蝉がその歌声を高らかに響かせる九月。
突然気付いてしまった自分の残り時間。
受け止めるまでに何日掛かっただろう。
いや、まだ受け止められていないのかもしれない。
残り時間は一週間。
原因も知っていたはずだった。
でも…思い出そうとしても、何故か頭に靄がかかる。
原因など些細な事なのかもしれない。
それを思い出したところで、何も変わらないのだから。
明日から始まる新学期。
誰にも知られないようにしよう。
いつも通り振る舞おう。
残された時間、精一杯生きてみよう。
最期まで―
最期のその時まで。
「あーずーにゃんっ!」
部室に飛び込むなり、唯は梓に飛び付いた。
驚いた梓の小さな手から、カメの餌が床へと落ちる。
「きゃっ!」
真っ黒なツインテールを揺らしながら、梓が振り向いた。
その頬はぷくっと膨らんでいる。
「ちょ、ちょっと唯先輩!いきなり抱き付かないでくださいよ、もうっ!」
口では文句を言いながらも、梓はほんの少し照れているように見える。
それが唯にはたまらなく可愛いのだ。
唯は梓に抱きついたまま
「えー、だって久しぶりなんだもん。
いいじゃーん」
そう言って頬を摺り合わせる。
「久しぶりって…。三日前に会ってるじゃないですか」
梓は呆れた顔で唯を引き剥がすと、
床に散らばった餌を片付け始める。
「むー…確かに三日前にも会ったけどさっ。
新学期一発目ということで!」
三日前、軽音部の皆でお泊まり会をした。
これだけ聞けば夏休みの楽しい思い出なのだが、実際はただの勉強会。
宿題に全く手を着けていなかった唯と律の為、
軽音部の皆で勉強の手伝いをしたのだ。
飽きっぽい唯と律に悪戦苦闘しながら、
なんとか宿題を終わらせ、今日この新学期を迎えた。
「もういきなり抱き付いたらダメですからね」
床を綺麗に片付けた梓が、溜め息混じりに注意する。
「じゃあ抱き付く宣言してから抱き付くね、あずにゃんっ!」
満面の笑顔で答える唯に、梓はもう一度大きな溜め息を吐く。
「そういう問題じゃありません!」
「ちぇー…あずにゃんのケチー」
露骨に寂しそうな顔をする唯に、
たまになら…と梓の心が一瞬折れそうになる。
「まったく…これじゃどっちが先輩か分からないな」
二人のやり取りをいつから聞いていたのか。
澪が部室の入り口に立ち、呆れた顔で笑っていた。
「おーっす」
澪の後ろから、律がひょこっと顔を出す。
「おー、梓ー。久しぶりだなー」
そう言いながら、無造作に鞄を床に置き、
ドカッと椅子に腰を下ろした。
「律先輩まで…三日前に会ってるじゃ…」
「みんな、お茶にしましょう」
梓の言葉を遮るように、紬が部室に入って来る。
鞄を丁寧に置くと、棚からティーカップを取り出していく。
梓は今日三度目の溜め息を吐くと、
仕方なく椅子に腰を下ろした。
「ムギちゃんムギちゃん!今日のおやつは何!?」
「ふふふ、じゃーん!」
身を乗り出している唯の目の前で、
紬は綺麗に包装された箱を開けた。
「おー!りっちゃん見て見て!」
「すげー!マク…マクロン!」
「違うよりっちゃん!マキロンだよ!」
「マカロンだ…」
机に片肘をついた澪が、呆れた顔で呟く。
そんなやり取りを見ながら、紬はふふっと小さく微笑んだ。
部室での楽しいティータイムも終わり、
気付けば校舎は静けさに包まれていた。
先程まで聞こえていた生徒達の笑い声も無くなり、
今は蝉の鳴き声だけになっている。
新学期初日。
ホームルームと全校集会だけの日程なので、
夕方まで残っている生徒は少ないのだ。
「もうこんな時間か」
澪は壁の時計を確認する。
時刻は午後四時を回ったところだった。
「じゃあ少し練習してから帰るか」
そう言って澪はベースに手をかける。
ところが―
「えー、帰ろうぜ澪ー」
「私もりっちゃんに賛成ー!」
唯と律はだらしなく机に突っ伏し、
手足をパタパタさせている。
いつもの事なので、澪は耳を貸す事はしない。
「ダメだ。軽音部はお茶する為にあるんじゃないんだからな」
「そうですよお二人共。私は澪先輩に賛成です」
