チリンチリン…
戸に据え付けられた、来客を告げる音色が鳴り響く。
「いらっしゃいませ~」
「予約でお願いしてた田井中ですけどー。」
「あら、澪ちゃんのお友達の?ちょっと待ってて下さいね。澪ちゃ~ん?お友達がいらしたわよ~。」
「はーい、今行きます!」
律を出迎えたのは、この美容院の主任を務めている鈴木祥子さん。
30代後半なのにまだまだ私達に負けないくらい若々しい、物腰の柔らかい綺麗なひとだ。……っと、律が来てるんだっけ。
「よぅ澪、おひさ!」
「いらっしゃい律、早速切るから、そこ掛けて。」
「うはぁ、しっかしこうして見ると、澪も一端の美容師なんだなぁ~。頼むぜ、澪!」
「ばっ、ばか、からかうなよ。」
「からかってなんかいないもーん。澪しゃんの腕を信じて頼んでるわけだしぃ?」
「……もう、プレッシャー掛けないでくれよ、頼むから。」
カットクロスを巻いて霧吹きのトリガーに手を掛ける。
「相変わらずカチューシャしてるのか。」
「なーんか、自分でやるとおかしいし。」
「分かったよ。じゃ、始めるか。……おーい、律?どうかした?」
「へ!?あ、あぁいや、なんでもない、悪い悪い、へへ…。」
どこか、しまった!というような表情で遠い目をしていた律が我にかえって、ごまかすように笑う。
どうも腑に落ちないが、気を取り直して取り掛かる事にした。
まずは律の癖っ毛をまんべんなく湿らせ、軽くコームで梳く。
「うおぉーっ…わたしの癖毛がこうも大人しくなるなんて、どんな水なんだ?これ。」
「別に、薬液とかじゃないよ。ちょっと良い水を使ってるだけ。ところで、今日はどうする?」
「ん~、澪に任せるよ。」
「わかった。」
髪、少し伸びたかな。楽器店勤務とはいえ、
やり過ぎても困るだろうから、許される範囲で少しワイルドな感じにしてみようか。
そんなことを考えながら律の髪をブロッキングして、まずは大まかに。
チャキチャキチャキチャキ……
カットシザーでざっくりと全体をカットしていく。
「それにしてもさー、最近秋だってのに暑いよなぁ。澪はショートにしないのか?」
「うーん、美容院にいるときはそれほどでもないし、
私はあんまり気にならないな。律、全体的に少しシャギーにするぞ?多分、髪も軽くなると思う。」
「はいよー。」
まずはトップをコームでまとめて縦にカットの繰り返し。
やっぱりカットシザーだけだと時間が掛かるから、ある程度やったらセニングシザーでやろう。
片刃の先を指に当てがって、スライドさせながらシャキシャキと律の髪を梳いていく。それにしても地毛でこの髪色ってなかなかいないぞ。
「おぉ、慣れた手つきだなぁ澪。緊張してハサミ持つ手がプルプル震えてたらどうしようかと思うと心配だったよー。」
「そんなわけないだろ。これが仕事なんだから。」
シャキシャキシャキ……
「…ところでさぁ。」
律がなんでもなさそうに切り出す。どうせ何でもない話だろうと思って、生返事をした。
「んー?」
「財布、忘れちった。てへっ☆」
鏡の中の律がウインクする。……は?
「おい。」
「まぁまぁ、今度色つけて返すからさ、とにかくこの場はツケといてよ。」
「あのな…美容院でツケるやつなんて聞いた事ないぞ。」
「だぁーってぇ…お金持ってないんだからしょーがないじゃん!」
ぷぅ、と頬を膨らませてみせるけど、まったく理由になってない。
「……はぁ。仕方ない、今回は私が貸しておくから、ちゃんと返せよ?」
「もちろん!やっぱ澪は頼りになるなぁ、持つべきものは親友だねぇ。」
「やれやれ…よし、それじゃ次はクラウンだな。……それにしても律、後ろの毛量多いな。」
「ん、そうかな?まぁ言われてみれば、ここ最近忙しくて髪切るヒマも無かったしなぁ。」
「道理で伸び放題のわけだ。まぁ、これだけ多ければ結構梳いて丁度いいって感じかな。」
一旦カットシザーでカットしてはあるから、いきなりセニングシザーを入れる。
チャキ…チャキ…チャキ…
「よし、こんなもんかな。あとはフロントなんだけど
……そこまでいじらなくてもよさそうだな。律、ちょっとの間、目を閉じてもらってていいかな。」
「ほいほい。」
律の前に立って、手早くササッと前髪をカットする。重そうだったから、トップに掛かる所も合わせて少しだけ切った。
「終わったよ。シャンプーするからこっちに頭乗っけて。」
「あぁ、うん。」
ジャー…
シャンプー台を軽く流して、律の瞼の上にそっとタオルをのせる。
お湯を右手で掬いながら、まずは軽く律の髪を濡らしてシャンプーを泡立てて洗う。
シャカシャカシャカシャカ……
一回目のシャンプーは軽く髪そのものを洗うだけ。
