私は律の制止を振り切り、走った。行くアテも無く、ただガムシャラに走り続けた…。
気が付けば、駅前の繁華街で佇んでいる自分がそこにいた。
「何をやってるんだろ私は……、梓も…何もかも失って…」
身体に走る悪寒を紛らわせる為、手に持っていたベースを抱き締める。…そして、気付く。
「そうだ…、ベースだ……。このベースを売れば……」
気付く…、両手に抱くこの感触に。気付いてはいけないと脳が警鐘を鳴らす……、だが私は気付いてしまったのだ。そう……。
「何かを手に入れるには、何かを失わなきゃならない……」
人込みの繁華街で、私は一人静かにそう呟いた。
「有り難うございましたー」
フェンダーのベース、それは私が軽音部である為に存在する物。そのベースを手放した罪悪感と、虚無感に私は襲われていた。
まるで軽音楽の……、律との絆をも捨て去ってしまった様に気がして。
「……でも、もう戻れないんだ。私にはもう、梓しか…」
全ての未練を振り切るかの様に歩道を走った、向かう先は一つ。梓を取り戻す為に、ただその為だけにトレーディングカードを。
紬「あら?澪ちゃん今日は来てないの」
唯「あれ、おっかしいなぁ。朝確か見た様な気がするんだけど。律っちゃん知らない?」
律「……さぁ、知らねぇよ」
「違う…、これも違う……。なんでだよ…、なんでインディーズカードばっかりなんだっ!」
次々とチョコレートを口の中に放り込むが、出て来るのはどれも他愛の無いカードばかり。焦燥感に苛まわれる私の気持ちとは裏腹に、時間ばかりが過ぎていった。
「…澪ちゃん?聞こえて無かった、ご飯出来たわよ」
「いい、要らない…」
扉越しから聞こえる母親の言葉も右から左に聞き流し、私はチョコを貪る。食らい尽くそうとする。胃は既に限界を向かえているが、そんな事も構わずにまるでリスの様に両頬に詰め込んだ。
そんな自分が情けないのか、梓を奪われた事が悲しいのか、ベースを失った事に後悔しているのか。それともそれ全てなのか。
何一つ分からないままに、ただ壊れた機械の様にチョコレートを飲み込む。軽音楽での思い出を飲み込む。律の笑顔を飲み込む。
全てを飲み込み一人慟哭した私は……、その夜に全てを吐いた。
唯「あーずにゃん、ほらほら見てついに当たったよ!YAMAHAのカスタネットカード!」サッ
梓「なんですかそれ?カスタネットって体鳴楽器カードの最下層じゃないですか」
唯「えー!そんな事ないよぉ、いいじゃんカスタネット!傷が付かないようにローダーに入れておかないと」
梓「エリックはカバンに張り付けてるのに…。大事にする順位逆ですよ」
ガチャリ
唯「…あれ、もう誰かきてるのかな?」
梓「そんな訳無いですよ、ムギ先輩と律先輩掃除当番って言ってたじゃないですか?」
澪「あ、梓………」クルッ
梓「ひ、ひぃ!?澪先輩ですか、ビックリさせないで下さいよ」
唯「澪ちゃん来てたんだ?てっきり今日も休みだと思ったよ」
澪「梓見てくれ……ほら、お前の為にカードを……」バラッ
梓「ん…?なんですかこれ、どれもインディーズカードばっかりじゃないですか。別に要らないですよ」
澪「そ、そんな!?じゃあ、ちょっと待ってくれすぐ用意するから…」ガタガタ
梓「用意って……、ちょっと澪先輩そこ退いて下さいよ」ガッ
ドンッ!
