ーキーンコーンカーンコーン
放課後のチャイムが鳴った。
私は少しだけ足早に音楽室へ向かった。
理由は簡単、先輩がたと久々に会えるのだ。
夏休み中は先輩がたは勉強で忙しく、なかなか会えなかった。
ましてみんなで演奏なんてかなり久しぶりだ。
私は普段から一人で練習してたけど先輩がたはどうだろうか。
勉強で忙しくて練習なんかできてないかもしれない。
あ、唯先輩は勉強サボってギター弾いてそうだなぁ。
とにかく、早くみんなに会いたいのだ。
音楽室の前まで来た。
中からはムギ先輩と唯先輩の声がした。
もう二人は来ているらしい。
ふと、『音楽室』と書かれた札が無いことに気付いた。
近くに落ちてるか探してみたが見つからなかった。
こんな何もない廊下に落ちてないのだから誰かが持って行ったのかもしれない。
落っこちて壊れたから直してるのかもしれない。
特に大変なことでもないので気にしないことにした。
ガラッ
梓「こんにちは~」
紬「梓ちゃん久しぶり~」
音楽室のドアを開けるといつも通りテーブルに5人分のケーキと紅茶が鎮座していた。
いつもと違うのは律先輩と澪先輩がいないことだ。
二人がいないだけなのに、なんだか音楽室が広く感じる。
唯「あ~ずにゃ~~~~ん!!」
唯先輩がいつも通り飛びついてきた。いや、時間が空いていた分勢いが強い気がする。
梓「やめてくださいよ、唯先輩」
唯「いいじゃ~ん、減るもんじゃないし~」
梓「私のほっぺがすり減りそうです!」
紬「あらあら」
いつも通り。久々のいつも通りだ。
梓「そういえば律先輩と澪先輩は?」
紬「澪ちゃんが日直で、りっちゃんは澪ちゃんと一緒に来るって」
梓「唯先輩、そろそろ離れてください!」
唯「まだ二人とも来ないし~、それまで離さない~」
梓「続きは練習の後にしてください!」
別に唯先輩にべたべたされるのが嫌なわけじゃない。
むしろ、唯先輩といると癒されるというかなんというか…
でもさすがに恥ずかしいしかった。
唯「…れんしゅう?」
唯先輩が不思議そうな顔をしている。私何か変なこと言っただろうか。
唯「練習って何するの?もしかして、あずにゃんケーキ作るの!?」
梓「違います、練習って言ったらバンドの練習に決まってるじゃないですか」
唯「…ばんど?」
唯先輩は私をからかっているのだろうか。
しかし唯先輩の表情は本当に何も知らないような、曇りのない疑問の表情だった。
梓「とぼけないでください、バンドはバンドです、唯先輩はギター練習してましたか?」
なにかがおかしい。
梓「え…何を言って…」
唯「ムギちゃんムギちゃん!ぎたーってなぁに?」
紬「ぎたー?私は分からないわ…」
ムギ先輩まで…二人で打ち合わせをして私をからかっているのだろうか。
この二人にこんな演技力があったのは意外だ。
唯「ねぇねぇあずにゃん、ぎたーって何?」
紬「ぎたーって私知らないの!教えて!」
唯先輩は不思議そうな顔でこちらを見ている。
ムギ先輩は興味しんしんな顔でこちらを見ている。
天然な二人にしては迫真の演技だと思った。
でも、なにかがおかしい。
梓「ギターならその辺に…」
…無い。ギターどころが楽器がすべて無い。
何か部屋が物足りないと思っていたが、ドラムセットもキーボードも見当たらない。
梓「ムギ先輩…キーボードは…?」
紬「きーぼ…?」
もしかして…
梓「唯先輩!ドラムはどうしたんですか!?」
唯「…どらむ?」
二人は音楽の記憶を失くしてしまったのだろうか…
梓「二人ともふざけないでください!さすがにこれはいたずらとしては悪質すぎます!」
唯「…あ、あずにゃんがなんで怒ってるのか分からないけど、私達がなにかしたんならごめん…」
紬「…ご、ごめんなさい」
しばらく沈黙が続いた。
沈黙を破ったのは律先輩の空気を読まないほど元気な声だった。
律「よーみんなー!…って、えっなにこの空気」
澪「みんなどうしたんだ?」
唯「あ、あのね…私達があずにゃんを傷つけちゃって…それで…」
梓「唯先輩…もういいんです…」
私が悪いのだ。二人の事情も考えず怒鳴ってしまったのだから。
律「なんだよー、私にもわかるように説明してくれよー」
澪「お前は空気を読め!」
ドスッ
いつも通り、澪先輩が律先輩にチョップを入れる。
律「いってー、いいじゃんかよー、部長の私が部員の事情を知らなくてどうする」
澪「こんなときだけ部長面するな」
律「だいたい澪ちゃんだって知りたいんじゃないの~?」
澪「うっ…」
澪先輩、落ちやすすぎです。