「っあー、きもちぃ~…やっぱ人にシャンプーしてもらうのって最高だなぁー…」
「ふふっ、それは同感。」
「熱くない?」
「へーきへーき…」
一旦お湯でシャンプーを流して、もう一度洗いにかかる。今度は指の腹で、頭皮をマッサージするように洗っていく。
「痒かったりするところない?」
「んーにゃ、大丈夫。このままずっと澪に髪洗っててほしいくらいだ…」
「私の手が荒れるから断る。」
「そりゃ残念だー。」
ジャァァァァ…
泡立った律の髪を、右手をあてがいながらお湯で濯ぐ。額の生え際から、段々下へ降りていって襟足までしっかり流す。
「よし、と。」
髪をまとめて手で絞り、タオルで丁寧に拭いていく。濡れてるといけないから、サイドを拭くときに耳も拭う。
これくらいの長さなら、普通に乾かせば直ぐにスタイリングできるだろう。
「おぉー、なんか頭さっぱりしたぁ~。サンキュー澪!」
「ほら律、まだ終わりじゃないぞ。」
ドライヤーの風を吹きつけながら、敢えてフィンガーコームで律の髪を撫でつける。
「んんー、相変わらず澪の手は大きいな。」
「その分指も長いから、手櫛には便利なんだよ。…よし!自分で言うのもなんだけどかなり上手く行ったよ、律。」
「うんうん、やっぱ澪は私の体の事もよく分かってるな。これもひとえに私への愛ゆえにってやつ?」
にへへへ、と上機嫌に笑う律を「はいはい」とあしらいながら、ワックスを手に取る。
「さ、仕上げだ。他に何かつける?」
「ん、いいや。」
「そっか。」
わしわしと、あくまで優しく律の髪全体にワックスを馴染ませていく。フロントは所々軽くねじって纏め、
少しだけサイドに流してみた。トップは膨らみ過ぎない程度に髪を浮かせて、後ろは少し外ハネ気味にさせてみる。
「できたよ。こんな感じでどうだ?」
「……」
律は一言も発さずに、じーっと鏡に映る三面鏡と正面の鏡を眺めている。
「おーい、律?」
「………」
たっぷり30秒くらいは沈黙した後、律がぽつりと呟いた。
「これ、だーれ?」
「いや、律だけど。」
…………………………………………
………………………………
……………………
…………
……
「な、なななななんですとぉーーー!?」
「落ち着け。ていうか、なんでそんなパニックになる。」
「だ、だだだだってだって、私じゃないみたいなやつが鏡に映ってるんだぞ!?」
「いや、紛れもなく律自身だぞ。」
呆れ気味に指摘してやるも、律は相変わらず
はうはうと狼狽するばかりで硬直している。可愛いやつめ。
「いやその…人間って髪型一つで変わるもんだな。」
「何を今更。前々からちゃんとしたら可愛いって言ってただろうに。」
「お世辞かと。」
「お世辞を言い合う仲でもないだろ。」
「あら澪ちゃん、すごく上手にやったじゃない。田井中さんも似合ってますよ。」
「あ、鈴木さん。ありがとうございます。」
「あはは、そうですか?それはどうも~。」
上着を渡してやると、不意に律が振り返った。
「なぁ澪、今日何時上がり?」
「え…閉めが普通に終われば八時くらいだけど。」
「よーし、んじゃ終わったら私ん家集合な!」
「あのな…」
「あ、それとも何か予定あった?」
「ん…いや、何もないよ。わかった、終わったら行くよ。」
◇ ◇ ◇
結局律の言う事に振り回されて、美容院での仕事を終えた私は、気がつけば律のマンションに足を運んでいた。
今にも雨が降り出しそうな湿っぽい空気。肌に纏わりつくようなこの空気が、昔は嫌いだった。
それにしても…集合って言ってたから、てっきり私の他にもだれか来るのかと思ってたけど…
ピンポーン…
「はぁーい、上がって上がって。」
「お邪魔します…って、私だけ?」
「そうだけど?」
「てっきり他に誰か来るのかと思って買い過ぎた…」
「おほぅ、ハーゲンじゃん!澪ちゅわん最高ー!」
「やれやれ…」
「ところで、夕飯もう食べた?」
冷凍庫に手を突っ込みながら律が振り返る。
「いや、まだだけど。律は?」
「実は私もまだなんだ。今から作るからちょっと待ってて。」
「そうか、悪いな。」
「いいっていいって。一人も二人もそう変わんないし。チャーハンでいい?」
「いいよ。」
「ほいほい。えーっと、卵とネギと…あ、ウィンナー余ってるからこれでいっか。」
ガサゴソと中身を引っ張りだして、キッチンに材料を並べる。
「律、なにか手伝おうか?」
「だいじょぶだいじょぶ。あぁそだ、炊飯器にお米入ってるはずだから出してくれる?」
「あぁ、これだな。っておい律。多過ぎないか…これ。」
蓋を開けた炊飯器の中には4人分はあろうかという白米が湯気を立てていた。