澪「痛ッ……!」バタッ
唯「ちょっと、あずにゃん何するの!?澪ちゃん大丈夫?」
梓「や、やっぱり……。なんて、なんて事をしたんですか先輩は…」
唯「どうしたの?澪ちゃんが何かしたの」
澪「ち、違うんだ梓!それは!」
梓「このゴミ箱をみて下さいよ!大量のチョコが捨てられてます」
唯「ほんとだ……。まさか、澪ちゃん」
梓「チョコを捨てて、中身のカードだけ取るなんて絶対にしてはいけない事じゃないですか!最低ですね、見損ないましたよ澪先輩!」
梓の私を見つめる瞳、それは既に憧れなど微塵も消え去り、氷の様に冷たく、鋭いナイフの様に尖っていた。
澪「違うんだ……違う……!」
梓の口から、私の身体に何か例えようの無い物が襲いかかる。それは私の身体、心、全ててを蝕み、食らい尽くしていくかのようだった。
梓「ちゃんと責任をとって処分して下さいよ!全く、行きましょう唯先輩!」
幾度と無く放たれた、それは私の全てを奪い、そして、消えていった。
その後の事は良く覚えていない、気が付いた時には自分の部屋のベッドで布団に包まれていた。
梓「あ、キアヌリーブスだ」スッ
唯「プップーッ!あずにゃん私のカスタネット馬鹿にしたのに、キアヌリーブスだって!ハリウッド俳優じゃん、外れもいいとこだよね!」
梓「外れじゃないですよ、キアヌは『ドッグスター』ってバンドでベースを担当してたんですよ」
紬「あら、そうなの?私もてっきり俳優だけかと思ってたわ」
梓「まぁ、もう解散しちゃってますし、人気も無かったみたいだから、外れといえば外れかな」
唯「ムギちゃんは何が出たの?」
ガサガサ
紬「えーっと私は…、やったわ三木道三のLifetime Respectの標準語Verだわ」サッ
唯「あれ?でも、そのカード持って無かった」
紬「それはLifetime RespectのアカペラVerね」
梓「Lifetime Respectは全ての種類が手札に揃うと一発で相手を倒せるんです」
唯「凄いね!ねぇ、律っちゃんは何がでたの」
律「ん?あぁ…、ただの外れだよ」
唯「どうしたの?なんだか元気ないよ」
紬「きっと澪ちゃんが学校を休んでるから心配なのよ。そうだ、帰りに皆でお見舞いに行ってあげましょう!」
唯「そうだね、それが良いよ!この前も体調悪いみたいだったし」
梓「あー…、私はいいです。先輩達だけで行って来て下さい……」
唯「えー、なんで?一緒に行こうよ。あずにゃん澪ちゃんの事嫌いなの!」
梓「勿論好きですよ…、でもだからこそあんな事をした先輩が嫌いなんですよ!」
紬「好きで嫌い…?どういう事よ梓ちゃん」
律「別にいいぜ、梓は来なくても。私には梓の気持ち分かるしな」
唯「えー、なんなのそれー!駄目だよぉ、皆で行こうよ」
梓「嫌って言ったら嫌ですよ」プイッ
紬「仕方ないわね…、私達だけで行きましょう」
唯「もー、しょうがないなぁ」
……
淡い夢の中に私は居た。その中では、軽音部の皆がいつもの様にお茶を啜り、談笑に華を咲かせている。
けれども、その中には私の姿は無い。まるで私等必要無いかの様に。まるで最初から存在しなかったかの様に。私はその様子をただ外から眺めていた、手を伸ばせば届きそうなのに。けれども絶対に届かないと私は悟っていた。だって私のベースは既に無いんだから、私は……
「軽音部じゃないんだから……」
そう呟き、目を開ける。そこには部室では無く、部屋の天井だけが広がっていた。少し寝返りを打つと、テーブルの上にあった食器が目に付いた。
中身は全て入ったままだ。昨日の一件以来、私の胃は何も受け付けなくなっていた。まるで、胃も腸も、心臓も全て無くなってしまったかの様に。
ぼんやりと虚空を見つめていた私の耳にノックね音が鳴り響く。
「澪ちゃん、お友達がお見舞いに来てくれたわよ」
「お見舞い……まさか、梓が?」
きっと、私の事を心配して来てくれたんだ。そして、私の事を全て許してくれるんだ。そう思うと不思議と心は軽くなり、必死にベッドからはい上がった。
たが、そんな私の望みはいとも簡単に砕かれた。
「でも、あずにゃんも心配してたよ。だから早く元気になってね!」
扉越しから相も変わらず脳天気な声が聞こえる。何が心配しているだ、だったら梓が見舞いに来ない訳がないだろ。
「……るさい」
「え、何澪ちゃん?聞こえないよぉ」
「うるさいって言ってるんだよ!お前はいつもそうだ、そうやって何の罪悪感も無く私から奪っていくんだ!」