梓も澪に加勢するが、これが効果無しというのは梓にも分かっている。
紬は相変わらずニコニコとそのやり取りを眺めていた。
「ほら、律!唯!練習だ!」
澪は二人の首根っこを掴むと、
無理矢理起き上がらせる。
しかし手を離すとグニャリと元の姿勢に戻ってしまった。
まるで軟体動物だ。
「あははー、なんかタコになった気分だねー、りっちゃん」
「あははー、そうだな唯ー」
ヘラヘラと笑う二人に、澪の怒りがフツフツと湧き上がる。
しかし澪は軽音部の中ではしっかり者で大人だ。
その怒りを抑え、もう一度説得しようとする。
が―
「ねぇねぇ澪ちゃん。今のもっかいやってー」
「澪ー。もっかいタコやってー」
それは無駄な努力に終わった。
「おまえらぁぁぁ!」
二人の頭に雷が落ちたのは言うまでもない。
「ちぇー、澪の分からず屋ー」
頭に出来たコブを撫でながら、
律が口を尖らせる。
「律、お前は部長だろ。もっと部長らしくしたらどうだ」
そんな澪の小言を聞いた律の目が、
何かを閃いたかのように見開かれた。
「よし!部長の判断で今日は解散!じゃっ!」
そのまま部室から出て行こうとして―
澪に腕を掴まれる。
「おい、律」
「というのは冗談でー…てへ」
律は舌を出して誤魔化す。
どうやら練習は避けられそうになかった。
しかしここで唯が助け舟を出す。
「りっちゃんりっちゃん…ごにょごにょ…ごにょごにょ」
唯が何かを耳打ちすると、
それを聞いた律の顔がみるみる明るくなっていく。
「な…なんだよ」
そこはかとなく嫌な予感がする。
澪はじりじりと後ずさりした。
「よし、練習する!でもその前に小話をひとーつ!」
「は?」
「え?」
呆気にとられる澪と梓。
紬は相変わらず楽しそうに見守っている。
「それは…ある夏の出来事でした」
「お、おい律」
「ある軽音楽部の少女が、部室で練習をしていました。
他の部員は皆下校し、部室には少女が一人…
気付けば外は真っ暗です。
そろそろ帰ろうか…少女がそんな事を思っていたその時…
ピチャ…ピチャ…廊下から何か音が
聞こえてくるではありませんか。
ピチャ…ピチャ…それはゆっくりとこちらへ近付いて来ます。
まるで濡れた素足で歩くような音…
そしてその音は少女のいる部室の前まで来ると…」
ガチャン!
律がそこまで話した時、突然部室のドアが開いた。
「ひぃぃぃぃぃぃ!」
「ぎゃぁぁぁぁぁ!」
あまりに突然の出来事で、話していた律さえも悲鳴をあげる。
「え?な、何?というよりもあなた達まだいたの?」
そこには呆気にとられた和が立っていた。
「なんだー和ちゃんだったんだ!びっくりしたー!」
「ちょっと唯、一体これは…」
和の視線の先に、耳を塞いでうずくまる澪がいた。
「怖くない怖くない怖くない怖くない怖くない…」
自分に言い聞かせるように、必死にブツブツ呟いている。
「な、何でもないよ和ちゃん。それよりどうしたの?」
「私は生徒会の仕事。下校時間過ぎてるから見回りしてたの。
唯、あなた達ももう帰らなきゃダメよ」
唯が時計に目をやると、いつの間にか下校時間を過ぎていた。
「じゃあ私行くね」
和はそう言って部室から出て行く。
何のことはない。
結局練習する時間など最初から無いに等しかった。
唯と律、二人の無駄な抵抗は何だったのか。
練習嫌いな先輩を眺めて、
梓はそんな事を考えていた。
(でも…やっぱり楽しいな)
梓は窓の外を見つめる。
あとどれくらいこの素敵で無駄な時間を過ごせるのだろう。
どんなものにも必ず終わりはやって来る。
梓はそんな終わりを振り払うように、小さく首を振るのだった。
「でね、澪ちゃんってばなかなか立ち上がれなくてね」
「ふふ、澪先輩は怖がりだもんねー」
テーブルに料理を並べながら、憂が優しく微笑む。
あれから澪を立ち直らせるのに手こずり、
家に着いたのは午後七時を過ぎた頃だった。
玄関を開けるとカレーの匂い。
それが唯の胃袋を刺激した。
鞄を放り投げ、急いで着替え―
今こうして夕食の時間だ。
「さ、お姉ちゃん。食べよ」
