筆が紙を擦る音は心地よいけれど、やっぱり彼女の声のほうが好きで。

 私は、彼女の明るい可愛い声が聞きたくて、声を掛けた。
 単に、黙られていることが、つらかっただけなのだけれど。

「律、」
「なに?」

 彼女が仏頂面なのは、習字が嫌いだからだ。きっと、そうに決まっている。

 私は筆を置く。本当は、私は字は苦手なんかじゃないんだ。
 そんなことは、お互い百も承知。

 それなのにわざと補習に参加している理由だって。

「なんでもない」
「そうかよ」

 怯えた顔、しないでほしい。私だって馬鹿じゃない。律みたいに、馬鹿じゃない。無謀なことはしない。

「冷たいなあ」
「そうでもないよ。だって、なんでもないとか言うから」
「そっか。あ、そうだ。新しい歌詞、作ったんだ」

 脇目も振らず、一刻も早く終わらすべく課題に集中していた律が、やっとこっちを見た。ちらりとだけれど。
 勿論その顔は嫌な顔だった。

「私は読まないぞ」
「うーん、言うと思ったよ。でもたまにはいいだろ」
「嫌だ、唯にでも読んでもらえよ。喜ぶぞ」
「たまには校正代わりにでもさ。いつも唯も梓も文句言わないんだもんな」
「あームリムリ。っていうか、お前のが国語とか得意だろ」


 お前に向けた歌詞なんだから、なんて律は言ったらどんな表情をするだろうか。

 あえて名前を挙げることを避けたあの子の穏やかな顔を思い浮かべながら、私は少し笑った。
 多分きっと、律の中にも今同じ顔が浮かんでいるに違いないのだ。でも、私みたいに一瞬と違う。
 律の中には、最近、ずっとずっと、あの子がいる。

 そう、二人で出かけたあの日から。

「頼むよ。最近うまく書けなくてさ、律の感想が聞きたいんだ」

 きゅ、と手を握ると、彼女は身体をびくりを揺らした。
 それでも跳ね返したりはしない。だってこれは、友情の範囲。

 あの日、どうして私は律の誘いを断ったのか。どうして二人で出かけてしまったのか。
 今更そんなことを考えても遅い。それに、それだけがこうなった原因じゃないってこともわかってる。


「無理なもんは無理。私にはふわふわとか恋いとかわかんないって」

 目を逸らしながら、絡めた指を自然に解こうとするのを見て、なんだか彼女も慣れてきたものだと妙に感心した。
 心が痛いけれど、痛くないふりをする。だって、律がわからないふりをするからだ。
 私が、律はわかっていることを、わかっていると、わかっているくせに。

 ふと、廊下から足音が聞こえる。規律的なそれは、この教室の前で止まる。
 誰だかなんてわかりきっている。勿論、私には気配や足音であの子を当てることなんてできやしない。
 でも、律の顔を見ていれば。
 いや、恐ろしさを感じるくらい性急に振り解かれた手の痛みで、わかってしまう。

「終わった?」
「いや、まだー」

 教室のドアからひょっこり顔を出したムギに、間なんて空けないで律が答える。
 そうだ。終わったのに無駄なお喋りをしていたなんて思われたくないんだろう。


「もうちょっとなんだ」
「澪ちゃんに手伝ってもらったりしてないよね?」
「してないしてない、ちゃんと頑張ったよ」
「あ、ほんとだ」
「何だ、その顔」
「だって、見ればわかるわよ」
「字が汚いから、だろー!? もう! どうせ私は……」
「拗ねないの」

 ――だって私はりっちゃんの字、好きよ?

 私だったらそう言うな、とか、どうしようもないことを考えながら、肘を突いて窓の外を見る。
 いい天気だ。鼠色の空が、湿った生温い空気が、彼女らを包んで遠い国まで攫ってしまえばいい。
 まあ、下手に会話に混ぜようとしてくれないほうが助かる。
 ムギの場合、何も考えていないんだろうけど。




「りっちゃん、澪ちゃんー、まだぁ?」

 ガラッと開けられた戸から、やけに明るい声がした。
 あんまりにグットタイミングで、どっかから見てたんじゃないかと思うくらいだ。そうでもおかしくはない。
 唯は他人の心の痛みに敏感だ、と私は思っている。
 特にそう、つらい気持ちの限界とか。

「お、唯」
「あれムギちゃんも来てたんだ? やってるねえー」
「私はもう終わった」

 てきぱきと道具を片付けて席を立つ。律があからさまにほっとした顔するのが、むかつく。
 ムギがただにこにこ笑っているのも、だ。


「じゃ、二人で先に行ってよっか」

 差し伸べられた手は、握る。情けないことに、私は弱っていた。
 唯の笑顔が治癒してくれるのに、それと同じかそれ以上のダメージを的確に与えてくれる二人がいる。

「澪と唯は最近仲いいな」

 何気ない調子の律の言葉に、唯は「そうでもないよ、ねえ?」と悪戯っぽい表情で返す。
 お前らもな、なんて、絶対言ってやるもんか。


 廊下に出て、どうでもいい話をした。そうしたら、唯もどうでもいい話で返してきた。
 どうせこれから部活なんだから音楽室に行って話せばいいわけだけれど、それについて彼女は何も言わない。
 ただ笑いたかった。

 けれど。

「澪ちゃん、つくりわらいー」
「へ?」

 私は一瞬、止まってしまった。やはり、グットタイミングだ。

「そう見える?」
「うん」


 唯の笑顔は笑顔すぎる。本当だか嘘だかなんて、考えようともしないくらい。
 これは、多分天然だ。

「なあ、」

 肩を掴んだ。私よりも少し華奢な。

「キスしてもいいか?」
「嫌だよ」

 その言い方が清々しすぎて、明るくて、また私らは笑い合った。

「、あ」

 呟いた唯の視先の先を追う。教室から、あの二人が出て行くのが見えた。
 一定の距離を保ちながら、ふたつ並んで消えて行く背中。穴が開くほど、見つめた。


「不毛だよ」

 とても冷たい声だった。

「非生産的だね」

 そう言った唯の顔は全くの無表情だった。何も考えていないような、それでいて鋭い瞳で、二人の背中を見ていた。

 さて、誰のことなのか、私にはわからなかったけれど、訊きはしなかった。

 だって、彼女だって私だって、片想いだって両想いだって、結果は変わらないじゃないか。

 いいや、これは負け惜しみ。だけど。


「ありがとう」

 そう言うと、唯は変な顔をした。


終わり



最終更新:2010年07月11日 17:39