気付けば見知らぬ部屋に一人。
ティーセットが収められた棚。落書きが施されたホワイトボード。
向かい合わせに置かれた4つの机。キーボードにドラムセット。
そしてアンプ。
窓から差し込む朱はどこか終末的だ。
自分が座ってることに気付き、私は今一度無意識に呟いていた。
「ここはどこ…私は…」
判ることが一つ。
ここが音楽関係の部活が使っているであろうこと。
部屋はL字型で、短い辺の壁際に窓が設けられている。
長い辺の先――L字の頂点とでも言えばいいのか――には、扉が一つ。
その横にドラムセットがあり、ドラムセットの後ろの壁には黒板。
ホワイトボードと違って、こちらには何も書かれていない。
扉には覗ける様に硝子になっている部分があるが、
曇っていて扉の向こうは見えない。
「誰か……」
私は心細くなって慌てて扉に駆け寄り、ノブに手を掛けて、
「……」
何もしなかった。
その金属は温く。自分の体温に近い気がした。
握っている右手との境界線が曖昧になる。
「……」
まわる。ノブは問題無く回る。引けばドアは何事もなく開くだろう。
私はノブから手を離した。ノブは一瞬で元に戻り、部屋は数十秒前と同じ空間を取り戻す。
「 」
眼が痛い。
部屋を染める朱色は強いものではないが、赤という色はどうも良くない。
嫌いな色、でもない。
ホントかどうかは判らないが、赤く塗り潰された部屋に長時間いると人間は狂ってしまうという。
そんな話を聞いてから、赤が眼に痛くなった。
窓からさし込む光は朱色。
窓際に立つ。
何もわからないのに、違和感。
「聞こえない」
確認する様に呟く。
呟く。
聴覚が閉じたわけではない。自分の声はきちんと聞こえた。
では――。
「なにも無い……」
わざとらしく音をたてて窓の施錠を解き、邪魔な硝子の壁をどかす。
しん――、と。
窓枠、窓、金属。擦れ合う音の残響が耳から無くなると、もう何も聞こえなくなった。
何もないと直感する。聞こえるのは自分の音だけ。
呼吸を止めれば静寂が耳に痛い。
「――――――――――――――――――!」
出せうる限りの声を、窓から上半身を乗り出して外にほうった。
もちろん山彦の様に帰ってくるはずもなく。
窓より長い残響を耳に残しただけで、あっけなく消えた。
眼下に広がっている校庭は、人っ子一人いない。
誰も、というより。何も、いない。
鳥の声も虫の声も、風の音すら耳に入ってこない。
見える範囲でも簡単に数えられる量でないのに、木々の葉ずれもない。
振り向いてもう一度、部屋に意識を戻す。
まずキーボード。
「出ないよね……」
準備を終えると、適当に音出し。電気は、来てる。
「あずにゃんにゃん……」
猫踏んじゃったを適当に弾いて、止めた。
次はドラム。
それほど触ったことの無い楽器だった。
「……さすがにスティックないよね」
あの人のことだから
「痛っ!」
あの人、とは誰か。
一瞬浮かんだ映像は、私の中に一瞬の頭痛だけ残して消えた。
後頭部、首の近くに走った激痛。撫でてみてもそこに異変は無い。
まだ痛みが残ってる気がして少しの間さすっていた。
「うぅ……」
思い出そうとするとこのザマである。
一度思い出しかけたおかげで、どうしても考えてしまう。
途切れない頭痛に吐き気を催す。
耐えきれなくなり長椅子に横になると、いつしか私は眠っていた。
体が痛い。椅子なんかで寝たおかげで節々が小さい悲鳴を上げた。
時計は四時半をさしている。
さし込む光は朱。
「丸一日寝ちゃったのか……」
体も痛くなるはずである。
しかし一つ。おかしな事がある。
目覚めたとき、私はいつの間にか眠りに落ちた長椅子ではなく、
向かい合わせに置かれた四つの机の方に備えられた椅子にいた。
朱色が眼に痛い。
「……ん」
よくわからない。頭痛は引いていた。
