失くしてから気付く幸せは、戻らない分だけ悲しい。
地震というほんの数分間の出来事が、線香花火の灯を落とす無情な風のように、軽音部のみんなと積み重ねた幸せの結晶を、あっけなく踏みにじっていったのだ。
幸せをあまりに見慣れすぎて、いつの間にか見失ってしまっていた自分を、今更ながら後悔する。
しかし、どんなに後悔しようとも、どんなに懺悔しようとも、既に起こってしまった事実を捻じ曲げることはできない。
冷淡な現実を前に無力な人間が為せることは、受け容れることと、逃避することの、二つ。
崩壊していく平穏と幸せに、もう心を保つことの出来なかった私は、後者を選択した。
―――それから1ヶ月、澪ちゃんやあずにゃんの法事への出席もそこそこに、私は自室に引きこもっている。
先週から、修復された校舎で授業が再開しているようで、憂は一緒に学校に行こうと誘ってくれるが、もう二度と学校には行く気になれない。
そんな私を見かねて、ムギちゃんや和ちゃん、それにさわちゃん先生、隣のおばあちゃんまで、私を心配してお見舞いに来てくれた。
しかしそれでも、私の心は後悔の泥沼から這い出すことは出来なかった。
ムギちゃんは学校に通っているようだが、私も、それにりっちゃんも、家に引きこもっており、軽音部は活動休止状態らしい。
…もう楽しかったあの頃には戻れない。
人は、想像と願望を直結させて希望を生み出し、毎日を生きている。
しかし私はもう、幸せを想い願う心の力を完全に失い、希望を抱くことなど到底不可能だった。
人は、水とパンだけでは生きていけない。幸せへの希望がなければ、生きていくことは出来ないのだ。
もう、いいや…。
この時私は、死神の囁きに耳を貸してしまっていたのかも知れない。
生きていく意味が分からなかった。
あの地震が私の責任だというのなら、まだ納得できただろう。けれど、こんなにも辛いことを、私の努力や態度とは全く無関係に強制されるなんて、もう嫌だった。
それは澪ちゃんやあずにゃんからすれば尚更のことだろう。
何の因果も落ち度もないのに、ささやかな幸せを享受することすら許されず、まるで暴風雨の中で弾けるシャボン玉のように、生命を無慈悲に奪われてしまったのだから。
これから先も、きっとまた突然不幸が訪れ、私から幸せを奪っていくのだろう。どうせ奪われる幸せなら、最初から無い方が、心が痛まない。
こんな不幸を味わうことになるなら、最初から生まれてこなければ良かったかもしれない。
幸せが永遠に続くことなんて絶対にありえないと分かっているのに、どうして生きていかなければならないんだろう。
…その打開策として私が選択したのは、今後不幸になりうる可能性を潰すこと。すなわち、自らの死をもって人生に終止符を打つことだった。
生きる理由を見失った私は、台所に包丁を捜しに行こうとベッドから腰を上げる。今は家に誰もいないはず。
死への躊躇いが薄れている今を逃したら、恐怖に負けて自殺の機会を逸してしまう。
そう思い、足早にリビングまで入った時、ふと憂と両親の顔が思い浮かんだ。
懐かしい幸せな思い出が洪水のように頭に流れ込んでくる。私が死んだら、遺された憂たちはどうなるんだろう…。
悲しみに満ちた未来を想像して躊躇いが生まれた瞬間、背後に人の気配を感じた。
あれ、憂が帰ってきたのかな? まだ学校は授業中のはずなのに。
そんな疑問は、リビングの机の上に置き忘れられている弁当箱を見て、氷解した。
