今日はテスト期間で部活のない日だ。
でも、もしかしたら、けいおん部のみんなはそんなことをおかまいなしに、というか知らなくて、練習に行ってしまうかもしれない。
そう気づいたのは日直を終えて職員室に日誌を出しに行ったときだった。
みんなに確認しようにも、今日は携帯電話を家に忘れてしまったし、どうしたものかと迷っていると、ちょうどりっちゃんが廊下を歩いていた。
「どうしたんだムギ」
「あ、あのね」
りっちゃんに会えた時点で、あとの心配は唯ちゃんくらいになったから、まあほぼ大丈夫といってもいいのかもしれないけれど、一応話してみた。
「あーたしかにそれはありえるな! 唯なんかテストのこと忘れてそう」
「でも、見つかったらまずいわ……部活停止になっちゃうかも。見回りの先生も出るみたいだし。部室にいるだけでも、まずいらしいの」
そう言うと、りっちゃんは目をかっぴらいて叫んだ。
「そ、そりゃ大変だ!」
そんなりっちゃんが面白くて、思わず笑みがこぼれる。
「ふふ。なので私ちょっと部室を見てくるわ」
「ああ、じゃあ私も行く!」
「え?」
「一応私の部長だからさ、部活が停止になったりするのはなんとしてでも阻止しないと!」
りっちゃんがドンと胸を張った。
「そういえばムギはテスト勉強どうだ?」
「うーん……どうかしら」
「私はまた澪頼みだよ、へへっ」
「それなら私も協力するわ。一緒に勉強すればお互い補えると思う」
「でもレベル違いすぎて足手まといじゃないか?」
気を遣ってもらうのはありがたいけれど、澪ちゃん相手なら気にしないのに、と思うとなんだか寂しいものがあった。
「そんなことない! 楽しみながらやれば、勉強もはかどるもの」
「そ、そか!」
「りっちゃんといると、いつも楽しいから。だから一緒にいたいの」
冗談めかして笑いながらりっちゃんの顔をのぞき込むと、これでもかというほどにきらきらした瞳にあてられた。
「そうか! なんか嬉しいぞー! ムギは本当にいい奴だな!」
「ふふふ」
冗談は、だと思われなかったのかもしれない。
でも、いい奴だなんて言われるとなんだかこそばゆい。
以前はこんなに気安く付き合える友達なんていなかった。
もちろん中学校のときも友達はいたけれど、じゃれあったり、小突きあったり、一緒になにかを成し遂げたいって思ったり、そんなのは初めて。
それもりっちゃんの存在が大きいのだと思う。
部室の前まで行っても、誰の気配もしなかった。
誰かがいればワイワイしているはずだから、少し離れた場所からでも、中にいればすぐにわかる。
しかし代わりにドアの前にいたのは、とんでもないものだった。
「え……これ……」
そう言ったまま、言葉の続きが出ない。
隣でりっちゃんも絶句して固まっているのがわかった。
二本の煙草はまだ火がついたままで、紫煙がくらりくらり、ゆらめいている。
けいおん部員のじゃない、なんて声に出さなくても二人ともわかっている。
誰がなんの目的で、こんなことをしたのか。
ここは教室からは少し離れているし、あまり人の来ない場所だから、たまたま選ばれただけなのかもしれない。
けいおん部への嫌がらせだなんて、考えたくはない。
「とりあえず、片付けましょうか……」
あれこれ考えていても仕方がない。
そんなことより、誰かにこれを見られることのほうが問題だ。
「ああ、そうだな……と、んんっ?」
りっちゃんがピクッと身体を震わせた。
何事かとりっちゃんの顔を見ていると、後方から微かに足音が聞こえる。
「もしかして、見回り?」
いまここで教師に見つかるのは、非常にまずい。
煙草をいますぐ拾ったとしても、何をしているのか尋問されていたら、匂いでばれてしまう。
かといって走って逃げたりでもしたら目立つし、余計に疑われる。
「あ、部室の中なら!」
いくら見回りでも、わざわざ部室のスペアキーを持って来てはいないだろう。
そもそも気配がなければ、この場を立ち去るはず。
「でも大丈夫か?」
「早く、りっちゃん! 足音おおきくなってきてる……」
「仕方ねー!」
そう言うとりっちゃんは部室の鍵を開けた。
私は急いで煙草を拾い、りっちゃんの背中を押し込みながら中に入った。
「鍵、閉めたほうがいいかしら」
「そうだな……この状況で入って来られたら、」
拾った煙草をティッシュペーパーに包みながら思う。
もしかしたら、見回りの教師がスペアキーを持っているということも考えられる。その場合かなりまずい。
部室にいることだけでも良くないのに、煙草を持っているなんて。
かといって、本来閉まっているはずの鍵が閉まっていないのも不自然だ。
そうこう考えているうちに、足音が迫ってくる。
「棚の中……は無理、よね」
「そりゃいくらなんでも無理だろ」
「あ、ソファんところに隠れるとか」
「あーもうどこでもいい!」
瞬間、星が見えた。
りっちゃんは私の腕を掴んで、そのままずるりとソファの裏へ滑り込んだ。
驚いて口を開きそうになったけれど、ちょうど部室の前で足音がしたので、慌てて噤んだ。
危なかった。りっちゃんの機敏な動きと判断力がありがたい。
見回りの教師はどうやらドアの前で立ち止まったようだ。
私は息を潜めた。
