「もう、お姉ちゃんったら…。」

小さな呟きが口から漏れた。

思わず周りを見回して誰もいないことを確認すると、今度は意識して口に出してみる。

「…部室まで届けに行こうかな。」

手にした音楽の教科書には、丁寧な字で『平沢唯』と名前が書かれている。

でも、お姉ちゃんの筆跡ではない。だって、落とし物なんてしないと言い張るお姉ちゃんの代わりに、私が書いたんだもの。

やっぱり名前書いておいて良かったね。

音楽室への階段を登りながら、教科書を渡す時のお姉ちゃんの反応を想像すると、ふっと笑みが浮かんだ。

「失礼しまーす。お姉ちゃん、いる?」

「あ、ういー! どうしたの?」

軽音部の皆に囲まれながら、今日もお姉ちゃんは満面の笑顔で迎えてくれる。

「お姉ちゃん、教科書の落し物だよ。」

「ええー! 私が落し物なんて、奇跡だよ!」

「奇跡じゃなくて必然だよ…。」

思わずツッコミを入れたら、その笑顔はさらに輝いた。

今日も楽しそうだね。そう言いながら教科書を渡すと、お姉ちゃんの顔が一転して反省の色に染まる。

「う、うい…。怒らない…?」

「いいよ、お姉ちゃん。今度からは気を付けてね?」

「う、うん! ありがとう!」

別に怒ったりしないよ、厳しく注意はするけどね!

そんな私の言葉に、部屋に流れる空気がまた一段と温かくなった。


あ、あずにゃんそれでね…と、お姉ちゃんは梓ちゃんと教科書を囲んで何やら相談し始める。

それを横目で見ながら、とりあえず椅子に腰掛けた。

「ね、憂ちゃん。ケーキ食べていかない? 一つ余っちゃったの。」

目の前にケーキを置かれる。顔を上げると、紬さんの穏やかな笑顔。

甘い紅茶の香りが心地良い。昼にお弁当を食べたけれど、やっぱりケーキは別腹…。

「じゃ、じゃあお言葉に甘えて…。いただきます。」

もぐもぐ。…美味しい。

「あ、憂! 口の周りにクリーム付いてるよ。…やっぱり姉妹だね。」

梓ちゃんに指摘されて顔が熱くなるが、お姉ちゃんと似ていると言われて、むしろ嬉しい気もする。

「えへへ。あ、でも梓ちゃんもクリーム付いてるよ。」

「え、嘘っ?」

「…嘘。」

「もー!」

梓ちゃんの膨れっ面を眺めていると、お姉ちゃんの気持ちが少し分かる気がするな。

すると、お姉ちゃんも同じように膨れっ面を見て、目を輝かせた。

「あずにゃーん!」

「むぐぐ…。もう、抱きつかないで下さいよ。」

「いいじゃん、減るもんじゃないしー。」

微笑ましいという形容はこの2人のためにあるんだろう。そう思った時、

「…さっきの話だけどさ、」

と澪さんが口を開いた。

「『私の恋はホッチキス』のボーカル、やっぱ唯と梓でやらない? 私はベースに専念したいんだ。」

「い、いやでも私、歌はかなり苦手だしギターだけで精一杯なんですが…。」

「いいじゃん、減るもんじゃないしー。」

言い淀む梓ちゃんに、お姉ちゃんが追撃をかける。ここは私も…、

「そうだよ梓ちゃん、来年は部長さんなんだから、ボーカルくらいやっとかないと!」

う、憂…。と目を潤ませる梓ちゃんに、律さんと紬さんがダメ押しした。

「梓、やっちゃえやっちゃえ!」
「そうよ梓ちゃん、頑張って!」

「う…。もう、分かりましたよ。じゃあ今日から歌の方も練習しておきます…。」

梓ちゃん陥落。頑張ってね、応援してるよ。

「じゃあ決まりだね! あずにゃんよろしく!」

「は、はいっ!」

あれ…?

「梓ちゃん、『やってやるです!』じゃないの?」

「憂…。憂だけは信じてたのに…。」

何を?と聞き返そうとしたら、突如お姉ちゃんに、

「私、トイレ行ってくる!」

と高らかに宣言され、遮られてしまった。

はしたないよ、と注意しようと思ったら、

「あ、私もです…。」

梓ちゃんまで…。

…すぐ戻るから!という言葉を残し、2人はドアの向こうへ消えていった。

「すみません…。お姉ちゃん、はしたない…。」

「いやいや、気にしてないよ。」

優しい笑顔で、律さんがフォローを入れてくれる。

「ほんとお姉ちゃ」

―――ドン!

ん?

