『唯編』


澪「そういう所が嫌なんだよ」

床に突っ伏したまま泣いている私に、澪ちゃんはそう言った。

もう私は何十分もこうして床に丸まって、顔を隠して泣いている。
駄々をこねる私に、とうとう澪ちゃんは愛想を尽かしたらしい。

唯「う…うぅ…うああああああん…」

謝らなきゃ。
いくらそう思っても涙が止まらない。泣き声も止まらない。
つくづく私は甘ったれた人間だ。

澪「わかった?いくら泣いたってダメだ。私は別れるって決めたんだから」

澪ちゃんの言葉とは思えなかった。
優しさも愛情も感じられない。友情すらそこにはなかった。

唯「ふっ…うっ…うわあああああん」

顔を床に伏せたまま、一際大きな声で私は泣いた。
澪ちゃんに対する当てつけでそうしたわけではない。
ただ、澪ちゃんの言葉を受け入れ、目の前の現実を飲み込むには、私の心は狭量すぎた。
決壊したダムのように、私の感情は身体を越えて溢れ出し、声となって発露した。

思えばあの時もそうだった。私の感情はいとも簡単に堤防を越え、自分自身を飲み込んだ。

ゴールデンウィーク後の部活。
開け放たれた窓から、ソフトボール部のランニングをする声が聞こえた音楽室―――


澪「ひゃうっ!」

唯「ふおっ!?」

澪「…ベースが冷えてて、それが膝に当たって…」

唯「ひゃうっ!だって。もう一回言って?」

澪「い~や~だ~」

冬の日。
すがりついて懇願する私を、澪ちゃんは必死で引き離そうとする。
本当にもう一回聞きたいと思った。
私の身体の奥から沸々と沸き上がる未知の感情がそこにはあった。

この時から、私は澪ちゃんのこの声を聞きたいがために、練習を始める前にベースを肩にかける澪ちゃんに注目する様になった。
しかし、澪ちゃんは私と違って賢い子だ。
反省を活かし、その綺麗な太股に冷えたベースを当てる事はもうなかった。
それでも私は、澪ちゃんを観察し続けた。