火から下ろしたばかりの鍋の中、
カレーがポコポコと泡を作っている。
憂はカレーを皿によそうと、唯の前に差し出した。
「いっただっきまーす!」
余程お腹が減っていたのか。
唯は熱々のカレーを一気に頬張る。
「お姉ちゃん、そんなに慌てて食べたら…」
「ぅあちっ!」
憂の忠告も虚しく、案の定唯は舌を火傷してしまう。
「だから言ったのに。お姉ちゃんってほんと慌てん坊さんだね」
キンキンに冷えた水を差し出しながら、
憂は呆れたように微笑んだ。
端から見ればどちらが姉か分からないような光景。
しかし憂にとっては世界に一人の大切な姉なのだ。
「てへへ。ありがとー、うーいぃ」
繰り返される穏やかで幸せな日々。
また今日も一日が終わっていく。
…
「はぁ~」
深い深い溜め息。
澪はペンを置くと、背もたれを軋ませながら大きく伸びをする。
家に帰って食事を済ませ、お風呂にも入った。
今はこうして机に向かっている。
新しく歌詞を書く為に。
しかし一向にはかどらなかった。
(気分が乗らないな…)
澪は机のライトを消すと、ベッドに倒れ込む。
目を閉じれば、見えないものが見えるような気がした。
どこかで鳴いているカエル。
窓から吹き込む柔らかい風。
どれも目には見えないが、確かにその光景が思い浮かぶ。
(ずっと…ずっとみんなと一緒にいれたら良いのにな…)
軽音部の皆と過ごす楽しい時間。
この先軽音部の皆と、永遠に一緒にいられる保証はない。
むしろ皆それぞれ進む道が違う可能性の方が高いかもしれない。
楽しい時間―
澪はそれを"曲"という形あるものに変え、
皆と永遠に繋がっていたいと思っているのかもしれなかった。
(ずっと……ずっ…と…)
そして―
澪は深い眠りに落ちていった。
…
明日は何を持って行こうか。
紬はベッドの中でそんな事を考えていた。
毎日ケーキやクッキーを持って行き、
皆でティータイムを楽しむ。
自分がいつこんな事を始めたのか、
紬は正確には覚えていなかった。
ただ―
いつからかそれは軽音部に欠かせないものになり、
放課後ティータイムというバンド名にもなった。
紬はそれがとても誇らしかった。
皆の様に前へ出る事も少なく、
世間一般の常識だって疎い。
そんな自分でも、ティータイムを通して
軽音部に少しは影響を与えられたのかもしれない。
紬はそれが嬉しかった。
(唯ちゃんやりっちゃんには…悪影響だけど)
紬の脳裏に、おやつに夢中で練習しない二人が浮かぶ。
それを見て呆れる澪と梓。
そんな光景に、思わず笑みがこぼれてしまった。
(…明日も素敵な一日になりますように)
そう呟くと、紬は静かに目を閉じた。
…
「ふんふんふーん」
鼻歌混じりにドラムのスティックで机を叩く。
最初はゆっくりと。
そして徐々にスピードを上げていく。
律の頭には、軽音部のメンバーの背中がはっきりと浮かんでいた。
もうずっと見てきた背中。
他の楽器の様に目立ちたいと思った事もあった。
でも今はそんな気持ちはない。
皆の背中を見守りながら、ドラムで音の土台を作る。
その上に皆が思い思い音を重ねていく。
それが今はとても楽しいのだ。
「いっえーい!」
テンションの上がった律は、
つい大きな声を出してしまった。部屋のドアが開き、弟の聡が顔を出す。
「ねーちゃんうるさい」
それだけ言うと、聡はドアを閉めてしまった。
(小さい頃は、お姉ちゃんお姉ちゃんて可愛かったのになー)
大人になっていく聡を見て、寂しいような嬉しいような―
律は複雑な気持ちだった。
(私も…大人になってくんだよな)
人は何かを失いながら、そして失った分
何かを得ながら成長していく。
失うのは小さなものだけとは限らない。
夢や希望、好奇心や純真さ―
今自分が持っているものも、
この先どうなるかは分からなかった。
(でも…バンドの皆と過ごす時間は…
失いたくないなー)
律はスティックを大事に鞄にしまうと、
部屋の灯りを消した。
皆との楽しい時間を思い出しながら、律は眠りにつく。
最終更新:2010年06月15日 00:25