2012年 8月19日 唯
念願の武道館ライブまであと一ヶ月、私たちはムギちゃんの別荘へ合宿に来ていた。
唯「大きい…」
別荘はすごい広さだった。
紬「ごめんなさい、今年も一番広い別荘は使えなくて、ちょっと狭いけど、我慢してね」
まだ上があるのか…
ムギちゃんってほんとにすごいお嬢様だったんだなあ。
部屋に荷物を置いて一息ついたとき、りっちゃんが立ち上がって言った。
律「それじゃあ、さっそく…」
練習ですね。
律「海に行こう!」
唯「ええ!練習は?」
りっちゃんはもうすでに水着に着替えていた。
律「練習は夜からでもできるだろ、唯も早く海行こうぜ!」
唯「そんなー、先に練習しようよー」
律「合宿の初日は海で遊ぶのが軽音部の伝統なんだよ、ほら早く」
放課後ティータイムではなくて、軽音部、か。
私はその言い方に一抹の寂しさを覚えた。
唯「もう武道館まで一ヶ月も無いだから、もっと練習しようよー」
澪「まあまあ、唯、夜になったらちゃんと練習するから」
梓「唯さん、諦めましょう…」
紬「うふふ」
そう言った三人もすでに水着に着替えていた。
澪ちゃん、梓まで…
律「そんなこと言って、唯だってちゃんと水着持ってきてるじゃん」
唯「こ、これはりっちゃんが持ってこいって言うから、しかたなく…」
律「じゃあ先行ってるから、唯も早く来いよー」
そう言ってりっちゃんは一足先に海へと行ってしまった。
はあ、こんなことで、武道館ライブ、大丈夫かな…
私はため息をついた。
2009年 8月10日 梓
唯「あずにゃーん」ギュ
そういって抱きついてくる唯先輩、正直いって、暑いです。
梓「唯先輩、だらけてないで、練習しましょうよ」
唯「うーー、暑くてやる気でないよー」
梓「それじゃあ、まずは抱きつくのをやめてください、私も暑いです」
唯「だめー、今あずにゃん分補給中だから」
梓「それじゃあ、せめて冷房つけましょうよ、せっかく部室に設置してもらったんですから」
唯「ごめんねー、私冷房って苦手なんだー」
梓「ああもう!じゃあいったいどうしたらいいんですか」
唯「うーん、あいす…たべたい」
だめだこの人、早くなんとかしないと。
ガチャ
紬「ごめんなさい、遅くなっちゃった、今日は暑いからおやつにアイス持ってきたから、みんなでたべよう」
唯「わーーい、アイスー!」
唯先輩は嬉しそうにアイスを食べ始めた。
はあ、いつになったら練習できるんだろう…
私はため息をついた。
2012年 8月19日 唯
結局、私たちは夕方まで海で遊んでしまった。
今日の夕食はみんなでバーベキューをすることになった。
「「かんぱーーい」」
私達はすでに二十歳をむかえているので、手に持っているのはお酒だ。
梓だけはまだ未成年なので、オレンジジュースを飲んでいる。
梓「先輩達、このあと練習するんですから、あんまり飲みすぎないで下さいよ」
唯「大丈夫だよ、そんなにたくさん飲まないから」
梓「唯さんはしっかりしてるから心配してないですけど、心配なのは律先輩です」
律「なんだとー、このー」
りっちゃんはそう言って得意のちょーくすりーぱーを梓にかける。
梓「ちょっ、先輩、ぎぶぎぶ」
紬「うふふ」
りっちゃんと梓がじゃれあっているのを、ムギちゃんが嬉しそうに眺めていた。
最初はなんでなのかわからなかったけど、最近になってその理由がわかってきた。
ようするにムギちゃんは女の子どうしが好きなのね。
2009年 9月12日 律
ジャーーーン……
いつも通り部室でのティータイムもそこそこにして、
みんなで音あわせを始めてから少しして、唯が口を開いた。
唯「ごめん、みんな、ちょっと休憩してもいい…?」
澪「おいおい、まだ始めて30分もたってないぞ」
梓「もう、唯先輩、しっかりしてくださいよ、そんなことじゃ武道館なんて夢のまた夢ですよ」
紬「もしかして、具合わるいの?唯ちゃん?」
唯「ううん、だけどなんだか最近疲れやすくて、階段を登っただけで、息が上がっちゃうし」
律「そういえば、なんだか顔色も悪そうだな」
唯「え、そうかな?」
律「今日はここまでにするか、唯、今日は帰ってゆっくり休め」
唯「うん、ごめんね、みんな」
澪「気にするな」
梓「そうですよ、体調が悪いときはゆっくり休んでください」
2012年 8月19日 唯
夕食を食べ終わり、私とムギちゃんで洗い物を終えて中に戻ると、