憂が忘れ物なんて珍しいな…。
一瞬でも自殺を考えてしまった後ろめたさを感じつつも、努めて明るく声をかけながら、後ろを振り返る。
唯「ういー? お弁当ここにあるよー。」クルッ
梓「…唯先輩。」
唯「…! あ…ずにゃん…?」
梓「はい。梓です。…あずにゃんです。」
背後にいたのは、憂ではなく、両親でもなく。
今にも泣き出しそうな顔で私を見ている、あずにゃんだった。
唯「え…? あずにゃん、生きてた…?」
梓「いえ。私もう死んでるみたいです…。」
唯「じ、じゃあどうやって…?」
思わず口をついて質問してしまったが、あずにゃんの半透明の体を見れば答えは一つしかない。
でも、あずにゃんとまた会えるのならば、今のあずにゃんが俗に幽霊と呼ばれる存在なのか否かは、私にはどうでもよかった。
梓「はい。唯先輩とお話がしたくて、会いに来ました。」
梓「唯先輩。…学校、行かないんですか。」
唯「…。うん、もう行きたくない。」
梓「そんな悲しい顔しないで下さい。唯先輩らしくないですよ。」
唯「ごめんね…。もう私、前みたいに笑えない。あずにゃんのことも悔しくて…。」
梓「私は、唯先輩にもっと笑っていて欲しいです。楽しそうにギー太を弾いてる先輩を見るのが大好きですから。」
唯「でも、…幸せの喜びよりも、幸せを失う時の痛みの方が大きいって私は思う。だから、幸せを無防備に手放しで喜ぶことなんて、もう私には出来ないんだよ…。」
梓「…唯先輩。それは間違ってます!」
唯「間違ってなんかない! もう大切なものを失う辛さを味わいたくないよ!」
梓「私は、死んでしまった今でも、自分は幸せだと思っていますよ…?」
唯「…え?」
梓「唯先輩は前に、毎日が平凡で退屈だ、とおっしゃってましたよね。実は私も、そう感じていた時もありました。でも本当は、それが一番幸せな状態なんですよ。」
梓「幸せな日常というのは、空気や水のようなものだと思うんです。透明で目に見えないし、味もしません。」
梓「だからみんな、その大切さに気付かない。でも、それがなければ生きていけない。」
唯「…うん。」
梓「部室に置いてたマンガのキャラクターが言っていました。本当に幸せなのは、平穏で幸せな日々に飽食し、幸せであることを自覚すらしないこと。」
梓「平穏という幸せを失ってから嘆くようなことにならないように、今の幸せな日々を精一杯楽しむのが一番だと。」
唯「そういえばそんなマンガあったね…。」
梓「だから私は、あの軽音部での楽しい時間が永遠に続くなんて甘えちゃいけないと思って、一日一日の幸せを精一杯かみしめるようにしていました。」
梓「だから、もう私には後悔はありません。唯先輩の言う、幸せを失った時の痛みなんて、幸せの喜びの前には霞んで消えちゃう程度のものですよ。」
確かにあずにゃんは、毎日をとても楽しく過ごしているように見えた。
でも…。
唯「でも…、あずにゃんは、もっともっと幸せになれるはずだったんだよ! 未来という無限の可能性を失ったあずにゃんが可哀想!」
唯「そんなあずにゃんを差し置いて、私だけが幸せになるなんて出来ないよ!」
…あずにゃんの話を理解は出来ても、納得は出来なかった。
やっぱり私は、もう笑うことなんて出来ない。
そう言おうとした瞬間、背にぬくもりを感じた。
梓「…。」ギュッ
唯「…!」
梓「唯先輩。本当に私は人生に満足しています。だから唯先輩も、幸せになることを恐れないで下さい。」