何だか後頭部に相変わらず痛みが残ってる様な違和感があった。
立ち上がって窓から外を眺める。
「やっぱり誰もいないのかぁ」
不安は拭えない。
換気をしようとしばらく窓を開けていたのだが、風が吹いてなかった。
あるのは外と中の気温の差。
「あんまり暑くないな」
よくよく考えれば7月の夏休み前の時期だというのに。
部屋の中も窓の向こうも暑いと感じない。
先ほどまで閉め切られていたこちらが少し暖かいくらい。
「お腹すいたな……」
昨日に比べて余裕が出来たのだろう。
夏の割に過ごしやすい空気の中で呆けていたら、小さくお腹が鳴った。
ひとまず部屋の中を見て回り、何か食べ物を探してみた。
おかしな事に上等なティーセットが仕舞われた棚がある。
「なんでこんなのが?」
生憎良し悪しは判らないが、装飾や意匠が凝っていて高価な物であることはわかる。
手でも滑らせて落としたら大変だ。
元通りにし、棚を閉めた。
どうしてか、自分を叱る誰かなど居るわけがないという確信はあった。
残念だが棚にも食べられるものは全く無かった。
「外に行くしかないか」
昨日開けなかった扉の前に立つ。ふとドラムに目がいった。
「意外と律先輩って楽器とか大事にするんだよね」
そんな事を呟いて私は扉を開けて、外に出た。
……そういえば昨日の頭痛は何だったんだろうか。
部屋の外も朱色。
窓からさし込む陽射しで染められている。
「音楽準備室?」
部屋はどうやらそんな用途で使われているらしい。
確かにドラムにキーボードがあったが、楽器はそのくらいだ。
音楽関係の物が少ない気がする。ティーセットの数の方が多かった。
「変なの……」
もしや茶道部の部室だったのだろうか。
となると私は茶道部部員?
「変だよね」
進学してなぜ茶道に興味を持ったのか。
いや、興味は無い。言い切れる。
思い出せない……。
「っつぅ!」
また頭痛。痛すぎて立ってられない。
ふと、見慣れた下り階段が視界に入る。
「……ひっ」
ただの階段だというのに。
怖くなって私は尻餅をついた。
そのまま階段が見えない場所まで行き、壁にもたれ掛かった。
何かを思い出そうとすると、頭痛。
昨日と同じだ。
後頭部辺り、首に掛けて激痛が走る。
「はぁ……」
落ち着いてきた。手が震える。
頭痛のせいじゃなくて、恐怖のせいで。
別に普通の階段だ。何が怖いのか……。
「うぅ」
立ち上がりたくない。怖すぎる。
もう空腹なんてどうでも良い。
この恐怖に比べたら些細なことだった。
夜の闇が迫っていた。
でも私の足は階段を前にすると竦んで動かない。
いつしか私はまた部室に戻り、ただ時間が過ぎるのを待った。
4つの机の一つの席。
律先輩の席に座って、机に突っ伏して顔を伏せた。
こうしてるとどうでも良いことばかり考えてしまう。
「……はぁ」
顔を上げて対面の机の二つを見る。
思えば、あちらの二つとこちらの二つ。
先輩達の性格で別れていないだろうか。
「いっ!」
出てこない。
また頭痛。それぞれの席の主。
律先輩と、
「ぃやあ……!」
まずい。痛すぎる。
このことは考えたら駄目だ。
頭が割れる。涙が止まらない。
「 」
泣き声を上げていた。
痛みはひどく、今回のは今までで一番キツイ。
最早考え事なんてどうでもいい。
今はもう痛みをどうにかすることに必死だった。
「やだぁ・・・! ……お母さぁん」
床に倒れ込んで頭を抱えるが、気休めにもならない。
いっそ殺してくれたら楽だったのに。
「おと、うさ、ん――!」
助けて。誰か助けて。
「ぅ……」
だるさを訴えた体を動かして起き上がる。
部室は薄暗い。
気を失ってしまったみたいだ。意識を失うなんて初めてだ。
幸い、あんなにひどかった頭痛は治まった。
ただ後頭部の違和感は大きくなった。
「はぁぁ……」
あの痛みを思い出すと、恐ろしくなる。