「み、澪ちゃん…何を言ってるの?」
「ろくに練習もせずに、いとも簡単にギターを弾いて…、いとも簡単に梓を奪って!追い付いと思ったら一歩も二歩も先に行って、それが許せる訳ないだろ!」
「澪ちゃんが何を言ってるのか分からないけど、唯ちゃんは悪気があったわけじゃないのよ」
「悪意の無い悪意が一番タチが悪いんだよ!」
私は想いの限りに叫ぶ、支離滅裂なのは自分でも分かっている。だが、叫ばずにはいられなかった。
気が付けば、静寂に包まれた部屋の中には唯の啜り泣く声が虚しく響いていた。
「ねぇ、澪ちゃん、お願いここから出て来て。ちゃんと話し合えばきっと、唯ちゃんとも梓ちゃんとも分かり会えるわよ」
「ムギ…ちょっとどいてくれ。おい、澪聞こえるか?」
「なんだよ…、お前も私を連れ戻しにきたのかよ。でも無駄だぞいくら律だからって」
「違う、そんなんじゃねぇよ。今日当たったミュートレだ、使うかどうか迷ってたんだけど、その必要は無かったみたいだな」
律がそう言うと、ドアの隙間から一枚のカードが差し込まれた。私はそのカードを拾って目を通す。
そのカードは、キャンディーズの日比谷野外音楽堂コーンサートでの解散宣言カードだった。
「そういう事だから、じゃあな澪。ムギ帰るぞ、唯を連れて来てくれ」
「ちょっと待って律っちゃん!どういう事なの」
慌ただしい足音が三つ私から遠ざかって行った。私は手の平のカードにもう一度目をやる。解散宣言カード、それが意味するものは即ち私と律の関係。
私はただ、そのカードを眺めている事しか出来なかった。
軽音部室から聞こえる演奏、だが今鳴り響いているそれは以前とは違い不協和音だけだった。
律「うーん、全然ダメだな。ムギ、休憩だお茶の準備をしてくれ」
梓「ちょっと、まだ始めたばっかりじゃないですか!」
律「さっきから唯何度トチってるんだ?」
唯「え…?あぁ、うんゴメン…」
律「こんな状態でいくら続けても一緒だろうが。休憩して気分を切り替えるぞ」
紬「そうね、待ってて直ぐに準備するわ!」
梓「どうしたんですか唯先輩?らしく無いですよ」
唯「うん、ゴメンね。別に何でも無いんだよ」
そう呟くと唯はギターを床に下ろすと、おぼつかない足取りでテーブルへ向かう。その背中は梓の目にはやけに小さく映つった。
律「しっかりしてくれゃれな唯。そんな事ならギタークビになっちまうぜ?ほら、私の分のチョコやるから」
唯「あはは…、有り難う律っちゃん」
梓「だったらギターよりも先にベースを募集しましょうよ!澪先輩、軽音部に戻って来ないかも知れないんでしょ」
紬「そ、そんな事無いわよ。きっと体調が良くなったら戻ってくるわ。ねぇ、律っちゃん?」
律「私は知らねぇよ、もう解散カード叩き付けたんだし」
梓「でも止めるにしても、あのチョコ処分してからにして欲しいですね」
律「ん?なんだそりゃ」
梓「この前の澪先輩がカードだけを取って捨てたチョコですよ。とって置いんです」
律「あいつ……、そんな事してたのかよ」
梓「退部届けを受け取る時に、無理矢理にでも食べさせて下さいよ!もっとも、全部湿気ちゃってますけどね」
唯「……あずにゃん、澪ちゃんにも訳があったんだよ。そんな言い方は止めてあげて」
梓「理由ってなんですか?ただ自分がレアカード欲しいからじゃないですか。あーあ、何であんな人に憧れてたんだろ」
律「おい、梓。こっち向いて歯食いしばれ」
梓「……え、何ですか。そんな怖い顔して」
首を傾げる梓の頬に律は、思いっ切り平手を打ち込む。いきなりの事に、梓は受け身を取れずに床に叩き付けられる。
紬「律っちゃん!?何をするの、何で梓ちゃんを」
梓「そうですよ!悪いのは澪先輩じゃないですか!律先輩だって私の気持ち分かってくれてるんでしょ!?」
驚きと怒りに満ちた目で、梓は律を睨み付ける。だが律はその視線を全て受け止めて、場に立ち尽くす。
律「知ってるよ……。梓の気持ちを知ってるから、澪に解散カードを叩き付けた!澪の気持ちを知ってるから、梓の頬を叩き付けた!」
梓「何なんですかそれは!?訳が分かりませんよ」
律「澪は自分の為にチョコを買い漁ってたんじゃ無い。梓に、お前に自分を見ていて欲しいって、……お姉ちゃんだと思って欲しいって。そんな気持ちだったんじゃねぇのかよ!」
梓「そんな……、そんなの言ってくれなきゃ分からないじゃないですかぁッ!!私だって澪先輩を本当のお姉ちゃんみたいに思ってた、だからこそあんな事をした澪先輩が許せなかったんですよ!」