ガチャガチャとドアノブを回す音の後、沈黙が漂う。
問題なしと判断したのだろうか。
りっちゃんがため息を吐いたのがわかった。
そこで私は、はたと気づいた。私とりっちゃんの距離が、ものすごく近いことに。
いや、近いなどというものではない。これは、密着状態といってもいい。
思わず恥ずかしくなって、身をよじるようにもぞりと動いた。
「っ!」
りっちゃんの息を飲む音が耳元を擽った。
ゆっくりと顔を見ると、驚いたような表情が間近に見える。
それから、どちらからともなく目を伏せた。
けれど、下を向いたら向いたで、触れ合っている肩や脚が視界に入って、なんだかその部分の体温を意識してしまって、どうしたらいいのかわからない。
「行ったか……?」
すごくすごく小さな声で、りっちゃんが呟いた。それだけの刺激でも、動揺してしまう。
うるさい動悸が収まるよう祈りつつ、私も呟いた。
「どう、かなぁ」
音はしないけれど、ここからではドアの前に人がいるかどうかなんてわからない。
「とりあえず出るか」
「え」
「狭いだろ?」
りっちゃんのほうを向く勇気がなくて、表情はわからなかったけれど、声色は困ったような申し訳ないような雰囲気だった。
「ごめん、ここまで狭いとは思わず引っ張り込んで」
「や、そんな、仕方ないし……」
「でも、ち、近すぎるし、さっきからムギ、なんか不機嫌そうだし」
「ううん、そんなことないわ!」
そんなつもりはなかったので、驚いた。
「しっ、声がでかい」
「んく、……ふ? んーっ」
ばし、と、りっちゃんの手で塞がれた口は、声どころか息を吐くことさえ困難だ。
私は思わずりっちゃんの手をぎゅっと掴んだ。
密着状態で手を握る。それが何を意味するかなんて考えていなかった。
「む、ムギ……いったい何をー……」
りっちゃんが、目を見開いて、一瞬、凍り付いたような表情をした。
見たこともないような。
「え……?」
「って、ああっ!! そ、そっか口か! ご、ごめんっ!」
りっちゃんは、私が苦しがっていることに気づいて、慌てて口から手を離してくれた。
でも――さっきの、りっちゃんの反応。
いったい何を、は、明らかに手を握ったことに対する抗議だ。
普段ならば、スキンシップに拒否の反応なんて示さないりっちゃんが、このときこの場では拒否をした。
「ごめんね、苦しくて、つい、手を握っちゃったの……」
りっちゃんの手に触れてしまった左手がなんだか心許なくて、右手で包んで隠した。
初めて見た拒絶の表情が、頭から離れない。
変な気分。
「いや、私が」
りっちゃんは謝ろうとするけれど、私は言葉を遮った。
この不安定な気持ちを抑えられなくて、言ってしまった。
「でも意外だったわ。りっちゃんってそうこと気にしないかなって思ってたから」
「へ?」
「女の子同士で抱き合ったりとか……けいおん部では珍しくないし、唯ちゃんたちとはよくしてるから」
「え、あ……いや、ちがっ、さっきのは私の勘違いというか自意識過剰というか。わ、忘れてくれっ」
顔を赤くするりっちゃんが可笑しいけれど、なんだか複雑な気持ちでもある。
意識をされたこと、そして拒否されたこと。
「ううん、いいの。私とみんなとは違うし……それに、勘違いでも、同性から迫られたなんて思ったら、嫌よね」
「いやいやいや、だから」
「私が普段からそういうこと言っているからかしら? 自業自得よね。ごめんね」
できるだけ明るく、笑いながら言ったつもりだった。
やっぱり私はどこか違うのか、みんなとは本当の友達になれないのか、なんて、考えたくないことが頭をぐるぐる駆け巡る。
「でも、なんだかちょっとショック、だわ……なんて」
「……ムギ」
笑っていた口元が、固まった。
りっちゃんが真剣な瞳でこちらを見ている。
私の両手が、りっちゃんの両手に握られている。
「私は、他の誰も唯も関係なくて……例えば今の手握ったのでも、他の誰かならなんとも思なかったと思う、んだ」
ゆらゆら揺れる瞳に、ぼうっとした顔の自分が映っているのが見えて、なぜだか心臓が痛い。
りっちゃんが何を言おうとしているのかわからない。けれど、困らせてしまっている、のかもしれない。
「私は……お、お前が……っ」
「!」
両手が離された、と思ったら、今度は身体全体が拘束された。
息を飲む。頭の中が真っ白になる。
――りっちゃんに、抱きしめられている。
「り、りっちゃ……ん」
「紬」
「え?」
……なまえ? と言いかけたところで、いきなり引きはがされた。
りっちゃんは下を向いていて、なにを考えているのかわからない。
「ごめん、私、部屋出るわ」
「え?」
「これ以上近くにいると、なんか、何しちゃうかわかんないんだ」
りっちゃんはすくっと立った。
見回りだとか、ばれるとか、そういうことはすっかり忘れていた。
もっとも、足音なんてとっくに消えてから、ずっとここに隠れている必要などなかったのかもしれない。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
今の状況に思考が追いつかない。
りっちゃんの言っていることの意味がわからない。
「私、最低だ。情けないよ……」
最終更新:2010年08月15日 01:07