鈍い音がドアの外から聞こえた。そして、何だろうと思う間もなく、

「ゆ、唯先輩っ! 唯先輩っ!」

悲痛な叫びが響いてくる。

ついさっきまで穏やかな心音を奏でていた心臓が、激しく警鐘を打ち鳴らし始める。

誰もが言葉を失い静止してしまった時間の中で、私は真っ先に部室を飛び出した。


…この光景は、きっともう一生忘れないだろう。

階段に目を走らせて最初に視界に入ったのは、梓ちゃん。階段中ほどの手すりに縋り付いている。

そして…、

「お、お姉ちゃんっ!」

茫然自失で動かない親友の脇を駆け抜け、階段下の踊り場に倒れている大切な人を抱きかかえた。

「お姉ちゃんっ! 大丈夫っ!? ケガは!?」

「う……、うい……?」

お姉ちゃんの頭を支える手が緋色に染まるのを見て、全身を悪寒が走り抜ける。

目に涙を浮かべた必死な顔が、お姉ちゃんの2つの瞳に映っていた。



「……唯先輩っ!」

でも、梓ちゃんが駆け寄ってきた時には、もうお姉ちゃんは私に応えてくれなかった。

その瞼は閉ざされ、私を映していた瞳も隠されてしまう。

「お、お姉ちゃんっ!」


――――――――――――――――――――――

あの後、紬さん達が救急車を呼んでくれて、お姉ちゃんは病院に運び込まれた。

そして今、集中治療室の扉の上に光る『手術中』の赤いランプを見つめ続け、もう2時間が過ぎようとしている。

危急を聞いて駆けつけた両親も、ベンチに腰掛け、私と同じようにランプを見つめていた。

…張り詰めた緊張感を反映するかのように、鉛のような重い沈黙が続いている。

付添って来てくれた軽音部の皆は、もう涙を堪え切れずに肩を震わせていた。

でもそんな中で、梓ちゃんだけが恐ろしいくらい無表情。

「梓ちゃん。…お姉ちゃん、きっと大丈夫だよ。」

そう声をかけてみても、うん…、と虚ろに返事をするだけだった。


…部室でケーキを食べていたあの時から、もう何時間経ったんだろう。そんな疑問がぼんやり湧いた時、

「…みんな、もう夜遅いから帰りなさい。」

お父さんの言葉が沈黙を破った。

「いえ…。私たちは大丈夫です。」

「ありがとう。でもそろそろ帰らないと、親御さんも心配するよ。」

律さん達は渋ったが、お父さんの声の中に、娘だけでなくこの場の皆を気遣う響きを聞いて、皆はようやく重い腰を上げた。

「…分かりました。」

「また明日来ます…。」

思い思いの別れ言葉を口にして、みんなエレベーターホールの方へ行ってしまう。

4人の背中を見つめていると、お姉ちゃんを見守る力が半減してしまったような、そんな寂しさに囚われた。

「憂、あなたももう帰りなさい。明日学校あるでしょ。お母さん達が残ってるから。」

「…嫌だ。」

お母さんの言葉に対し、小声でぽつりと反論した。もしかしたら生まれて初めてかも知れない、親への反抗。

「…憂、帰るのよ。後でちゃんと連絡するから。」

「やだっ!!」

今度は、声を抑えたりしなかった。

でもお母さんは、私の大声に全く怯まない。

「病院なんだから静かにして。唯は大丈夫だから、憂は帰りなさい。」

…私が駄々をこねても、お姉ちゃんが助かる確率が上がるわけじゃない。

それでも、お姉ちゃんのそばを離れたくなかった。

扉一枚隔てているのも、もどかしいくらいなのに。

…もう一度、拒否の言葉を繰り返そうとした時、私と両親との間の空気に割って入るように、ふっと赤いランプが消えた。

とっさに集中治療室に目をやるが、なかなか扉は開かれない。

お姉ちゃん…。

扉の向こうで待っているはずの大切な人の無事を願って、祈りの形に手を組んだ。

…神様なんて、いるかどうか私には分からない。

それでも、お姉ちゃんを想う気持ちが運命を好転させる力に昇華されると信じ、全身全霊を込めて無事を願った。

…ものの10秒程度だったのかも知れないが、私にとっては永遠とも思える時間が過ぎた後。

ようやく扉が開かれ、白衣を纏った医者が、ゆっくりと歩み寄ってきた。

「…! お姉ちゃんはっ!?」



「一命は、取り留めました。」

…良かった。本当に良かった。…張り裂ける寸前だった胸をほっと撫で下ろす。

けれど、そんな一瞬の安堵に気付くこともなく、医者は無情な真実を語り続けた。

「…ご家族の方ですね? 落ち着いて聞いて下さい。」

…え?

「唯さんは、…もう、意識が戻らないかも知れません。」

次の瞬間、視界が暗闇に閉ざされる。

「う、憂!?」

お母さんの手に背中を支えられた感触を最後に、今までかろうじて保っていた意識が、ぷつん、と途切れてしまった。


――――――――――――――――――――――

うっすらと瞼を開けると、普段から見慣れている天井が、いつもと同じように視界に入る。

目だけ動かして枕元の時計を見ると、針は午前7時ちょうどを指していた。

ああ…、あれは夢だったんだ。絶対そうだよ。

「…あ、起きた? 大丈夫かしら? ちょっと話があるから、まず顔洗ってらっしゃい。」

お母さんの声が耳に入る。…仕事で出張だったはず。どうして家に、それも私の部屋にいるんだろう?

