純「それで、理由は不明なんだけど私は、自分がいる世界が鏡の世界だって知るわけ」

憂「へえ」

純「で、全員、性格が違うんだって」


鈴木は二つ目のハンバーガーに取り掛かった。

この女は食べるのが早すぎるから、満腹中枢が満たされず、結果よく食べる。


中野よりも半人前分くらい多く食べる。そのため作る弁当の量は、鈴木の方が必然的に多くなる。


憂「鏡だからみんなの性格も反対ってこと?」

純「うん。憂なんて、なんか明るくてニコニコしててすごく社交的なタイプになってたよ」

それは、つまりリアルの私は暗くてブスッとしてて
全然社交的でないということだろうか……いや、全くもって否定できないし、自分でもそれは認めているのだけど。

自覚はしているが、人に言われるとツライものがある。


純「でもさ、改めて考えてみると変な話だよね」

憂「何が変なの?」

純「だって性格は鏡に映らないしさ」


――性格に形もくそもないでしょ?

真っ直ぐに見つめてくる、鈴木の瞳に理由も分からず、私は心のどこかがざわつくのを感じた。



それから鈴木は本当に珍しいことに、その壊れた機関銃のように動かし続けていた口を休めて、窓の外を見た。


鏡の世界。

あるいは、平行世界。

仮に、私のいる世界以外の世界があったとして、その世界の私はどんな人間なのだろう。


鈴木の言った、全く別の私が、そこには存在しているのだろうか。

或いは、人間としてはまるで変わらず、環境だけが全く違う世界があるのかもしれない。


もしかしたら、名前すらも全然違う、平沢憂がいるのかもしれない。

純「名前……」

不意に鈴木は小さな呟きを漏らした。


純「さっきの鏡の世界の話だけど……今、思い出したんだけどね」


なぜかは理由は分からなかったけど、私は口をつけかけたストローから唇を離した。

そして、わけも分からず姿勢を正す。


純「?……どうしたの?」

憂「別に」

純「まあいいや。で、さっきの話。鏡の世界ではさ、名前まで逆さまになってたんだ」

憂「……」

純「夢の中の私、自分の名前書くだけなのに悪戦苦闘してね。
わりと私、自分の名前好きなんだけど、その時だけはもっとシンプルな名前がいいな、って思った」

本当にどうしようもないくらい、どうでもいい話だった。


けれども。


憂「私は」

純「……」

憂「私は自分の名前が嫌い」

鈴木の話を聞いているうちに肺腑に、得体の知れない鬱憤にも似た何かが蓄積していくのを、私は感じていた。

それをどうしても、誰にでもいいからぶちまけたかった。


どうして私は憂って名前なんだろう。


ずっとずっと昔から思ってた。

『名は体を表す』なんて言うけど、これほど心理だなって思う言葉は他に思いつかない。


憂。

憂い。

まさにこの名前は私そのものだった。


憂「私は憂って名前が嫌い」

もう一度言った。

純「そっか」

憂「……」

純「憂はさ、黒猫を見たらどう思う?」

憂「……」

驚くべきさりげなさで、鈴木は話題を変えた。


純「あ、今急に話題変えるなって顔した」

憂「……」

当たり前だ。

人が珍しく本音を真剣に語っているのに、どうしてそうもあっさり話を変える。


純「まあまあ落ち着いて落ち着いて。クールダウンだって」

私は私の苛立ちを表明するように音を立ててジュースを飲む。
炭酸が効いた、ジンジャーエールはやっぱりすっぱかった。


純「さあ、私の質問に答えよ。汝は黒猫を見たことがあるか?」

憂「ある」


自分の声に含まれた刺にも構わず、私は答えた。



純「そして、その黒猫を見たらどう思う?」

憂「……」


どう思うのか。

別に特に抱く感情なんてないはずだが。

しかし、そこで、私はいつかミルクをあげた野良猫のことを思い出す。

野良猫。全身真っ黒の猫。

その黒猫を見て、私はどう思ったか。


憂「不吉の象徴だと思う」

純「そっか、そんなことを思ってしまうのか……」

どこか愕然とした様子で、鈴木は呟いた。



純「うん、すごい憂はネガティブだよね」

憂「そうかもね」

純「もう全身灰色だよ」

憂「……」

呆れたように鈴木は溜息を漏らして私を見た。


純「こういうのって結局は考え方の問題なんだろうけどさ。黒猫は昔の日本じゃ魔よけになるって言われて、結構大事にされてたんだよ」

憂「本当に?」

思わず私が聞き返すと、鈴木は多分、と胸を張った。

純「まあ、一方で、アメリカでは、悪魔憑きとして魔女狩りで猫は沢山殺されたらしいけどね」

憂「……そう」


真偽は定かじゃなかったが、わざわざこの流れで言う必要はない気がした。


純「ま、まあとにかく何語とも考え方次第ってこと!」


無理矢理、鈴木純はそう締めた。


再び、私と鈴木の間には沈黙が訪れた。

鈴木がジュースを啜る音だけがいやに耳についた。

店内も今日はあまり客がいない。というか、私以外には老夫婦が、いるだけだった。


憂「……あのさ、さっき何事も、考え方次第、だって、言ったよね?」

純「うん?うん」

返事はあやしかったが私は構わずに続けた。

憂「じゃあ、私には、ネガティブなイメージしか、持てない、この名前。鈴木さんにはどう思えるの?」

純「面白い名前、っていうか珍しい名前だよね」

即答だった。そしてまるで私の期待とは違う答えだった。

いや、何を期待してたのかは自分でも判断がつかないのだが。


純「あー、でも……」

不意に鈴木は手をポンっと打った。


純「ほら、憂って漢字使った、うれえる、だっけ?そんな言葉があるよね」

憂「……?」

純「あれ?なかったっけ?」

