「おい、律?」
「…。」
「おいってば。」

私は返さない。
呼びかけには気付いている。

だけど聞こえないフリ。
何がしないのかは自分でもわからない。
新しい戯れだとでも思ってくれれば、それでいい。

「おい、なんだよ…。」

澪の三度目の呼びかけ。
空気を揺らしてそのまま消えた。


私はその振動を返さない。
耐えかねた澪は私の体を揺する。

「…なんだよ。」

うざったそうな声。
この声の主は誰だ?
自分の声なのにそんな問いかけが頭の中をぐるぐる。

「律、機嫌でも悪いのか?」

さぁね。
そう言うように小さな溜息を吐く。
澪は動かない。
私も動かない。

「どうしたんだよ…。」

不安そうに澪が呟く。
そりゃ、不安だろうな。
さっきまであんだけ乳繰り合ってたんだ。
急に態度が変われば怖くもなる。


不安にさせているのは私。
それを楽しんでいるのも私。
でもな、それだけじゃないんだ。
楽しんでるだなんて…ちょっと自棄になっているだけ。

「なぁ、澪。」

私は切り出す。
いつこの話題を切り出そうか、このところずっと考えていた。
だけど、タイミングなんてなかった。

誰がなんと言おうと澪が好きだし、
澪だって私なしじゃ生きられない。
いや、もしかしたら生きていけるのかも?
でもそんな可能性真っ向から否定してぶっ壊したくなるくらい、
私は澪に夢中なんだ。

時間が過ぎればキレイな思い出になってくれるか、なんて思ったこともあった。
互いの旦那を交えて4人で私達の高校生活を笑い話にする、そんな日が来るのかもなんて悠長に考えたこともあった。
だけど、その考えが甘かったんだ。
思い出になるどころか、私の感情は日増しに強くなる。
澪の私への依存も私の澪への依存も、もう限界なんだ。
いつからこうなったのかはわからない。
もしかしたら最初から私達はぶっコワれる運命だったのかも。


そんなことを考えていた私が口を開いたらこれだ。
だから今こそがこの話をするタイミングなんだ、そうやって思い込むことにした。

「私達、おかしいよ。」

小さい声。
けだるそうな声。
それでいて少し震えていた。
今から泣いてどうすんだよ、ざけんな。

「律…それって、どういう…。」

私の喋り方を真似してんのか、と言いたくなるくらいシンクロした声色。
見えてないけど、わかるよ。
澪は私の背中を見つめてるんだろ?
一向にそっちを向こうとしない私に、苛立ってるんだろ?
ごめんな、しばらくそっちは向けそうにない。

「どういうって、わかるだろ?女同士でいつまでもこんなことおかしいって。」

一気に言い切った。
そうしないと泣き始めの嗚咽が混じってしまいそうだから。


そう、私達はおかしい。
これは紛れもない事実なんだ。
誰に否定されてもいいよ。
誰に傷つけられてもいい。

でも、私は澪が世間の目に晒されて傷つくのは見たくないんだ。
だから、今のうちに終わりにしようぜ。

ふでペンでもボールペンでもいい。
とっとと私達の関係にピリオドを打ってくれ。

これは澪のためを考えていると見せかけた単なる保身だ。
私はいつの間にこんなに狡猾になってしまったのか。

でも、仕方がないだろ?
右も左も前も後ろも、もう行き止まりなんだ。
どこを見ても壁、壁、壁。
そんな八方塞がりな状況でまともな精神でいられるわけがない。
少なくとも、私はそんなに大人じゃない。


息が詰まるほどの狭い空間。
見上げれば空が私達を嘲笑うかのように雲をゆるりと流している。
雲を流すその風すら届かない私達だけの空間から、自由気ままなその空をぼんやり見つめる。
釘付けになった視線はしばらくは動かせそうにない。
精神が不安定になるほどその風景を目に焼き付けてから思うこと。
それはやはり

‐解放されたい

その一言に尽きる。
つまりはそういうこと。
閉鎖的なこの私達の関係。
感情は至って不健全。
だから私は無理矢理にでも壁を蹴破るんだ。

「言ってる意味が、よくわからないよ…。」

わかってるくせに。
私がどうしたいかなんて。
手に取るように理解ってるくせに。


私もな、わかっているんだ。
澪を現在進行形で傷つけているのは私だってこと。

「澪は、綺麗だし、スタイルもいいし。本当、私にはもったいないくらいだよ。」
「じゃあなんで…!」
「だからだよ。言っただろ?」

ここで私は空気を吸い込む。
吐き出すときは言葉も一緒だ。

「…私にはもったいないって。」
「…。」

澪は何も言わなくなった。
背中に添えられている手が少し震えている。
その振動は澪が泣いていると知らせるに十分なものだった。
私が、澪を、泣かせている。
喉の奥が熱い。
重苦しい何かがぐわんぐわんと喉の奥で拡がる。
少し息を止めてその見えない力に抵抗するけど、
理性は泣き出したい衝動に勝てないみたいだ。