ずっと忘れていたが、最初に澪ちゃんを見た時、本当に綺麗な子だと思った。

澪「ようこそ軽音部へ」

あの時の私は、入部を断る事で頭がいっぱいだった。それでも一瞬、彼女に目を奪われた。
私みたいな平凡な女の子とは違い、背が高く、かっこいい大人の女性だった。

三年からは同じクラスになり、最初の席替えで私は澪ちゃんの隣になった。

唯「わーい、澪ちゃんが隣だ!」

澪「うん、よろしくな唯」

あの冬の日から、無意識のうちに私は澪ちゃんを目で追うようになっていた。

澪「…い…唯…唯!おい唯!」

唯「ほえ…?」

澪「お前、当てられてるぞ?」

唯「へっ…!?」

その日の英語の授業中、隣に座る澪ちゃんに見とれていた私は、自分が当てられた事にも気づかなかった。

先生「平沢さん、じゃあこの英文を訳して」

唯「え…えーっと…ア、アイ、アイム…」

澪「いや、和訳だってば」

わかるわけがない。
その授業は頭からほとんど聞いていなかったのだ。

私がもたついてるのを見ていられなかったのか、澪ちゃんが手を挙げた。

先生「ん?…仕方ないな。じゃあ秋山さん」

澪ちゃんは立ち上がると、事もなげに答えた。

澪「はい。えーっと…『私が部屋に入った時、カーテンの隙間からは朝日が射していて、』…うんたらかんたら」

先生「ん。正解」

律「おおー、私今のところ、カーテンにくるまって部屋に入ったのかと思ってたよ」


りっちゃんのボケに教室がどっと沸いた。
澪ちゃんはすっと席に座ると、私のほうをちらっと見た。

私が小声で、

唯「澪ちゃんありがとう」

と言うと、ふっと笑って澪ちゃんは黒板のほうを向いた。
かっこいい。
素直にそう思った。


授業が終わり、放課後になり、部活が始まっても、私はまださっきの澪ちゃんの笑顔が頭から離れなかった。
見慣れたはずの澪ちゃんの顔が、やけに新鮮に思えた。

律「いやあ、しかし澪が授業中に自分から手をあげるなんてな」

澪「だって唯がさ…。ちょっと放っておけなくて」

紬「でもあの時の澪ちゃん、かっこよかったわ」

澪「そ、そう?ハハハ…。唯、今度からちゃんと予習しとけよ?」

唯「…」

梓「…唯先輩?」

唯「え」

澪「全く、ちょっとは予習しとけよ?」

唯「う、うん。そうだね」

澪ちゃんはやれやれ、といった顔をしている。

私は途端に恥ずかしくなった。
澪ちゃんに見られるのが、澪ちゃんと話すのが、恥ずかしくて仕方なかった。
この時は、自分が授業中にヘマをやらかしたらだとしか思わなかった。

その夜、私は家に帰り、憂が作った夕飯を食べ終わると、自分の部屋のベッドに身を放り出した。

俯せで枕に顔をうずめながら、英語の授業中に澪ちゃんが私に向けた笑顔を思い出した。

やけに落ち着かない。

私は悶々としながら、思い出したようにケータイを開いた。

新規メール作成。

宛先、澪ちゃん。

[澪ちゃん、今日はありがとう]

最後に絵文字を打ち終わると、そわそわした。
私は送信ボタンを押す。

一曲演奏し終えたような達成感があった。

すぐに、私のケータイが鳴った。

澪ちゃんから返信が来た。わくわくしながら私はメールを開いた。

[え?なにが?]

絵文字も何もない、シンプルな澪ちゃんのメール。
それすらもかっこよく思えた。
私は少し考えてから、返信をした。

[英語の授業中、私のかわりに答えてくれてありがとう]

[なんだ、その事か。明日はちゃんと予習して来るんだよ]

[了解です!]