この疑問に対する答えを得るのが怖くなって、再び目を硬く閉じた。

「憂? まだ寝てるの?」

でも、お母さんの声に記憶の回復を強制される。まず思い出してしまったのは、部室を飛び出した時の階段での光景。

一つの記憶はもう一つの記憶を蘇らせ、私の意思とは無関係に、それは最後まで連鎖した。

…向き合うべき現実から逃避を続けても、何も得られないことは分かっているつもりだ。

だから、真実を正面から受け止める勇気を胸に込め、…意を決してベッドから起き上がった。


「お母さん、おはよう。」

「…おはよう。顔洗ってらっしゃい。」

「お姉ちゃんは?」

「…憂。まずは、」

「お姉ちゃんは?」

「……。」

「ねえ、お姉ちゃんは?」

私の執拗な問いに諦めたのか、お母さんは重い口を開いた。

「唯はね。…意識が戻らないままかも知れないって。」


…医者から一度聞かされていたけれど、心はまだそれを真実として受け容れようとしていない。

けれども、私の耳がお母さんの声に潜んでいた諦観の響きを聞き取ってしまい、その事実は、確かな真実性をもって心を深く深く抉った。

暗転した日常は過去の明るさを際立たせる。お姉ちゃんとの楽しい思い出が走馬灯のようによぎった。

でも、そんな幸せな走馬灯を見続けたくても、すぐに冷酷な現実に引きずり戻される。

深い闇に侵されていく心が、希望を絶たれて悲鳴を上げていた。

けれど、そんな私をよそに、お母さんは静かに言葉を紡ぐ。

「軽音部の梓ちゃんから話は聞いたわ。あれは、誰が悪いわけでもない、事故だった。お医者様も最善を尽くしてくれたし。」

だから、今は唯の回復を信じて待つしかない、と。

今のお母さんの声に、もう諦めは込められていなかった。

そこにあったのは、2人の娘の幸せを願う優しい気持ちだけ。

…溢れる激情に涙を堪え切れなくなった瞬間、お母さんがそっと肩を抱いてくれる。

冷たい現実に耐えられなかった私は、温かいお母さんの胸の中で、ずっとずっと泣き続けた。


――結局今日は学校を休み、一日中自室に篭りっ放し。この時から、私の心に悪魔が棲み付いてしまったのかも知れない。

放課後に軽音部の皆が来てくれたみたいだけれど、お母さんに対応してもらい、私は部屋から出なかった。

…どうしても頭に引っかかることがあったから。

それは、忘れもしない、昨日の階段の光景。

あの時確か、梓ちゃんは手すりを掴んでいた。すると恐らく、お姉ちゃんはその隣を歩いていたのだろう。

その途中で、お姉ちゃんは階段から踊り場まで転げ落ちた。

それは、梓ちゃんが手すり側にいたせいで、掴まるものがなかったから。

…そして何より、梓ちゃんがお姉ちゃんを助けてくれなかったから。

あの時、バランスを崩したお姉ちゃんは、救いを求めて梓ちゃんに手を伸ばしたはず。

それが掴まれることなく空を切った瞬間の、お姉ちゃんの絶望をどうしても想像してしまう。

それが事実だとしても梓ちゃんの過失は責められない、と自らを戒める。

それでも、親友を責める悪魔の感情は、もう私の心に深々と根を張り巡らせていた。

思い返せば、梓ちゃんは昨日の病院でも、他の皆と違って無表情で心ここにあらずの感があった。自責の念に駆られていたのかも知れない。

法の裁きは、彼女の過失を罪と認めはしないだろう。

それでも私の心は、それをどうしても許さない。

悪魔の感情はふつふつと煮えたぎり、それを心の奥に追いやろうとどんなに努力しても、意味をなさなかった。

だって、一生絶たれることのない絆で結ばれた最愛の人を、ほんの一瞬だけの不運で、呆気なく失ってしまったのだ。

梓ちゃんが少しだけ手を伸ばして、お姉ちゃんを掴んでくれていれば。

…たったそれだけなのに。

梓ちゃんが僅かの頑張りを怠ったせいで、取り返しのつかない災厄が降りかかることになった。

……。

やっぱり明日、梓ちゃんと直接お話ししよう。梓ちゃんが先輩想いの子だってこと、私はよく知っている。

だからお話さえすれば、こんな嫌な感情、すぐに消え去ってくれるよね…。

そんな淡い期待を抱き、手早く学校に行く支度をしてから、ベッドの中に潜り込んだ。


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最終更新:2010年08月18日 21:34