憂「あるけど……」

そこで鈴木は探偵のように口許に手を当てて、少しだけ黙った。

純「ほら、憂えるっていうのは、ようは誰かのことを心配したり、誰かのことを思って不安になるってことでしょ?」

……だいたいその意味であってるはず。私は頷いた。

鈴木の次の言葉を待ちながら私はストローくわえた。

そして。

鈴木純は得意げな顔をして、私に笑顔を見せた。


純「――誰かのことを思って不安になったり、誰かのことを思い、心配したりするのは――優しくなきゃできないじゃん」


口に含んだジュースの炭酸は、すっかり抜けていた。


空を覆うオレンジ色の帳の下を私は一人、ポツンと歩いていた。


鈴木とは、彼女が帰りに本屋へ行くと言ったので、店を出てすぐ別れた。

憂「……」

さっきから、鈴木が言った言葉が頭から離れなくて、私はその言葉から逃げるように、速歩きで家に向かった。

途中、交差点で赤信号に引っ掛かる。足踏みをして待つ。

信号が青に変わる。

さっさと横断歩道を渡る。さっきよりもさらにペースアップして歩く。

そうして、普段よりもずっと早い時間で家に着いた私を迎えたのは、


梓「やっほー」

なぜか、玄関の前に中野梓がいた。


梓「それっ」

陽光を浴びて、煌めく川の上を小さな石が跳ねた。

梓「こんなのするの久々だなあ。憂は水切りしたことある?」

憂「ない」

梓「ふうん……えいっ」

再びみなもを小石が蹴った。

一回。

二回。

三回……そこまでだった。


憂「私に話って何?」

今、私と中野がいるのは家からそう離れていない川だった。

中野に話したいことがあると呼ばれてここまで来た。

中野は部活の帰りらしい(お姉ちゃんは軽音部の人たちとアイスを食べてから帰るそうだ)。



梓「ごめんごめん。そうだったね」

中野は手をパンパンと払うと、私が座っている隣へ腰を下ろした。

私は少しだけ、離れた。


梓「む……なんで離れるの?」

憂「別に……」

梓「……」

今度は中野が私が離れた分だけ距離を詰めた。離れる。また詰められる。離れる。

梓「……だから、なんで逃げるの?」

憂「別に」

梓「別にじゃ分からないよ」

憂「……」

梓「よいしょ」

憂「近すぎると思う」

梓「だって……こうしないとお喋りできない」


憂「そんなことない」

梓「そうかもね。でも私はこうしたい」

憂「どうして?」

梓「わかんない。でも友達どうしだからいいでしょ、別に」


不意に何かの単語が心のどこかに引っ掛かった。

遅れて私の脳裏には、あの鈴木の言った言葉が浮かび上がる。


純『――誰かのことを思って不安になったり、誰かのことを思い、心配したりするのは――優しくなきゃできないじゃん』


それは、どういう意味なんだろう。

それは……


私は気づくと、中野梓の小さな手を握っていた。


憂「わからない……わからないよ」

梓「憂?」


どうしてこんなにも落ち着かないのか、わからなくて。

憂「自分のことなのに……自分のことなのに」

自分のことなのに、まるで赤の他人のように自分のことが分からなかった。

思い返してみると鈴木純と中野梓と出会ってからだった。
私の胸に自分でもよく分からない感情が去来するようになったのは。

握った手に力を入れる。

梓「憂……」


握り返してくれる中野の手が、妙に心強く感じた。


夕日を映した川面が眩しいからなのか、或いはもっと別の理由なのか、目の奥がツンとして私は空いてる片方の手で目を揉んだ。


梓「とりあえずさ、悩みができたら誰かに相談するのが一番だよ」

憂「……何が悩みなのかが、分からなかったらどうすればいいの?」

梓「そういう時は……」

中野梓がおもむろに立ち上がって、私の手を引いた。

中野が一人で暴走して、あげく、私の秘密が鈴木にばれ、逃げる鈴木を追うハメになったあの日。


あの日のことを私は思い出す。


あの日追いかけた小さな背中は今も小さい。けれども、小さいのになぜか頼もしく見えた。


梓「身体を動かすのに限るよ」

私の手は握ったまま、中野はしゃがんで手頃な石を見つけると、思いっきり川に投げた。


勢いよく小さな石は、水面の上をかけていった。

得意げな顔が振り返った。

梓「憂もやってみようよ」

憂「……私、やったことないよ」

梓「大丈夫だよ。憂ならすぐできるようになるよ」


私はやってみることにした。


憂「あ……」

梓「おお」


七度目の投擲の時だった。

私の投げた薄い石は何度も川面をかけて、向こう岸に辿りついた。

梓「憂、やったね」

憂「……」

梓「憂?」


中野に頬を引っ張られて、ぼーっとしていた私は顔をしかめた。

憂「いたい……」

梓「ご、ごめん。強く引っ張りすぎた」

少しだけ低い位置にある黒髪の下の顔が、申し訳なさそうに俯いた。

憂「え?ううん……」

まるで、夢の中にいるような感覚に私は戸惑う。

先程まで暗幕のように心にかかっていた、しこりのようなものが消えていくのを感じる。

その代わりに次に湧き出てきた感情に、これまた私は戸惑ってしまった。

情緒不安定なのだろうか?

梓「憂?」

またもや黙ってしまった私の頬に今度は引っ張るのではなく、両手を当てた。

この気持ちはなんだろう?

見えそうで見えない感情を探りあてようとしていると、

「あ、あんたたちっ!」

そんな素っ頓狂な声が夕焼け空に響いた。


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最終更新:2010年06月22日 23:21