ケータイを閉じると、不思議と笑みがこぼれた。

私は枕に顔を埋めて、足をバタバタさせる。
なんでこんなに嬉しくなるのか、見当もつかなかった。

少しして気持ちが落ち着くと、私は机に向かい、英語の教科書を開いた。

翌日、遅刻ギリギリで教室についた私は、澪ちゃんの隣の自分の席についた。

澪「おはよう唯。危なかったな」

唯「う、うん。そうだね」

澪「?」

挙動不審な私を訝しげに見る澪ちゃん。
また恥ずかしくなってしまった私は、澪ちゃんから目を逸らした。

ホームルームが終わると、私はノートを取り出した。

唯「ほら見て。ちゃんと予習してきたよ~」

澪「お!偉いな唯……ってこれ、予習範囲越えてるぞ!?」

唯「え?」

澪「教科書ほとんど終わらせちゃってるじゃん!」

唯「あ…えへへ、張り切りすぎちゃった」

澪「ほんとに極端な子…」

律「なになに?どしたの?」

澪「ほら、唯が英語の予習、ほとんど終わらせちゃったんだよ」

律「うお!?マジで!ちょ…ちょっと写させてくれ!」

唯「ふふん!どーぞどーぞ」

律「あ~ありがたや~ありがたや~」

澪「あ、ちょっと待って。…ここと…あとここもだな。間違ってるぞ」

唯「ありゃ?」

律「…なんだよ、じゃあいいや~」

澪ちゃんはスラスラと訂正箇所を直していく。
黒くて長い髪を耳にかけ、真剣な眼差しで。
私は訂正される英文より、澪ちゃんのほうを食い入るように見つめた。

澪「はい。とりあえず今日のぶんは直したから」

唯「うん。あ、ありがとう」

どぎまぎしながら私は澪ちゃんからノートを受け取った。

律「ほら、澪がちゃっちゃと直しちゃうから唯がへこんじゃったじゃん」

澪「えぇ?」

唯「そ、そんな事ないよ!澪ちゃん」

律「あーあ…唯かわいそー。澪ーイジメは良くないぞ?」

澪「うるさいっ」

二人の掛け合いは毎度の事で、私にとってそれは日常だったはずだが、この日はまるで悲劇の舞台でも見ているように、胸をえぐられる思いがした。

私の顔が色を失ったのを察したのか、りっちゃんは、

律「ほら!やっぱ澪がスラスラやっちゃうから唯が」

と澪ちゃんをからかった。

澪「う…。ほ、ほんとに落ち込んでるの?」

唯「ううん。そうじゃないんだけど…んー調子悪いのかなあ?」

律「おいおい、また風邪か?気をつけろよ?」

唯「がってんです!」

その日から、私はもうまともに澪ちゃんと話せなくなった。
教室でも、音楽室でも、私は澪ちゃんに話しかけられると、素っ気無い返事をするだけ。

でも、毎日何かしらの理由をつけて澪ちゃんにメールを送った。
目が合うと、私はすぐ逸らすくせに、それでも胸が躍った。
たまの会話は楽しくて、体中が軽くなって浮かび上がるような気持ちがした。


ようやく気づいた。
私は澪ちゃんが好きなんだ。

前に誰かが言っていた。
初恋とはこれが最後の恋だと思うもので、最後の恋はこれこそ初恋だと思うものだと。
私には、その両方がこの気持ちに当てはまる気がした。

でも、私達は友達。いや、それ以前に女の子同士だ。

和ちゃんにすら相談できず、私は毎晩ベッドの上で澪ちゃんのメールを待ちながら、頭を抱えていた。
足をばたつかせ、澪ちゃんが書いた歌詞を眺めながら一人でニヤニヤしていた。



律「唯、ちょっといい?」

ゴールデンウイーク前の最後の部活後、りっちゃんが話しかけてきた。
その日はりっちゃんと二人で下校する事になった。

下駄箱で外靴を履き終わると、りっちゃんが話を切り出した。


律「お前さ、最近澪に対して距離置いてない?」

心臓が大きく鳴り、体中の血液が沸騰しそうになった。
もしかしてりっちゃんにはバレているのだろうか?

律「もしかして、澪と喧嘩でもしたの?」

唯「え?ち、違うよ」

律「…澪はさ、確かにちょっと口ベタだし、融通利かないとこあるけど…まあそこは梓も同じか」

律「とにかく、悪い奴じゃないと思うんだ。幼なじみの私が言うんだから間違いない」

唯「わかってるよそんなの」

わかってる。
私は澪ちゃんの親友じゃないし、幼なじみでもないけど、それは良くわかっているつもりだ。

律「ならいいんだ。…まあ、なんていうの?仲良くしてやってほしいんだ。私としては」

仲良くしたいに決まってる。誰よりも仲良くしたい。

唯「…お…ちゃんも…」

律「ん?」

唯「澪ちゃんもそう思ってるのかな?私が距離置いてるって」

律「そりゃあ澪からそう聞いたからな」

唯「えっ…」

律「あ、いや…あはは…まずかったかな今の。忘れてくれ!」

唯「ううん。話してくれてありがとうりっちゃん!」

律「お、おう!最後の最後で喧嘩なんて私はイヤだからな?」

唯「わかってるよー大丈夫大丈夫!」

どうしよう。
澪ちゃんは私が澪ちゃんを避けてると思っている。
出来る事ならもっと澪ちゃんとくっつきたい。
いつもあずにゃんにしているみたいに。
でも出来ない。
澪ちゃんを前にすると、私の身体はレンガの様に固まり、言葉は行き場を失い、胃に飲み込むしかなくなる。