梓はその場に蹲り、ただ嗚咽する事しかできない。律も、その梓の様子を見つめる事しかできないでいた。
唯「違うよ……、こんなのは違うッ!こんなのは軽音部なんかじゃ無い」
紬「唯ちゃん!待って、どこに行くの」
律「いいよ、ムギ放っておけよ…。どうせこうなる事は分かってたんだよ。私が解散カードを引いた時から」
紬「そんな、じゃあこのまま終わってしまうの?私達の軽音部…、放課後ティータイムは!?」
律「それを決めるのは私一人じゃないさ……、なぁ澪」
律はそう歌う様に呟くと、窓の向こうに視線をやる。その目に映っていたのは、必死に手を振り校門から飛び出す唯の姿だった。
私は、またゴミ箱に向かって嘔吐物を吐き出す。それは、胃の中の物を全て吐き終るまで終る事は無い。
あれから、私は一度もまともに食事を取る事は出来ずにいる。頬も大分すり減って来ているようで、鏡に映る自分の姿は目の下がくまだらけの不気味な日本人形の様だった。
「澪ちゃん!ねぇ、澪ちゃん開けてよッ!」
ママの叫び声、そして廊下に慌ただしい足音が鳴り響いたかと思うと、急に自分の名前を呼ばれて身体を震わせる。
「ゆ、…唯か。なんだよ、開けないって言ってるだろ帰れよ」
私は、吐き捨てる様に言い放つ。しかし、唯はここから離れる様子は無く、なんども扉を叩き叫び続ける。
「このままじゃ、律っちゃんもあずにゃんも皆バラバラになっちゃうよ!ねぇ、澪ちゃん!」
梓の名前を聞き、私の思考が動きだし始める。しかし、あの時の冷たい目が頭を過ぎり、私の意思は再び深い深淵へと転がり落ちてしまう。
その代りに浮かぶのは、あの夢の光景、私のいない放課後ティータイムの姿だった。
「もういいよ、唯。そんな事いってどうせ四人で仲良くやってるんだろ。放っておいてくれ」
「なんで……、なんでそんな事悲しい事を言うの!なんで、澪ちゃんがいない部室で楽しく出来るの!?」
唯の叫びは酷く澄み切り、扉越しから私の心に突き刺さる。しかし、その叫びも虚しく、深淵に位置する私の心には届く事は無い。
「ねぇ、澪ちゃん!私達は五人で放課後ティータイムはなんだよ。それを、それをこう簡単に失っていくのは、酷い事なんだよ!」
澪「うるさいっ!もう私は、軽音部じゃないんだよ。もう、ベースも……、軽音部の想い出も売り払ったただの
秋山澪なんだよッ!」
私は頭をかき毟り、腹の底から絶叫する。その、一撃は唯の心をぶち壊した様で、床に崩れ落ちた唯の呻き声が聞こえ始める。
「分かっただろ……、もう私には軽音部に戻る資格なんて無いんだよ」
そう、唯に告げて私は再びベッドに戻ろうとする。だが、今度は扉を爪でかき毟る音が聞こえ始める。
それは、先程とは違い消え入る様に弱々しい。しかし、何故かより深く私の身体にめり込んでいった。
「澪ちゃん…お願いだよぉ……。私なんだってするから、だから……」
私は堪らず、鍵を開けて勢い良く扉を開く。そこには、涙と鼻水でクシャクシャになった唯が床に這い付くばっていた。
「本当か……、本当に何でもするんだろうな」
私はゆっくりとした足取りで唯の目の前まで歩を進める。唯はそんな私の様子を怯えた様な瞳で見つめていた。
「な、何澪ちゃん…、何をするの?」
「だったら、お前のカバンに張り付けてあるエリック・クラプトンのカードを私に寄越せよッ!」
私は唯の身体に馬乗りになる様に覆い被さると、脇に抱えていたカバンを奪い取ろうとする。しかし、唯も取られまいと必死に身体を捻り抵抗をする。
「待って、澪ちゃん!これは…、これは憂と一緒に買った初めてのミュートレなの、だから!」
「そんなの関係無いよ!言っただろ、何でもするって!ショップに売れば高く買い取って貰えるんだよ、お前が持ってるよりそうした方がずっと良いんだよ!」
カバンを抱えて、団子虫の様に丸々唯の頭を掴み必死に引っ張る。もうこれしかないんだ、これでまたミュートレを買うしかないんだ、そして梓に……。
「ご、ゴメン澪ちゃんッ!」
一瞬激しい痛みが頭を走り、遅れて状況を理解する。勢い良く唯に身体を突き飛ばされた私は、壁に頭を打ち付け倒れているのだという事を。
虚ろに状況を理解する私の目には、踵を返し逃げる様に走り出す唯の姿だった。
「……最低だ、私って」
自分の指に絡まった唯の髪の毛を見つめつつ、誰に言う訳でもなく私はそう呟いた。
最終更新:2010年07月27日 20:58