――翌朝。

自分の席から教室を見回しても、まだ誰もいない。当然か、まだ始業まで1時間もある。

1日空いただけなのに、1ヶ月振りくらいに来たような懐かしさを何故か感じていた。

「梓ちゃん…。」

小さな呟きが漏れる。今度は意識して口に出してみた。

「学校、来るのかな…。」

お姉ちゃんの教科書を拾った時にも、独り言を言ってみたのを思い出す。

あの時は。会いに行くのが楽しみで、躊躇なんて微塵もなかった。

でも今は。会ってしまうのが怖くて、躊躇を抑えるのに必死になっている。

…躊躇してしまう原因は、自分でよく分かっていた。

あの事故は梓ちゃんのせいじゃない。

昨日からずっと、何度も何度も自分に言い聞かせているけれど、それでも、心に刺さった棘は抜けてくれない。

梓ちゃんときちんとお話しして、早くこの棘を抜いてしまいたい。

でも逆に、話すことで棘が一層深く刺さってしまうかも知れない。

この矛盾が、躊躇を生んでいる。…だから、会うのが怖いんだ。


もう一度、独り言を口にしようとした時、

「やった、一番乗り! …じゃなかった、おはよう憂。」

…ああ、純ちゃんか。

独り言の代わりに、安堵と失望の入り混じった溜息が漏れた。

けれど、その時ドアに目をやったせいで、溜息を吐き切る間もなくもう一つの人影に気付いてしまう。

「あ、梓ちゃん…。」

「憂っ!」

私のかけがえのない親友が駆け寄ってくる。

「憂、昨日はいきなり押し掛けちゃってごめんね。もう大丈夫なの?」

「う、うん…。」

「昨日憂の家に行く前にね、軽音部の皆で、唯先輩のお見舞いに行ったんだよ。」

…初耳だ。昨日お母さんからそんなことを聞いた記憶はない。

「あ、私も行こうと思ったんだけどね、ジャズ研なかなか休めなくて。」

「そ、そうだったんだ。」

事故のことを責める感情を顔に出さないようにしながら答えた。

そんな私に対して、梓ちゃんや純ちゃんの表情からは純粋な想いが伝わってくる。

「唯先輩…。」

梓ちゃんが誰ともなしに呟いた。

親友を責めようという感情が薄れていくのを感じる。

やっぱり梓ちゃんを責めるなんて、親友失格だ。

でも…、


「あの事故でね、軽音部は休部措置になって、学園祭に出られなくなっちゃったんだ。」

「…へ、へえ。」

「ちょっと残念だなぁ。」

「……。」

その瞬間、一度は消えかけた感情が、再び炎を上げた。

学園祭に出られなくて残念? それって誰のせい?

…梓ちゃんのせいじゃん。

ちょっと手を伸ばしてお姉ちゃんを掴むだけで、誰も不幸にならずに済んだのに。

お姉ちゃんは今この瞬間も幸せに過ごせているはずだったのに、ありきたりな日常さえ享受できなくなってしまった。

でも、梓ちゃんは、学園祭なんか出られなくたって安穏と生きていける。

それなのに、残念だなんて…。

「憂、どうしたの?」

「……。」

梓ちゃんのせいじゃないと諭す自戒と、梓ちゃんのせいだと責める気持ち。2つの相反する感情による壮絶な葛藤が、私に沈黙を強いた。

「憂?」

「…あ、ごめんごめん。何?」

梓ちゃんと純ちゃんが心配そうな顔で見つめている。顔に出てしまったのかも知れない。

「…憂、大丈夫? 体調悪いなら、やっぱり休んだ方がいいと思うよ。」

「そうだよ、私達から先生に言っておくからさ。」

2人の声色から、私を案ずる純粋な気持ちが聞き取れる。

「じゃ、じゃあそうさせてもらおうかな…。」

そう言って立ち上がり、見送りの提案を丁寧に断って教室を出た。

梓ちゃんを責める気持ちが伝わってしまったら申し訳ないから?