りっちゃんがカキ氷機をくるくると回して氷をけずっていた。
律「お帰りー、ムギと唯もカキ氷食べる?」
紬「うん、ありがとう」
唯「私はいいや」
律「あれ?唯はカキ氷嫌いなの?」
唯「うん、カキ氷とか、冷たいもの食べると頭がキーンってなるでしょ」
唯「私あの感じが苦手で」
律「ふーん、おいしいのになあ…」
そんなことより、早く練習しようよ。
律「それじゃあ、ご飯も食べたことだし、そろそろ…」
やっと練習か…
律「肝試しやろうぜー!」
唯「ええ?練習はー?」
律「ほんと唯は練習熱心だな、誰かさんとは大違いだ」
誰かさんというのは、きっとあの人のことを言ってるんだろう…
唯「先に練習しようよー」
律「まあまあ、肝試しなんて10分くらいで終わるって」
律「それとも唯、もしかして怖いのかー?」
そう言ってりっちゃんは最近伸ばし始めた私の長い髪をくるくるといじってくる。
そう、私は怖いのが苦手なのだ、だけどりっちゃんにからかわれっぱなしなのも悔しい。
唯「こ、怖くなんてないよ!」
律「じゃあ、決まりだな!」
2009年 9月13日 律
昨日、唯は学校を休んだ、やっぱり風邪でもひいてたのかな。
梓によると憂ちゃんも休んでいたそうだけど、
きっと唯の看病でもしているのだろうと、気にとめていなかった。
澪「唯、今日も休んでたな…」
紬「梓ちゃんが来たら、みんなで唯ちゃんの家にお見舞いに行かない?」
律「おお、いいなそれ」
ガチャ
梓「……」
そんな話をしていると、部室のドアが開き、梓が入ってきた。
律「おー、梓、遅かったな、今からみんなで唯の家に…」
話している途中で、梓の他にもう一人いることに気づいた。
律「あれ?憂ちゃん…?」
梓の後ろには憂ちゃんが立っていた。
なぜだか浮かない顔をしている。
憂「実は…みなさんにお話したいことがあって…」
2012年 8月19日 唯
怖くない、怖くない。
私は今りっちゃんと二人で別荘の近くの森を歩いている。
肝試しの班分けは、りっちゃんの独断で、私とりっちゃんの班と他の三人の班に決まった。
怖くない、怖くない。
私があまりまわりを見ないようにしながら歩いていると、りっちゃんが話しかけてきた。
律「あのさ、唯…」
唯「な、なに?りっちゃん?」
律「ありがとな」
唯「なにが?」
律「唯がバンドに入ってくれて、ほんとに感謝してるんだ」
りっちゃんは真剣な顔をしてそう言った。
どうやら真面目な話みたいだ。
もしかすると、そのために私と二人になりたかったんだろうか。
律「ここまでこれたのも、唯のおかげだよ」
唯「そんな、私なんかまだまだだよ、みんなと息を合わせるだけで精一杯だし…」
律「そんなことないさ、私だけじゃなくて、みんなも唯には感謝してるんだ」
律「唯のおかげで、私たちはようやく、約束を果たすことができるんだから…」
辺りは真っ暗で、りっちゃんがこのときどんな顔をしていたのか、私にはわからなかった。
2009年 9月13日 律
律「入院?唯が?」
憂「はい、昨日から…」
部室に来た憂ちゃんは私達に唯が入院したと告げた。
その表情はどこまでも暗かった。
なんだか嫌な予感がした。
紬「もしかして、盲腸とか?」
そう聞いたムギの表情も暗い。
憂ちゃんの様子から、盲腸なんかではないことを、みんな感じ取っているんだろう。
憂「それが……心臓の病気らしくて…」
澪「心臓の…」
憂「来週、手術することに決まりました…」
律「じゃあ、手術すれば、唯は良くなるんだろ?憂ちゃん」
憂「はい、だけど…とても難しい手術らしくて…」
憂「成功する確率は、五分五分だろうって、先生は…」
澪「それって、もし失敗したら…?」
憂「……」
部室の中に重苦しい空気がたちこめる。
そんな…唯がそんなに重い病気だったなんて…
律「憂ちゃん、そんな暗い顔しないで、五分五分ってことは治る可能性も充分あるってことだろ」
私は無理に明るく言った。
律「これからみんなでお見舞いにいこうぜ、唯に暗い顔なんて似合わないから、みんなで励ましてやろうぜ」
憂「はい、ありがとうございます…律さん」
そう言った憂ちゃんの表情も心なしか少しだけ明るくなったように感じた。
2012年 8月19日 唯
ジャーーン……
澪「今のいい感じだったな」
梓「はい、ぴったり合ってて気持ちよかったです」
