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……そしてある日。
私は一人、海岸の砂浜を歩いていた。
照り付ける太陽。青い海。それに負けないくらい青い空。潮風。
どれもとても気持ちがいい。

ここ最近、本当に色々なことがあった。
軽音部のメンバー全員と関係を持ってしまうという愚行。
皆の心を土足で踏み躙ってしまった。
また、その代償として私もだいぶ心を擦り減らしてしまった。
もちろん全部自分が悪いというのはよくわかっている。当然の報いだ。

だけど今はもう、完全に前の軽音部に戻った。
皆と笑い合ってお菓子を食べたり、もちろん練習もしたり。
来週、合宿も控えている。
私は何というか―――心のリセットがしたかった。
だから今日、昼食を食べ終えた私はずっと海岸を歩いていた。
海はいい。心が洗われる。
それにこの海は海水浴場ではないので人も少ない。最高だ。


私は適当にその場に座り、バッグから本を取り出した。
読みかけの、ファンタジー小説だった。
他にも読みかけの恋愛小説もあったが、それは持ってこなかった。
なんだか色々余計なことを考えたり、思い出しそうで。
ファンタジー小説は頭を空っぽにして読めるから好きだ。

「あ、あれ?もしかして、澪ちゃん?」

主人公が最後のドラゴンを倒したところで、私は後ろから誰かに声を掛けられた。
聞き覚えのある声だった。少し甘ったるく、おっとりとした声。
そう。琴吹紬。私はムギと呼んでいる―――の声だった。

「ん……あ、ムギじゃないか。こんな所で会うなんて奇遇だな」
「ええ。なんだか急に、お散歩したくなっちゃって」

私は本を閉じ、バッグに戻した。
せっかくムギと会ったのだ。少しくらい何か話がしたい。

「えっと……隣、座るか?」
「いいの?なら、お邪魔します」

ムギもバッグを置いて私の隣に座った。
そよそよと潮風が彼女の長く亜麻色の髪を撫でた。

「……いい風ね」

私は黙って頷いた。
静かで穏やかな午後だった。

「ねえ。澪ちゃん」
「なんだ……?」

ムギはスカートをぎゅっと握り、遠くを見つめながら言った。

「あのね……。私、まだ澪ちゃんのことが好きなの」
「……そうか」

ムギはまるで独り言のように言葉を続けた。
私はそれを黙って聞いた。地面の砂を指で弄りながら。

「私ね。初めての恋だったの」

私は黙り続けた。

「綺麗な黒髪で。美人で。頼り甲斐があって。でも怖いものが苦手なんて、可愛らしい一面もあって」

ムギは立ち上がり、手を後ろに組みながら言った。

「澪ちゃんが私のことを抱き締めてくれた時、本当に嬉しかった」

ムギは笑顔だった。
そのまさに“天使のような”笑顔に一瞬ドキリとしてしまう自分が憎かった。

「でも、その恋も……終わりなのね」

さっきまで笑顔だったのに、突然ムギは顔を曇らせてしまう。
安い同情や謝罪の言葉も逆効果だとわかっているので、私は黙っていることしかできなかった。

「ねえ。澪ちゃん。反省してるなら―――最後に私のワガママ、聞いてくれるかしら?」

するとムギは私のことをじっと見ながら、言った。

「あのね。最後の最後に―――夢を見させて欲しいの」
「夢……?」
「ええ。少しだけでいいの。私と―――本物の、恋人になって」

そう言って、ムギは私に手を差し伸べるのだった。
その手を掴んでいいのか、一瞬迷った。
しかしムギの少し寂しげな笑顔を見て、決心した。
今断ったら、ムギは一生私のことを引き摺るかもしれない。

「ああ。こんな私でいいなら」

私はムギの手を掴み、立ち上がった。
最後の最後。恋人ごっこの始まり。

「えっと……少し、歩きましょう?」
「そうだな。せっかく海にいるんだしな」

私はムギの手を握りながら、歩いた。
ムギは頬をほんのり紅く染め、少し俯きながら歩いていた。
やっぱりムギは可愛い。
私もなんだか、本当の恋人同士になったような気がして、少し胸をドキドキさせてしまう。

そしてしばらく、私とムギは砂浜を歩いた。
心から楽しいと思える、そんなひと時だった。
完全に恋人同士になりきっていた。
来週一緒に遊園地に行こう、だとか今晩一緒に夕食を、だとか。
偽りの会話。偽りの予定。でも寂しくも虚しくもなかった。
今だけは、本物の恋人なのだから。

いつの間にか、空は綺麗なオレンジ色に染まっていた。
海が夕陽でキラキラと輝いていた。
もう恋人ゴッコも終わりが近いようだった。

「あはは。楽しかったー……」
「私も楽しかった。今日は本当に、いい日だな」

私とムギは黙って夕陽を見つめた。
気が付けば、ムギは目から大粒の涙を流していた。


「もう……終わりなのね」
「……だな。明日からはいつもの私達だ」
「ねえ、澪ちゃん。私を抱き締めて」

私は黙って、優しくムギを抱き締めた。
ムギは私の胸に顔を埋めながら、泣いた。涙が私の服に染み込んだ。

「ムギ。泣くなよ……まだ私達、恋人同士なんだぞ?」
「ぐすっ……だって……だって……」

次の瞬間。
私はムギの唇に―――自分の唇を、重ねていた。
恐らく最後になるであろう、ムギとのキス。
少しして、名残惜しさを感じつつもやがて私は唇を離した。

「ムギ。好きだ。だから泣くな」
「澪、ちゃん……」

私はにっこりと笑った。
ムギも、手でゴシゴシと涙を拭うと、笑ってみせてくれた。

「あはは。澪ちゃん、今日は本当にありがとう」
「ああ。お礼を言いたいのは私の方なくらいだ」

私達は互いに礼を言い、そして再び抱き合った。
しばらく抱き合って、ムギの方から私から離れた。

「それじゃ……またね、澪ちゃん」

そう言うと、ムギは私に手を振りながら走り出した。
私も手を振りながら、次第に小さくなっていくムギを見送った。
ムギ。ありがとう。今日の事は絶対忘れない。
そして明日からは―――普通の友達として。

私は自分の唇に触れた。
まだムギの柔らかい唇の感触が残っていた。
少し寂しさを感じつつ、私は砂浜を歩き始めた……。


以上です。



最終更新:2010年08月08日 03:06