いや違う。

本当は、混迷して荒れ狂う感情が、今にも爆発しそうだったから。

だから、この場から逃げ出したくて仕方がなかった。


…廊下を歩いていると、のんびりと自分の教室に向かう生徒達とすれ違う。

そんな集団を避けるように、下を向いて早足で歩き続けた。

…やっと下駄箱に着いた。手早く靴を履き替え、再び早足で歩き始める。

周りの生徒達に、逆走する私を気に留める様子はない。

大方、忘れ物でも取りに行くところ、と見られているのだろう。午後から雨との予報だったので、傘を取りに帰っていると思われているかも知れない。

でも、今日はもう学校に戻るつもりはない。

…ようやく校門に辿り着いた頃、気が付くと小走りになっていた。

なぜだか分からない。

でも、校門を出た時には、もう足が勝手に走り出していた。


――無我夢中で駆け続けて辿り着いたのは、お姉ちゃんの入院している病院。

最初は家に向かって走っていたつもりだった。

でも、遠く太宰府へ向かう飛梅のように、足は自然とここへ私を運んだのだ。

…早くお姉ちゃんに会いたい。

息を切らしながら受付で面会許可をもらい、病室へと向かうエレベーターに乗った。

「お姉ちゃん…。」

独り言で呟くのは、やはりこの人の名前。

もう一言続けようとした時、音声案内とともにエレベーターのドアが開いた。

目指す病室は、エレベーターからすぐそこだ。

逸る気持ちを抑え、ノックしてから静かにドアを開けた。

「お姉ちゃん?」

今度は独り言ではなく、返答を期待した呼びかけ。

応えてくれないことは分かっているけれど、呼びかけずにはいられなかった。


「……。」

静寂が支配する病室に、私の声が虚しく反響した。

お姉ちゃんはずっと眠ったまま。あの日から、私の呼びかけに応えてくれなくなった。

私の目の前にいるはずなのに、お姉ちゃんがどこか遠くの世界に行ってしまったかのような寂しさに囚われる。

…よく見ると、その華奢な腕には、たくさんの点滴が繋がれていた。その変わり果てた姿が痛々しくて、思わず目を逸らしてしまう。

すると、逸らした先に、色鮮やかな何かが視界に入った。白色を基調とする病室の中で、その色彩は際立って見える。

それは、千羽の鶴が織り成す想いの結晶。

さっき梓ちゃんが言っていたことを思い出した。昨日軽音部の皆でお見舞いに行った、と。

恐らく、たった一日で千羽鶴を完成させて持って来たのだ。きっと授業中にも作業していたに違いない。

そう想像すると、心の泥沼の中に一滴、明るい感謝の気持ちが湧いてくる。

でも、そんな一滴の感謝は、あっという間に暗い泥沼に呑まれてしまった。

理性は行動を律し得ても、心の中までは届かない。

親友を赦そうという自戒は、事故の過失を責める感情を拭い去ることは出来なかった。


「お姉ちゃん…。私、梓ちゃんのこと、恨んじゃってるかも知れない。」

「……。」

「そんなの良くないって分かってるよ。親友のことを責めるなんて。」

「……。」

「でも私、もう梓ちゃんと今まで通り付き合える自信がなくなっちゃった…。」

「……。」

「やっぱり私は、」

途中で言葉を切った。震える携帯を手に取ると、お母さんからの着信。

学校を休んだことが伝わっているだろう。早く帰れと催促しているのかも知れない。

病院内での通話禁止、と注意を促す張り紙に目をやり、電話には出ずに電源を切った。

「病院では電話しちゃいけないもんね。だからしょうがない、まだ帰らないよ、えへへ。」

「……。」

返答の無い孤独な会話。それでもお姉ちゃんと一緒にいられるなら構わない。

――気がついたら、外はもう暗くなっていた。空腹も忘れてしまっていたらしい。

窓から空を見上げると、どんよりとした暗雲が立ち込めている。

その遥か上には、月が浮かんでいるはずだ。

けれど、それを見たくても、厚い雲が隠してしまっていた。

…寂しいけれど、流石にそろそろ帰らなくては。

「お姉ちゃん、また来るからね。」

「……。」

ドアを閉める時、お姉ちゃんを見守る千羽鶴が、もう一度目に入る。

また明日も来よう、と心に誓った。


――病院を出ると、携帯を開いて着信履歴を確認してみた。

お母さんだけでなく、梓ちゃんや純ちゃんの名前が目に飛び込んでくる。

私は、梓ちゃんの親友だ。私自身は、お互いがそう思っていると信じている。

…そして、それはお姉ちゃんもそう。

梓ちゃんを本当に可愛がっていた。『ゆいあず』として一緒に町内の演芸大会にも出ていたっけ。

どうしてそんな人を責めてしまうのだろう。

お姉ちゃんのお見舞いに行って少し気持ちが落ち着いたと思っていたけれど、それとはまた別の感情のような気がする。

自分で自分の気持ちが分からない。


すると、悩める私を嘲笑うかのように雨がぽつぽつと降り始めた。

天気予報では午後から大雨になると言われていたのを思い出す。

傘、持ってないや。でも確か学校に置き傘があったはず。

家に走って帰るよりも、学校に寄った方が濡れずに済むかな。

…今朝、学校から出た時と全く正反対。

遠くに見える校門に向かって、全力で走り出した。

でも今朝と違って、すれ違う人はいない。

もうとっくに下校時間は過ぎていたから。

校門を通り抜け、昇降口へ。

「…あった。」

傘立てに置かれた2つの傘。その内の1つが私のだ。