梓「私は、未来に得られたはずの幸せを諦めたんじゃない。唯先輩達に託したんです。」
梓「軽音部でまた楽しそうに演奏する唯先輩達が見たい。唯先輩達が幸せになることが、私の幸せでもあるんですよ。」
唯「でも…。」
梓「唯先輩は、嘘でも笑顔を作ることの出来る、強い人だと信じています。たとえ嘘でも、笑顔って、最後には本物になるんですよ…?」
唯「…分かったよ。私…、軽音部でまた演奏したい。幸せを取り戻したい。」
梓「良かった…。唯先輩が立ち直ってくれて、安心しました。」
梓「そうだ、あの地震の日に行ったゲーセンで、この猫のぬいぐるみ取ったんです。唯先輩が荷物重そうだったので渡せなかったんですよ。どうぞ。」
唯「え、私にくれるの? あずにゃんありがとう!」
梓「い、いや別に、UFOキャッチャーやってたら偶然取れちゃっただけですからねっ!//」
唯「えへへ、一生大切にするよ!」
梓「それより、ギー太の練習もちゃんとして下さいね。」
唯「うん! ちょっと待ってて!」
練習しているところをあずにゃんに見せたくて、ギー太を取りに部屋へ駆け戻る。
けれど、愛器を抱えて戻ったリビングに残っていたのは、ただ猫のぬいぐるみだけ。
でも、まるで最初から誰もいなかったかのような寂寥感が漂う中、ふと、「ライブ、聴きに行きますからね!」というあずにゃんの声が聞こえた気がした。
私は決意する。
軽音部を立て直そう。あずにゃんや澪ちゃんのためにも。
そのために、部活を休んでいるりっちゃんやムギちゃんを説得しよう。
そして、これからどんなに辛いことがあっても、それを乗り越えていけるだけの幸せを、目一杯生み出そう。
たとえ凍える寒さの中でも温もりを与えてくれるような、そんな幸せな思い出を、もっともっと作っていこう。
軽音部を立て直すための第一歩は、ムギちゃんの復帰だ。
ムギちゃんは、部員の誰よりも軽音部の時間を大切に思っている、ということを私はよく知っている。
きっとムギちゃんなら、軽音部の復活に躊躇無く協力してくれるはずだ。
りっちゃんは、澪ちゃんと仲が良かったから、心の傷を癒すには時間が必要だろう。
でも、ムギちゃんと二人で説得すれば、軽音部への復帰を決心してくれるかも知れない。
そう考え、その日は、ムギちゃんを晩ご飯に誘った。
料理の手伝いを憂に断られたので、たい焼きでも食べようと戸棚を漁ったが、なぜか跡形もなくなっていた。もしかしてあずにゃん勝手に…。
ピンポーン
紬「お邪魔しまーす。」
唯憂「いらっしゃーい♪」ドアガチャ
紬「あら…。唯ちゃん、なんだか顔色良くなったわ。」
唯「えへへ、そうかなー? ささ、憂が作ってくれたから、ご飯食べようー!」
紬「ありがとう。…憂ちゃんの料理の腕は、うちの専属シェフを凌駕してると思うわ。」
憂「いえそんな…。というか専属シェフって…。」
唯「いただきまーす!」
憂紬「いただきます!」
唯憂紬「ごちそうさまでした!」
憂「私、後片付けしておくから、お姉ちゃん達は部屋でくつろいでてね。」
唯「ういー、ありがとう! ささ、ムギちゃん、私の部屋行こー。」
憂に家事を押し付けてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいになるが、今はムギちゃんを説得しなければならない。
その場に憂がいてくれても良かったが、気を遣って二人にしてくれたのだ。恐ろしいくらい空気が読める子だ。
唯の部屋!