唯先輩とムギ先輩は状況が状況だし、私が説明しよう。
梓「ちょっとお二人、近くにきてください」
唯先輩とムギ先輩には、自分たちが記憶を失くしていることは秘密にしたほうがいいだろう。
梓「実は唯先輩もムギ先輩も音楽に関する記憶がないんです…」
律「?…おい梓、おんがくってなんだ?」
…意外な言葉。いや、聞きたくなかった言葉だ。
梓「澪せん…」
澪先輩は見るからに心配そうな顔でこっちを見ているので、聞くのは諦めた。
どうやら、少なくとも先輩がた全員には音楽に関する記憶はないらしい。
でも、楽器の知識ならまだしも音楽っていう単語まで記憶にないとは…
ふと、気になることがあった。
じゃあ、みんな何部のつもりなんだろうか。
少なくとも軽音部ではないのだろう。
梓「律先輩…変なこと聞きますが…ここって何部でしたっけ?」
律「…本当に変なこと聞くなぁ、私達はティータイム部だろう」
ティータイム部?茶道部じゃなくて?聞いたことがない。
澪「梓…今日のお前なんか変だぞ?」
変なのはみんなだ。
律「さー、今日のケーキは何かなー?」
唯「…お話もういいの?」
律「ああ、よくわからんしな」
こんなのおかしい。
紬「今日のケーキはねぇ…」
そうだ。憂や純はまともかもしれない!
でもなんて聞けばいいのだろう。
突然「音楽って知ってる?」なんて送って、知っていたら恥ずかしい。
4人とも、全部演技だったりなんかしたら目も当てられない。
結局憂と純には「○○って知ってる?バンドの名前なんだけど」というような内容のメールを送った。
これで「バンドって何?」のようなメールが帰ってきたら…
世界から音楽というものが消えたのかもしれない。
私はケーキを食べながらメールを待った。
いつもと違ってケーキも紅茶もおいしく感じない。
自分だけが異常な空間に投げ出された孤独感、みんなと演奏できない寂しさがそうさせるのだろう。
絶望は私が思っているより早く訪れた。
「ごめん、メールの意味がわからなかった」
憂も純も、だいたいこのようなメールをすぐに帰してきたのだ。
どうやらこの世界には音楽は存在していないようだ。
おかしいのは私だけだったのだ。
唯「…にゃん!あずにゃん!」
梓「あ、唯先輩…」
気がつけばみんなが私を見ている。
私が異常だからだろう。みんなにとってはいつも通りの日常なのに、私が非日常だからだろう。
唯「あずにゃん、大丈夫?保健室行く?」
唯先輩がとても心配そうに私を見ている。
そんな目で見ないでください…私からすれば、私の頭は正常なんです…
唯「具合悪いの?悩みでもあるの?」
…唯先輩に限って、私を異常者として見ているはずはなかった。
唯先輩は私がボーっとしてたり、暗い顔したりしているから心配してくれていたのだ。
唯「何でも私に話して!私でよければ力になるよ!」
梓「唯先輩…」
この人になら話してもいいと思った。
律「そうだぞ、梓の悩みはみんなの悩みだ!」
いや、唯先輩だけじゃない。
紬「私も力になるわ!」
みんなになら…
澪「力にはなれないかもしれないけど、話すだけでもすっきりするぞ」
みんなになら話せる気がする。
梓「実は…」
澪「それって…梓だけパラレルワールドに迷い込んだんじゃないか?」
唯「ぱられる…?」
澪「おんなじ見た目なんだけど、ちょっと違う世界のこと」
紬「うわー!なんか素敵ー!」
律「ムギ…梓は本当に悩んでるんだぞ」
先輩がたはとっても優しい。
音楽のおの字も知らないのに、私の話を信じてくれて、原因まで考えてくれている。
唯「実はまだあずにゃんの夢の中なんじゃない?」
澪「そうだとしたら私達は梓の夢の中の住人ってことになるな」
律「んじゃあ梓が目を覚ましたら私達は消えるのかもー…」
澪「ひぃ!!…怖いこと言うな!」
紬「梓ちゃん、痛い?」
ムギ先輩が私のほっぺをつねる。もちろん、痛い。っていうかムギ先輩痛いです。
梓「いたいれふ…はなひてくらはい…」
律「だいたい夢とかパラレルワールドとか、そうだったとしてどうするんだ?」
澪「確かに…」
唯「寝れば治るかも!」
梓「風邪じゃあるまいし、そんな簡単に治ったら苦労しないですよ」
紬「はい、ベッド~」
梓「なんでベッドがあるんですか!」
どうやら機材が無い分色々とムギ先輩が快適に過ごせるグッズを持ち込んでいるようだ。
唯「あずにゃん、寝た~?」
梓「こんな時間から寝れませんし、みんなに見られてるとなおさら寝れません!」
律「残念だなー、梓の寝顔の写真でも撮ろうかと思ってたのにー」