肝試しを終えたあと、私達は別荘のスタジオで練習を始めた。
スタジオの中は空調がきいているのか、涼しくて気持ちいい。
練習はとてもはかどった、この調子なら、来月の武道館ライブもきっと大丈夫だろう。
律「ところで梓、憂ちゃんに武道館ライブのチケット渡しておいてくれた?」
梓「はい、こないだ会ったときに渡しておきました」
律「そっか、ありがと、澪のほうは?」
澪「和にも、この前渡しておいたよ、憂ちゃんと一緒に見に来てくれるってさ」
紬「二人のためにも、恥ずかしくない演奏をしなくちゃね」
そっか、あの二人も見に来てくれるんだ。
ああ、なんだかもう緊張してきた…
律「じゃあ、もっかい合わせておくか」
律「いくぞー、ワン、ツー、スリー、フォー!」
2009年 9月19日 律
唯の手術の日まで、あと一日。
私たちは毎日唯のお見舞いに行っていたけど、
私は今日は一人である所まで来ていた。
以前四人で初詣にきた、あの神社へと。
私は賽銭箱にお金を放り込んで、手を合わせて祈った。
(唯の手術が成功しますように)
(唯の病気が良くなりますように)
(ずっと五人で、バンドを続けられますように)
(いつの日かみんなで、武道館のステージに立てますように)
祈ることしかできない自分がもどかしい。
そろそろ帰るか…
神社を出ようとした私の目に、売店で売っているお守りが見えた。
せっかくだから買っていこうかな。
唯の好きなピンク色のやつにしよう。
どうせなら、みんなの分も買っていくことにしよう。
律「すいません、このピンク色のお守りを五個ください」
2009年 9月20日 律
そして迎えた、手術の日。
紬「唯ちゃん、頑張ってね」
澪「唯、しっかりな」
梓「絶対成功するって、信じてますから…」
唯「みんな、ありがとう」
律「唯!私達は武道館でライブするんだからな!こんなところで死ぬんじゃないぞ!」
唯「そうだよね、武道館にいくんだもんね!」
澪「ああ、唯、約束だぞ」
唯「うん、じゃあ、行ってくるよ」
私はそのとき、昨日買ったお守りのことを思い出した。
律「唯、待って!これ持っていって」
唯「これって…」
私がお守りを渡すと、唯はきょとんとした顔をした。
唯「ぷっ、あはは」
と、思ったら急に笑い始めた。
律「ど、どうしたんだ?」
唯「ううん、りっちゃんらしいね、ありがとう」
唯「それじゃあ、みんな、また後でね」
その言葉を最後に、唯を乗せたストレッチャーは手術室へと入っていってしまった。
扉の上に、手術中のランプが点灯する。
扉の前には、私達と憂ちゃんと和、唯の両親が残された。
私達は手術が終わるまで、ここで祈っていることしかできない。
紬「唯ちゃん、きっと大丈夫だよね…」
ムギが不安そうに呟いた。
澪「それにしても律、いつの間にお守りなんて買ったんだ?」
律「昨日、みんなで行った神社に行って買ってきたんだ、みんなの分もあるよ」
梓「さすが律先輩ですね」
澪「律のことだから、間違って変なお守り買ってきたりしてないだろうな?」
律「えっ?お守りって種類があるの?」
知らなかった…
紬「……」
澪「……」
梓「…こういう時は、健康祈願とかですよ」
澪「いったい何のお守りを買ってきたんだ」
私がポケットからお守りを取り出すと、そこにはこう書かれていた…
律「……交通…安全……」
澪「……」
梓「…唯先輩、大丈夫かな…」
チッチッチッチッチ
手術が始まってから三時間がたった。
もう私たちの間に会話はなく、みな沈黙している。
チッチッチッチッチ
静寂の中、ただ時計が時を刻む音だけが聞こえてくる。
チッチッチッチッチ
それにしても遅すぎる。
予定では二時間ほどで終わる手術だと聞いていた。
なのにもう一時間もオーバーしてしまっている。
なにか不測の事態でも起こってしまったのだろうか。
ただ待っているだけだと、悪いことばかり想像してしまう…
チッチッチッチッチ
そういえば、昔なにかの漫画で読んだことがある。
心臓の手術というのは、とてもシビアなのだと。
たとえば、癌の手術なら、手術が成功しようと失敗しようと、
手術が終わって麻酔が切れれば、患者は目を覚ます。
だけど、心臓の手術ではそうはいかない…
もしも心臓の手術で失敗すれば、その患者が目を覚ますことは二度とない。
二度と…
最終更新:2009年11月26日 10:02