ゴールデンウイーク中の私は、空気の抜けた風船よろしく、ずっとベッドの上で悶々としていた。
澪ちゃんを誘ってどこかに行こうかとも考えた。

でもメールが出来ない。
私から送らない限り、澪ちゃんとはメールが出来ない事に気づいたからだ。
今までは、私が一方的に送っていただけで、もしかしたら澪ちゃんは迷惑だったんじゃないだろうか?
そう思うと私は送信ボタンが押せなくなった。

何度も何度もメールの下書きをしたが、後は送信ボタンを押すだけというところで、私は電源ボタンを連打してそれを消してしまうのだった。

結局、ゴールデンウィーク中は澪ちゃんに会う事はおろか、メールすらできなかった。


連休明け最初の部活。
音楽室の窓は開いていて、風で揺れるカーテンの隙間から夕陽が射し込み、高総体を控えたソフトボール部がランニング中に声を出しているのが聞こえる。
吹奏楽部の練習音も聴こえてくる。指揮者はさわちゃんだろうか。

りっちゃんとムギちゃんは掃除当番、あずにゃんは日直の仕事があったため、音楽室には私と澪ちゃんだけだった。

私は澪ちゃんと言葉を交わす事もなく、ギー太のチューニングをしていた。

澪「チューナー無しで出来るなんて凄いよな」

唯「うん」

私は澪ちゃんのほうを向かずに、返事をした。
でも、私の声はしっぽを振った犬のように喜んでいる。

違う。こんな会話をしたいわけじゃない。
どうしたら前みたいに構えずに会話出来るんだろう。

チューニングをする私の手が言う事を聞かない。
私がギー太と格闘していると、澪ちゃんが意を決したように言った。

澪「ねえ、どうして最近私と話そうとしないんだ?」

私が澪ちゃんに会えなかったのは、たかだかゴールデンウィークの数日間だけだ。

それでも、私はおあずけを食らった犬の様に、澪ちゃんに会い、言葉を交わす事を心待ちにしていた。
しっぽを振るどころか、よだれまで垂らすほどに。

一日千秋とは言うが、私には千では足りないくらいだった。


押し寄せて来た津波は、テトラポッドを越え、砂浜も、雑木林も飲み込むような気がした。


もう我慢しちゃダメだ。我慢なんてできない。


私はギー太を置き、ベースを肩にかけている澪ちゃんに近づいた。
私は澪ちゃんの細くて綺麗な手を両手でしっかりと握った。

唯「澪ちゃんが好きだからに決まってるじゃん」

多分、私の顔は窓から射す夕日よりも赤くなっていたと思う。
それでも私は澪ちゃんの顔をじっと見つめた。
もう目を逸らしたくなかった。

澪「と、友達って事だよな?」

突然の事に、澪ちゃんは目を見開いて私をじっと見ながら言った。

唯「違うよ。わかってるでしょ」

澪ちゃんの顔が見る見る赤くなっていく。
足の先を含めた澪ちゃんの身体を巡る血液が、全て顔に集まったような顔を澪ちゃんはしていた。

澪「なんで私なの…?」

澪ちゃんは私から目を逸らしながら尋ねた。

なんで?
ずいぶん野暮な事を聞くんだね。
私は一呼吸置いてから答えた。

唯「澪ちゃんだから」

私の言葉を聞いて、澪ちゃんはさらに顔を赤くした。
私はトマトが好きだけど、今の澪ちゃんのほうがずっと好きだ。

今にも卒倒しそうな澪ちゃんの手を握りながら、私は言葉を続けた。

唯「ダメ?」

澪「ダメって…?どういう事?」

唯「私が澪ちゃんを好きって事。ダメかな?」

私は更に強く澪ちゃんの手を握る。

澪「ダメじゃないけど…」

唯「じゃあいいんだね?」

何がいいんだろう?
自分で言っててわけがわからなかった。

澪ちゃんは観念したような顔をして言った。

澪「…手、離してよ。落ち着いて話そう」

やりすぎた?
私は途端に電源が落ちたように冷静になった。

唯「わかった…」

私は視線を下に落とし、スッと手を引いた。



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最終更新:2009年11月26日 10:25