「ん、あぁそれ、いちいち炊くのめんどいからさー、一気に炊いて冷凍しとくんだ。テキトーに取っといて。」
言われるままにボウルに白米を取り分けて律に渡す。
「さんきゅー♪」
鼻歌を歌いながら律が包丁で軽やかなビートを刻んでいく。私はその姿をぼんやりしながら見つめていた。
「ん?どうした澪、私の顔になんか付いてるか?」
「あ、いや…こういう姿見てると、なんか成長したなぁって。」
「わたしは澪の娘か。」
「だって、律が包丁握って料理してるってのが想像できなくてさ。いざこうして目の前に立たれるとなんかおかしくて。」
「む、失礼な。これでもちゃんと自炊してるんだぞ?」
「ごめんごめん、皿、出しとくから。」
「うん、その辺置いといて~。」
具材を刻み終えてまな板で一纏めにすると、今度は卵を溶いてボウルの米と混ぜ合わせる。
ジュゥゥゥッ……カンカンカン…ガシャン、ガシャン…
お玉で米を掻き回しているのだろう、時折フライパンをガタンと踊らせながら、合間に調味料の瓶を振っている。
段々良い香りが立ち込めてきて、私のお腹もきゅうと鳴った。
「いい匂いだなぁ…」
「だろ?この間憂ちゃんにも作り方教えたんだぞ。」
「え、本当に?」
「マジだって!このあいだ遊びに来たんだけどさ。お昼がまだだって言ってたから
ついでにご馳走したら、えらく気に入られちゃってさ。いやぁ、私ってば天才!?なーんてな!」
「すごいじゃないか律。」
「う…素直に褒められると気持ち悪いな。」
「…おい。」
「まぁでも、嬉しいは嬉しいよ。ほい、おまちどうさま!あとこれ、インスタントのワカメスープ。」
ハムやらチャーシューの代わりにウィンナーを使った律の手作りチャーハン。なんかこれ、お店で出されるのに負けてないぞ。
「美味しそうだな、いただきます。」
一口食べて、「美味しい」と漏らしたきり、もくもくと口へ運ぶしかできなかった。
律はそんな私を見て得意げに笑いながらお茶を淹れてくれて、自分も食べ始める。
「そういえば、律。」
「ん?」
「今好きな人とか、いないのか?」
「たはぁっ、それをわたしに訊くかねー。まぁ今はいないな~…
ちょいちょい合コンとかあるんだけどさぁ、好きになる前にあれこれ考えちゃうんだよねー。」
「大事にしてくれるかとか、結婚してやっていけそうかとか?」
「おいおい澪しゃん、お見合いじゃないんだから。そういう澪はどうなんだ?告られたのだって一度や二度じゃないだろ?」
「私はその…いきなり告白されても相手の事なんて全然知らないし、今は好きな人も…いないし……」
「あー、分かる分かる。いきなり知らないやつから告られても混乱するだけだよなぁ。」
「はぁ…律が男だったらよかったのにな…」
「もしそうだったら、親友にはなれなかったかもしれないぞ~?」
「…かもな。」
「だいじょーぶだって澪、いい人見つかるよ。」
「…ありがと。」
律に励まされると、不思議と元気になれる。そうそう、チャーハンはプロ顔負けの美味しさだった。…それは言い過ぎかな?
「そういえば律。ドラムキット、どうしたんだ?」
「あー、あれね。見ての通りこの狭い部屋じゃ満足に置けないから、実家に置いてあるよ。
時々帰ってきたときに叩いたりするかな。まぁ、ここ最近は触れてないなぁ…お店じゃちょいちょい別のやつ触るけどさ。」
「私も、ベースあんまり触れてなくてさ。この間久しぶりに弾いてみようと思ったら、アンプが壊れちゃってたんだ。」
「ありゃ、ご愁傷様。修理依頼するなら安くしとくよ。」
「あぁ、お願いするよ。」
夕飯を食べ終わって、私が買ってきたハーゲンダッツを頬張りながら、二人して
ニュースをぼーっと眺めていた。
外はいつの間にか雨が降り始めて、ざぁざぁと辺りに雨音がこだまする。
『――それでは、現場の平沢さんに中継してもらいましょう、平沢さーん?』
「おっ、唯じゃん。今回は台風リポートか。大変だなーあいつも。」
「最初は唯にリポーターなんて務まるのかと思ったけど、頑張ってるよな。」
『こちらには午後11時頃に台風が上陸するとの情報が入っていますが、
既にこの地域は大雨・暴風警報が発令されており、時折強い風が…ひゃぁああ!?』
画面の中の唯は突風に煽られてレインコートのフードが吹き飛ばされ、バタバタと物凄い勢いではためいている。
「プッ……相変わらずだな、唯は。」
「ふふっ、唯らしいな。ああいう姿見てると、安心するよ。」
「…だな。」
親友の変わらぬ姿に安心しながらも、
おまえも中身は変わってないぞ、律。
と密かに心の声で呟いた。降り続ける雨がベランダを叩く音が、宵闇に響いていた。
最終更新:2010年08月13日 21:42