自然と溜め息も出る。
一瞬立ちくらみに襲われたが、それだけだった。
「4時30分……」
ちょうど12時間。夕方の四時半、朝の四時半。
夏ともなればこんな時間でも外は明るく、空気は気持ちいい。
「は」
腹部からとんでもない音が聞こえた。
単純なんだか複雑なんだか、ようやく訴えられる様になったからか。
一度認識してしまえばあとはそれに引き摺られ、私は今度は空腹感に襲われた。
そういえば、私は二日近く飲食をしてない気がする。
お腹も減るはずだ。
とりあえず。
「ここ何も無いもんね」
学校に居続けても仕方ない。
私は校外で食事を摂ることにした。幸い近くにコンビニがある。
そう考えると空腹はさらに自己主張を増して、私は足早に部室を出る。
「?」
この学校の音楽室は実習棟の最上階にある。この準備室は併設している。
室外に行くと6畳ほどの空間を挟んで階段が現れる。
脳裏に音とも映像ともつかない変なノイズが走るが、無視して階下に向かった。
「ふぁぁぁぁ……」
校舎から出ると何だか落ち着いた。体をのばしたらバキバキと鳴った。
さすがに朝ともなれば空気は澄んでいた。
早朝の空気は大好物。
少し休んで気が落ち着いたんだろうか。
それとも危機感をなくしたんだろうか。
私はなぜか軽い足取りで近くのコンビニを目指す。
「マシュマロみたいにふーわふわっ」
歌を口ずさみながら店の前に着く。
「……誰もいない」
時間帯は関係ない。私以外の誰も何もいないのは感覚で理解していた。
自動ドアを抜ける。
不思議なことに店内は生きていた。
店員はもちろんいない。
7月も半ばだというのにおでんを売っている。
中華まんのスチーマーもあり、しっかり中身が詰まっている。
「……」
異様な状況だと判るのだが。
見ると食べたくなるから困ってしまう。
「すいませーん!」
判っている。
「あのー!」
解っている。
「す、スタッフゥー!!」
わかっているのだ。呼んだって誰も出て来やしない。
だからこそ少し前にテレビで見た芸人の一発芸を出来るわけで……。
以前、母方の親戚の商店の手伝いでレジを手伝わせて貰ったことがある。
「あの時の経験が生きるなんて」
異常事態なんだ。自分でレジを動かしてもいいよね。
万引きするよりはマシだと思う。
「ぇ」
しかし私は愕然とする。
バーコードリーダーがあれど、数字のボタンがあれど、私が触ったレジとは違う。
明らかにこちらのレジは見た目からしてハイテクだ。
果たして無事に精算できるだろうか。
コンビニの先、学校から少し離れると小さな公園がある。
おにぎり一個と、ピザまん一個。あと飲み物でペットボトルのお茶。
食事を終えて人心地が付いた気がした私は、お茶を飲みながら呆けていた。
「今夜ーも おーやすみ」
あの曲はどうも口ずさみやすい。気付いたら歌っている。
ブランコをこいでみる。何だか恐い。
昔はフルスイングしてたのに今は恐くて出来そうにない。
「あははは!」
でも楽しい。ブランコなんて乗るの、何年ぶりだろう。
乗ったとしてもこんな堂々と遊べないし……。
楽しい。
息が切れるまで遊んだ私は、またしばらく公園のベンチで呆けていた。
今はもう完全に動きを止めたブランコ。
やっぱり静寂が耳に痛い。
太陽も昇りきって、そろそろ周囲は動き始める時間。
こんなに晴れてる日だというのに、今まで鳥の囀りは聞いてない。
あては無いが、とりあえず移動する。
よくわかっている様でいて、私は何もわかっていない。
歩いて行ける範囲で散策してみることにした。
「たったったった……」
何か聞こえないと不安だった。独り言が増える。
自分に何か聞かせようと無意識に声が出ている。
気付いたらアーケード。
「たたん、たたた」
西側の入り口に立って商店街の内部を見渡す。
最終更新:2010年01月25日 14:39