたしの鼻をなでた。
そのあとわたしは、少し離れた席に座ってる和ちゃんに話しかける。
何か書き物をしていた和ちゃんが顔をあげてくれた。
「おはよー和ちゃん!」
元気よくわたしは声をかける。
「あら・・・。おはよう唯」
でも、和ちゃんは素っ気なかった。
それどころか、今まで書き物をしていた紙を机にしまって、ペンをケースにしまうと、
和ちゃんはすぐさま教室の外へと出て行ってしまった。
空になった机と椅子だけが、わたしとともにとり残される。
最近の和ちゃんは、ずっとこんな感じだった。
むこうから話かけてくれることはほとんどなく、わたしから話しかけても、
今みたいにすぐ会話を切り上げて、どこかに立ち去ってしまうことがほとんどだった。
今までずっとそばにいてくれた幼馴染のそんな態度に、わたしは胸を締めつけられるような気持ちにさらされた。
「ハハッ、ふられちまったな~唯」
りっちゃんが近寄ってきて、わたしの肩に手をかけて茶化す。
気を使ってくれてるのだろう。
そんな心遣いに、わたしは素直によろこんだ。精一杯の笑顔でりっちゃんにこたえる。
「あれれ~。ふられちった~。りっちゃんなぐさめて~」
「しかたないな~。わたしの胸でめいっぱい泣きなさい!」
遠慮せずにわたしは、思い切りりっちゃんの胸に飛び込んだ。
痛んだ胸がほんの少しだけ、やわらいだような気がする。
「はっはっは。かわいいやつめ。…って唯!顔をあんまりくっつけるな!ちべたいっ!!」
一日の授業が終わると、わたしは真っ先に軽音部の部室にむかった。
りっちゃんたち三人は、クラスの掃除当番なので後から遅れてやってくる。
わたしは部室までの階段を、いっきに駆け上がった。
肩にかついだギー太が、段差を昇るたびにユサユサと揺れる。
「いっちば~~~ん!!!」
両開きになっている部室の扉を勢いよく開けると、おもいきりそう叫んだ。
誰もいない部屋に、わたしの声が響きわたる。と思ったらそこには、先客がいたようだった。
「なに言ってるんですか唯先輩。一番乗りはわたしです」
そう言ってあずにゃんがひょっこりと顔を出す。
どうやらソファの影になって見えなかったみたいだ。
大きな瞳で、わたしの顔を見つめてくる。わたしはあずにゃんに近寄ると、力いっぱい抱きしめて愛情を表現した。
「ごめんよあずにゃ~~~ん。あんまりちっちゃくてかわいいから、最初はわからなかったんだよ~」
「ちっちゃいってなんですか!!あとあんまり強く抱きしめないでください!苦しいです!」
そう言ってあずにゃんは、首を振って抵抗する。
その姿があまりに愛らしくて、抱きしめる手につい力がこもってしまった。
あずにゃんのちっちゃな体はなんだかやわらかくて、本当に猫を抱いているように錯覚させられる。
「唯先輩!いいかげんにしてくださいよ!」
あずにゃんが当然の抗議をする。だけどわたしはかまわずに抱擁を続けた。
「ええ~。だってあずにゃんあったかいし。それに今は人肌が恋しくてしかたないんだよ~さみしいんだよ~」
その言葉に突然、あずにゃんがハッとした顔をする。
その瞬間わたしは、腕の中にいるはずの彼女が、まるでここから消え去ってしまったような喪失感に襲われた。
わたしはとっさに、彼女を腕から解放する。
「ご、ごめんね。あずにゃん。わたし、ちょっと調子に乗っちゃったよ。今度から気をつけるね」
そう言ってわたしは、彼女からほんの少し距離をとる。
腕の中に残ったぬくもりが、このうえなく名残おしい。
「い、いえ。わかってくれればいいんです」
彼女はとりつくろうように言う。肩をにぎりしめた右手が、心なしかふるえている気がした。
そのあとすぐ、りっちゃんたちが部室にやってきて、いつもの部活動が始まった。
「はあ…」
学校からの帰り道。辺りは暗闇に包まれており、
弱い光を放つ街路灯がぽつんと浮かび上がるだけだった。
わたしは小さく溜め息をつく。さっきのあずにゃんとの出来事を思い出して、少し胸が苦しくなった。
「あずにゃんに悪いことしたな…」
不用意なことをいって、彼女に苦しい思いをさせてしまった。
あずにゃんは憂の、一番の親友だった。家族とかわらないくらいに、