紬「後片付けを手伝った方が良かったんじゃないかしら…。」
唯「ううん、大丈夫だよ。今日はムギちゃんにお話がしたくて。」
紬「…。軽音部のこと?」
唯「うん。ムギちゃんは、軽音部の活動を復活させたくない?」
紬「唯ちゃん。私、ずっと悩んでいるの。」
唯「ムギちゃん…。」
紬「確かに、澪ちゃんや梓ちゃんのために、二人の分まで幸せにならなくちゃいけない、と思う。」
紬「でも、そんな考え方は、私のエゴなんじゃないかって。」
…ムギちゃんは、やっぱり優しい人だな、本当に。
唯「ムギちゃん。あのね、私、あずにゃんの幽霊に会ったんだ。」
紬「え…?」
唯「あずにゃん言ってたよ。あずにゃんは、幸せを私たちに託したんだって。」
唯「生き残った私達が幸せになることが、あずにゃんの幸せでもあるんだって。」
紬「そんな…信じられないわ…。」
唯「…でもね、憂が言ってたんだ。幽霊って本当に存在するかも知れないんだよ。」
紬「憂ちゃんが…?」
唯「オカルト研究会の友達に聞いたらしいんだけどね。なんか猫が入った箱がどうとか言ってた。」
紬「オカルトも理論的なのね…。」
唯「憂は頭良いんだよね。説明してくれたけど、私にはよく分からなかった。」
唯「でもさ、私の会ったあずにゃんが幽霊であろうと、私の妄想の産物である幻覚であろうと、関係ないんだよ!」
唯「ムギちゃんはあずにゃんのこと、…大切に思ってるよね? 軽音部のかけがえのない仲間なんだよね?」
紬「…ええもちろん。梓ちゃんやみんなのことが、大好きよ?」
唯「なら。…今までのあずにゃんを見ていたムギちゃんは、今この瞬間のあずにゃんが、どういう気持ちでいると思う?」
紬「え…。それは…。」
唯「私たちの幸せを願ってくれている、って思わない…!? ムギちゃんは、あずにゃんのこと薄情者に見えていたの?」
紬「そ、そんなことないわ! 梓ちゃんは先輩想いの後輩で、私も梓ちゃんのこと大事に思ってるわよ。」
唯「だったらっ! あずにゃんが私たちを応援してくれてると信じないのって、今までのあずにゃんの想いに対する冒涜だと思わない…!?」
紬「…!」
唯「ムギちゃんが本当にあずにゃんのことを仲間だと思っていたのなら。私たちが軽音部を復活させることを喜んでくれる、と信じられるはずだよ!」
紬「…そうね。私、梓ちゃんや澪ちゃんに申し訳なかったと思う。」
唯「じゃあ…?」
紬「分かったわ。軽音部、復活させましょう!」
…ムギちゃんなら、すぐ納得してくれると思ってたよ。
誰よりも優しいムギちゃんなら、幽霊あずにゃんに直接言われなくても、あずにゃんや澪ちゃんの気持ちを汲み取ってくれると信じていたもの。
次は、りっちゃんの説得。でも、どんなに困難であろうと、私の決意は揺るがない。
唯「ムギちゃん、りっちゃんも私みたいに引きこもってるんだよね?」
紬「ええ、携帯も音信普通なの…。今度家に直接伺ってみようと思ってる。」
唯「私も行くよ。でも、どうやって説得しよう…。」
紬「私は口下手だけど、唯ちゃんなら、きっと説得できるわ。信じてる。」
唯「うーん…。」
紬「…私ね、軽音部の活動がなくなってからは本当に味気ない毎日で、もう楽しい時間は取り戻せないと諦めていたわ。」
紬「でも、唯ちゃんがその諦めを覆してくれた。唯ちゃんには、人を幸せにする力が宿ってるんだと思うわ。」
唯「あずにゃんに励まされたからだよー。」
紬「明日、りっちゃんの家に行ってみましょう? 唯ちゃんの言葉なら届くかも知れないわ。」
唯「…うん。そうしよう!」
翌日の放課後!
唯「よし、りっちゃんの家、行ってみよう!」
紬「あ、あの、本当に申し訳ないんだけど、私さわ子先生に呼び出されてて、行けなくなっちゃったの。唯ちゃん一人で大丈夫?」
唯「うん、大丈夫! 絶対説得してみせるから待ってて!」
紬「頑張って。」
和「…唯。私も見ているだけしか出来ないけれど、応援するわ。」
2人とも、言葉だけでなく、その瞳に万感の想いを込めて見送ってくれる。
けれど、その表情に少しだけ、不安の色が浮かんでいる気がした。
でも大丈夫、あずにゃんと約束したもの。絶対に説得してみせるよ。
最終更新:2010年07月13日 23:33