スパーンッ
澪先輩の突っ込みが入った。こんな状況なのに、なんだか笑いが込み上げてきた。
梓「アハハ、音楽が無くてもいつも通りですね」
そう、音楽が無くなったという事実さえなければいつも通りなのだ。
…普段練習してないしなぁ。
唯「そうだ!こういうときは和ちゃんに聞こう!」
澪「さすがに和でも解決できないだろう…」
でも、物は試しと唯先輩は和先輩を連れてきた。
和「唯の言ってることがよくわからないから説明してくれないかしら…」
やっぱり唯先輩は状況を把握しきれていないようだ。
いや、ここにいる誰もが状況を理解できてはいないのだろう。
和「…なるほど、普通に考えたら梓ちゃんの記憶が間違ってるってことになるわね…」
唯「あずにゃんはそうじゃないって言ってるよー」
和「とりあえず梓ちゃんがおかしいと思った最初のタイミングを知りたいわ、ヒントになるかも」
律「さすが…冷静だな」
梓「最初に…」
最初に気付いたのは唯先輩に不思議そうな顔をされた時だ。
梓「唯先輩が私の言ったことが通じなくて…」
和「その前に、他に何かなかった?」
そういえば…音楽室の札が無かったのはもしかするとこの世界には「音楽」が無いからだったんじゃ…
梓「この部屋の…名前が無くなってました」
和「名前?」
梓「『音楽室』って書いた札が無くなってたんです。普段はドアの上に…」
和「でも今はドアの上にはちゃんと『多目的室』って書いてあるわよ」
紬「もしかしてその時にパラレルワールドに?」
唯「じゃあ今すぐ書きかえれば戻るかもしれないね!」
梓「や、やってみます」
『多目的室』と書かれた札を回収し、早速『音楽室』と私が手書きした札を入れてみた。
私が『音楽室』と書いている時、澪先輩とムギ先輩は興味しんしんだった。
音を楽しむって書くのはロマンチックだな、と澪先輩はつぶやいていた。
梓「…どうですか?」
唯「わかんない~」
澪「駄目だ、やっぱり音楽っていうのは分からない」
和「違う世界に入るときと出る時では方法が違うのかも」
律「とりあえず迷宮入りかー」
紬「大丈夫、きっといつかヒントが見つかるわ」
まぁ、こんな簡単な方法でパラレルワールドに飛ばされるんだったら、世の中今の私と同じ状態の人だらけになってしまう。
何か他にいつもと違うところは無かっただろうか…
梓「…そういえば」
そういえば、私は今日はギターを持ってきていなかった。
何故持ってきていないのかを考えても分からない。
単に忘れただけかもしれない。
いや、あんな大きいもの唯先輩じゃないんだから忘れるわけがない。
でも放課後には私はみんなと演奏するのを楽しみにしていた。
ということは…
梓「もしかしたら、放課後にこの世界の私と元々いた世界の私が入れ替わったのかも…」
今日の朝に入れ替わったのだったらギターを探しているはずだ。
授業中に入れ替わったとしても、放課後になった瞬間に気付くはずだ。
とすれば、私が音楽室に向かっている最中に世界が変わったのではないか。
唯「放課後に変わったんだったら明日の放課後になったら戻れるのかな?」
梓「そんな簡単なものでしょうか…」
和「でも今はヒントもないし、寝たら治るっていうのも試してないんでしょう?」
今現在の元に戻る可能性は二つ。寝るか、放課後になるか。
もしかするともっと世界が変わってしまうかもしれない。
でも今はそれに賭けるしかなかった。
家に帰る途中、本屋さんに寄った。
音楽に関する本は一切なかった。
楽器屋さんはファミレスになっていた。
家に帰ると、当然のように私の部屋にギターは無かった。
音楽雑誌やらスコアやら、音楽に関係するものは何もなかった。
テレビの音楽番組も、全てバラエティ番組にすり替わっていた
この世界には本当に音楽が無い。
そう実感すると急に涙が出てきた。
ブー、ブー
携帯のバイブ音。今気付いたが携帯から着信音が無くなっていた。
梓「唯先輩から…メール?」
唯「あずにゃん、元気出して!私は元気だよ!ほら、ギー太だよ~」
ギー太!?ギー太は唯先輩の愛用のギター…もしかして…
添付画像を見る。
…大きなテディベアの画像が映った。
梓「私、何期待してたんだろ…」
ここまで徹底的に音楽が無いこの世界に、ギターのギー太がいるはずなかった。
でも、唯先輩のメールは嬉しかった。
落ち込んでいるときに励ましのメールをくれるだけで、ものすごい元気が出た。
梓「よし!寝よう!明日になったら音楽は復活する!」
最終更新:2010年07月28日 21:28