親愛の気持ちを向けてくれていた子だ。それなのにわたしは…。
肩に担いだギー太が重たくのしかかる。
家につくとわたしは、玄関の鍵をあけてその扉を開いた。
帰りを出迎えるものが誰ひとりいない、冷え切った暗い空間がわたしを待っていた。
無感動な顔で、家にあがる。灯りをともすと、重い足取りのまま階段を昇り、自分の部屋の扉を開けた。
バッグとギー太を置くと、すぐに部屋を出る。
向かったのは、憂の部屋だった。
トントン。部屋の扉をノックする。
「ういー?おじゃまするよー?」
誰もいないはずの部屋にむかって、わたしは断りをいれる。
「ハハ、何言ってんだろわたし…」
自嘲しながら、わたしは中にはいった。
一瞬、なつかしい匂いが鼻をくすぐって、わたしは不思議な光景をかいま見る。
『おかえり。お姉ちゃん』
昔のままの笑顔で出迎えてくれる、そんな憂の姿だ。
だがそんな幻はすぐに、闇の中へと霧散する。いまだにふっきることのできない自分に、我ながらあきれてしまう。
わたしは憂のベッドにもぐりこんだ。
枕をぎゅっと抱えて、体を丸め横になる。かすかに残った憂の匂いが、わたしをつつみこむ。
そうしているとまるで、憂がすぐそばにいるような、そんな気がした。
「憂ー…。どうして…?、どうして死んじゃったの?」
冷たいしずくが、ほおを伝って流れ落ちた。
あれは秋もだいぶ深まった、十月の終わりのことだった。
その日は朝からずっと雨で、部活が終わって帰る時間になっても勢いはおとろえず、
舗装された道路を雨粒が容赦なく叩きつけていた。
わたしはそのころ買ったばかりの赤い傘をクルクルとまわして、上機嫌で帰り道を跳ねていた。
ギー太は、濡れてしまうといけないので学校に置いてきた。
ギー太のことが心配だけど、こればかりは仕方がない。わたしの隣を、やさしい表情の憂が歩いていく。
「すごいうれしそうだね。お姉ちゃん」笑顔の憂。
「そりゃそうだよ~。だってやっと、この子の出番がやってきたんだもん!」
そう言ってわたしは、お気に入りの傘を空高くかかげてみせた。
その拍子に、傘から数滴のしずくがはじける。
「お姉ちゃんてば、傘を買ってからずっと『雨降らないかな~』って毎日言ってたもんね」
「うん!やっと神様にお願いが通じたみたいでよかったよ~」わたしは笑顔で憂に答える。
そんな他愛のない話をしていると、わたしたちは大きな道の交差点にさしかかった。
流れる車の音と歩く人々の喧騒とが混じりあう。
ちょうど歩行者信号が青になっていたので、好都合とばかりにわたしは歩を踏み出した。
「あまり急がないでお姉ちゃん」
少し遅れた憂が小走りでついてくる。
そのときだった。ものすごいスピードの車が、わたしたちに突っ込んできたのは。
突然のことに驚くあまり、わたしはなにがなんだかわからなかった。
呆然として、勢いよく近づいてくる車を見つめることしかできなかった。
不思議な感覚におそわれる。時間の流れが遅くなって、目の前の光景がスローモーションで流れていく、そんな感覚。
頭の中を、いろいろなものが駆け抜けてゆく。
軽音部のみんなや和ちゃんお父さんお母さんたちの顔、そしてたくさんの思い出。
『わたし死んじゃうのかな…』
そんな考えが頭をよぎったとき、わたしは何かに思い切りはじき飛ばされた。
車にではない。人間の手だ。
道路に倒れこんだわたしが、もといた場所をふりかえったとき、
そこにはこちらにむかって手を突き出したまま、体勢を崩す憂の姿が見えた。
車はもう、憂のすぐそばまで近寄っている。
喉がひき裂けそうなくらいの大きな声で、わたしは憂の名前を叫んだ。
けれど、それが彼女に届くことは、永遠になかった。
その後のことはよく覚えていない。
救急車のサイレンや街をゆく人たちのざわめきだけが耳に残っている。
いろんな人たちが私の前にいれかわりたちかわりやってきて、何かを尋ねてきた気がしたけど、
そのときのわたしにはただ、わずかにうなずいたり首を横にふったりすることしかできなかった。
暗闇の中、ふと物音がして、わたしは目をさました。
どうやらいつのまにか眠ってしまったみたいだ。まぶたをこすりながら、からだを起こす。