忘れ物のように置きざりにされたもう1本の傘を見ていると、私の忘れ物も思い出した。

…ギー太だ。正確には私の、ではないけれど。

あの事故の日は慌しくて置きっぱなしにしてしまったし、昨日は学校に行ってないし。

多分音楽室で、帰らぬ弾き手を待ち続けているのだろう。

なら、病室に置いてあげよう。

お姉ちゃんも、ギー太も、喜んでくれるはずだ。

下校時間は過ぎているけれど、忘れ物を取りに来た、と言えば入れるよね。

そう考え、音楽室の鍵を借りに職員室へ向かった。

…幸い、職員室にはまだ電気が点いている。

少し遠慮がちにノックして、ゆっくりドアを開けた。

「…失礼します。」

「ん? あら、憂ちゃん。」

「あ…。」

さわ子先生だ。

「忘れ物かしら? とっくに下校時間は過ぎてるわよ。」

「はい、ちょっとギー太を…。」

「…。ああ、ギー太ね。音楽室の鍵、開いてるわよ。」

「あれ、そうなんですか?」

私の問いに対し、先生はただ笑顔を作って見せたただけだった。

「…? あ、じゃあ行ってきます。失礼しました。」

なんだか意味ありげな笑いだった。

でも、音楽室への階段を登るにつれて、そんなことは意識の外へ飛んでしまう。

…ここでお姉ちゃんが落ちたんだ。

あの時の光景がまざまざと蘇った。

でもギー太を取りに行くためには、ここを通らなければいけない。

重い足を無理やり持ち上げ、階段を登り続ける。

やっと踊り場。あと半階分だ。



――♪

え?

賑やかな雨音に入り混じって、音楽室から微かに歌声が聞こえてきた。

――♪

誰だろう?

階段を登り切り、ドアを細目に開けてみた。

『今の気持ちをあらわす辞書にもない♪』

…梓ちゃんだ。

え、どうして…?

もう下校時間は過ぎているのに。

そもそも、学園祭に参加できないはずなのに。

これ、『私の恋はホッチキス』のボーカルだ。

『言葉さがすよ♪』

私に気付くことなく、一心不乱に歌い続けていた。

…でも、2番だけだ。1番と最後のサビは飛ばしている。

そんな違和感に気付いた時、歌声が不意に止まった。

「…あれ、さわ子先生ですか?」

まずい。まだ心の準備ができていない。

動転した私は、階段を駆け下りた。

…そして気付いたときには、もう昇降口。

2本ある傘の内の1本を掴み、降りしきる雨の中を駆けていく。

でも、校門を出たところで足を緩めた。

振り返ると、誰もいない昇降口が見える。

たぶん気付かれなかったんだろう。

動揺する心の中に、なぜか後悔の念が生まれるのを感じる。

梓ちゃんに会えば良かった?

いや、そんなことはない。現に事故のことを責める感情で胸が痛い。

やっぱり、自分で自分の気持ちが分からなかった。


――家に帰ると、夕食もそこそこに、いつもよりもずっと早く寝る準備を始めた。

今日は走ってばかりで疲れちゃったから。

そう自分に言い訳して、ベッドに潜り込む。

…今この瞬間、お姉ちゃんは何をしているのかな。やっぱり眠ったままだろうか。

……。

せめてお姉ちゃんの部屋に行きたい。

そんな思いが、既に横になっていた私を動かした。

起き上がって部屋を出ると、

「…あれ、憂。どうしたの?」

お母さんだ。

「あ、うん、ちょっと。」

「あ、そういえば昨日、軽音部の皆さんが、唯のギターを持ってきてくれてたわよ。」

「…え?」

「昨日言おうと思ったんだけど、憂すぐ寝ちゃったから…。憂からも、お礼言っとくのよ。」



ギー太が…?

慌ててお姉ちゃんの部屋に入ると、持ち主を待つギターが確かに置かれていた。

その光景が、幸せだった頃の思い出を一気に蘇らせる。

初めてギー太を買った時のお姉ちゃん。はしゃぎすぎて、少しうるさかったかも。

それから、私に弾き方を訊いてきてくれたよね。凄く嬉しかったよ。

梅雨のある日、ギー太を学校に置いて来た時には、本当に寂しそうだったね。

他にも、添い寝したり、服を着せてみたり。

大切な宝物だったんだよね。

…赤の他人が見たら、ギー太は単なる一本のギターにしか見えないかも知れない。

でも私は、この楽器に数え切れないほどの輝く思い出が宿っているのを知っている。

だから、お姉ちゃんの思い出をもう少し味わっていたくて。

私は、そっとギー太を手に取った。


優しく弦を弾くと、微かな音が鳴る。

でもその音は、あっという間に空気の中に溶けて消えてしまった。

もう一度鳴らしても、音は再び寂しく響くだけ。

それは、当たり前のこと。

なのに、私の心を揺らがせた。

ギー太と私は、今までずっと、お姉ちゃんのそばで過ごしてきた。

でも今は、ギー太がどんなに美しく音を奏でても、私がどんなに必死に声をかけても、もうお姉ちゃんには届かない。

雲のような過去と泥のような現在の狭間にあるのは、たった1つの不幸。

砕け散った幸せのかけらを必死にかき集めようとしても、掌で掬った水が指の隙間から漏れてしまうように、全ての幸せを取り戻すことは出来なかった。

どうして不幸って、唐突に訪れて取り返しのつかない傷跡を残していくのだろう。

…神様はいつだって不公平だ。

お姉ちゃんじゃなくて、いっそ私が階段から落ちれば良かったんだ。

お姉ちゃんと代わってあげたい。

お姉ちゃんの幸せが、私の幸せなのだから。


――パサッ

ふと、何かが落ちる音がした。


3
最終更新:2010年08月18日 21:37