だけど私は平然としてないといけない。
淡々と、澪を捨てると決めたんだ。
だから頬を伝ったそれには気付かないフリをした。

「り、つ……!」

お願いだ、これ以上食い下がらないでくれ。
私の決意を鈍らせないでくれ。
お前は『普通』の幸せをんでくれ。

「もう、話すことはないよ。」

それは澪に言い聞かせるように。
そして私に言い聞かせるように。
…私の口が紡いだ言葉。

もっと伝えなきゃいけないことがたくさんあるのに。
出来ることなら『ありがとう』や『ごめん』、そんな有りふれた言葉を幾度となく言い続けたい。
一度一度に違う意味を持たせて、何度も伝えたい。


だけど駄目なんだ。
口を開けば開くほど、襤褸が出そうで怖いんだ。
感謝の言葉や謝罪なんて、心の中で呟き続けることしかできない。
そんな状況がすごく歯がゆいけど、それをさらりとやってのける程、私は器用じゃないんだ。

本当は、このまま『友達』なんかに戻りたくない。
何処へだって一緒に行きたい。
いつまでも澪の肌に触れていたい。
誰かになんて渡したくない。
澪にも同じ気持ちでいて欲しい。

私のこんな我が侭が、澪も抱いているであろう我が侭と相俟って、
気付かない内にそれが堆い壁になっていたんだ。
だから、私はもうそんな我が侭は言わない。言えない。


「ねぇ、りつ。」
「…なんだよ。」

四度目の呼びかけ。
私は反射的に返事をしていた。

「せめて、こっち向いてよ。」
「…。」

そして四度目の無視。
厳密に言えば無視した訳ではない。
ただ上手く返す言葉が見つからなかっただけ。
拒否したら、澪は悲しむだろう。
振り向いてしまえば、私の浅はかな決意の元に口をついて出た嘘がバレるだろう。
どうしよう、そんな風に考えているときだった。

「律っ…!」

苛立った澪の声が聞こえたかと思うと
次の瞬間、不意に肩を引き寄せられる。
まさか澪がそんな強行突破を試みるとは思っていなかった。

ぱたんと音を立てて、私は呆気なく仰向けになった。
視界の右側、澪の頭が見える。
顔は…見えない。


いや、見たくない。
この先の未来も、今の澪の顔も見たくない。
何も見たくないんだ。
私はとっさに腕で顔を隠した。
それは子供が泣くときの格好と全く同じだった。

「手、邪魔。」

耳元で澪の声がする。
幾度となく肌を合わせてきたせいか、私の身体は場違いに反応する。
せめて澪には悟られないようにと眉一つ動かさないように努めた。

「わかってるよ、律の言いたいこと。」

言い終わるや否や暖かい何かに包まれる。
澪が私を抱き締めているんだ。
先ほど囁かれた反対側の耳元で不規則な澪の呼吸が聞こえる。
きっとまた、音も立てずに泣いているんだ。



ゆっくりと澪の背中に手を回す。
そして私は恐る恐る目を開けた。
視線の先には天井。
空なんかじゃない。

「でも、私…律無しじゃ…!」

やめてくれ、それ以上は言わないでくれ。
それを言われたら、明日の私達は今まで通りの私達に逆戻りだ。
終止符を打とうとしたペンがまたどうしようもなくて
くだらない私達の物語を綴ることになる。

きっと私はどうかしていた。

-澪がその言葉を言い終わる前に

そんな考えに取り憑かれていた。
その時、私の中の悪魔が囁いたんだ。

-嘘をつこうか。
-とっておきの。
-それでいて、最低な嘘を。

それを拒否することなんてできなかった。
だからきっと、私はどうかしていたんだ。


「私さ、今まで黙ってたんだけど…」
「な、なんだよ」

澪の体が強張るのがわかる。
だけど私の口は止まらない。

「子供、欲しいんだよね」
「…!?」

言ってしまった。
今まで生きてきた中で一番残酷な嘘をついたと思う。
私達にとってそれは死刑宣告でしかない。

澪が…震えている。
私の体も震えていた。

もう限界だ。
私は嗚咽を零す。

それを聞いた澪からも嗚咽する声がもれる。
その声が耳に届いた瞬間、私の箍は完全に外れてしまった。


声が止まらない。
涙が止まらない。

-ごめん

そう言うように澪の体を強く抱きしめた。
すると応えるように私の体も軋む。
そんな痛みですら今は心地良い。

このまま澪を壊して、澪に壊されたい。
私達の声が部屋に響く。
汗ばんだ体を抱きしめ合って、午前三時。

空は例年の夏へ向かう儀式を執り行っている。
ざぁざぁと音のはらむ通過儀礼。

普段は煩い筈なのに、私達の耳には互いの声しか届かない。
蒸し暑い夜、私達の汗と涙が部屋の湿度をさらに上げているような錯覚に陥る。

今もこうして一つの季節が始まろうとしているのに、
私達は一年程前から何も変わっていない。
初めて肌を重ねたあの日から次第に大きくなっていったのは愛情ではなく依存だった。


気づかぬフリを続けてきたツケが回ってきている。
もっと早くブレーキをかけることはできなかったのか。
そう思うことは度々あったけど、後悔はしていない。
いよいよ私も末期だな。

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最終更新:2010年07月14日 00:14