寝ぼけた頭がじょじょに覚醒してゆく。
物音の原因をさがして、辺りをさがすと、制服のポケットの中で携帯電話が震えているのがわかった。
取り出して確認すると、時刻は夜の22時を回っていた。
思いのほか長い時間眠っていたらしい。
着信を確認すると、さわちゃんからの電話だった。すぐに通話ボタンを押そうとして、わたしは思いとどまる。
正直、今は誰かと話すような気分じゃなかった。
ベッドの隅に携帯を放り投げると、わたしは部屋を出た。
一階に降りるとまず、わたしは洗面所にむかった。
一度顔を洗って、頭をスッキリさせようと思ったからだ。
洗面所の明かりをつける。鏡をのぞきこむと、わたしはひどい顔をしていた。
髪の毛は乱れて寝癖がついており、目元はほんのりと紅くはれていた。眠ったまま泣いてしまったのだろうか。
とにかく、わたしは顔を洗おうとしてまず髪留めをはずした。それを洗面台の端にそっと置く。
そのとき視界の隅に、あるものが見えた。手に取って、しげしげと見つめる。
それは、憂が生前使っていたリボンだった。どうしてこんなところにあるのだろうか。
わたしはすこし疑問に思ったが、あまり気に留めないことにする。
そんなことよりも、わたしはもっといいことを思いついてしまった。
まずくしをかけて、乱れた髪を整える。寝癖を直すのにすこし時間がかかってしまった。
次にわたしは、さきほどのリボンをつかい髪をひとつにまとめてくくった。
そしてふたたび鏡をのぞきこむと、さきほどまでそこにいた
平沢唯の姿はもうどこにもいない。
かわりに映っていたのは、ちょっとだけ目を腫らした、
平沢憂の姿だった。
ひさしぶりに妹の姿を目にしたわたしは、おもわず顔をほころばせた。鏡の中の憂もいっしょに笑ってくれる。
「ただいま、憂」
『おかえり。お姉ちゃん』
鏡の中の憂が、そうこたえてくれた気がした。
翌日の放課後、わたしはさわちゃんに職員室まで呼び出された。
昨日も電話があったけど、いったい何の用だろうか。成績のことだったらどうしよう。軽い不安が首をもたげる。
「それでさわちゃん。今日は何の話?」
職員室の隅にある応接用のソファに座ったわたしは、対面に座るさわちゃんの目を見つめて尋ねた。
「職員室でくらい、ちゃんと先生って呼びなさい…。
今日はね、平沢さんがきちんと生活できてるかどうか質問しようと思ったの。
それにあなた、昨日電話に出てくれなかったでしょ?」
そういってさわちゃんはコーヒーを一口すする。
たちのぼる湯気が、彼女の眼鏡をわずかに曇らした。
コーヒーはわたしの分も用意されていたが、口をつける気にはならなかった。苦いのは好きじゃない。
「え~、ちゃんとできてるよ~さわちゃん。ひとりでも自炊はできてるし、
今日だって朝はやくに起きれたよ~。わたしってばもう、一人前のレディー!」
そういってウインクしてみせる。さわちゃんは溜息をついた。
「本当に大丈夫かしら…。なんだか心配ね。他にはどう?何か変わったこととかない?」
「かわったこと?とくにないけど」
「ほんとうに?どんなささいなことでもいいのよ?」
やけにねばる。いったいなんだというのだろう。
「う~ん。かわったこと…。あっ、そういえば最近、和ちゃんが冷たいんだ~。どうしたんだろ…、わたしのこと嫌いになったのかなぁ…」
そういってわたしはしょげた顔をする。
「真鍋さん?ああ…。別に彼女はあなたのことが嫌いになったとか、そういうわけじゃないのよ。ただ…」
そういってさわちゃんは言いにくそうにする。
「ただ?」
「ただ、彼女も気に病んでるのよ…。あの事故のことをね。
無理もないわ。だから、あまり深く考えなくていいのよ。しばらくそっとしといてあげなさい」
そういってさわちゃんはコーヒーの最後の一口を飲み干した。
「うん…。わかったよさわちゃん」
さわちゃんの話はそれだけで、他にはとくにないみたいだったので、わたしは職員室を後にした。
部屋を出る際に振り返ると、さわちゃんがどこかに電話しているのが目にはいった。
とくに気にも留めずに、わたしはすぐ部室へとむかった。
最終更新:2010年06月01日 21:26