見ると、机の脇に音楽の教科書。何かの拍子に落ちてしまったんだろう。

あの日、私が拾った教科書だ。

思わず手に取ると、ページがぱらぱらとめくれ、…見覚えのある、2種類の筆跡が目に飛び込んでくる。

1つは、お姉ちゃんの筆跡。これは当然だ、お姉ちゃんの教科書なんだから。

でも、もう1つは私の筆跡ではない。私が書き込んだのは、名前欄だけだもの。

…もう1つは、梓ちゃんの筆跡だった。

それは、『私の恋はホッチキス』のボーカルに関するメモ。

きっとお姉ちゃんと梓ちゃんで、パート分担を相談していたんだろう。

『1番メインVo.: 唯先輩』

これは梓ちゃんの筆跡。

『2番メインVo.: あずにゃん』

これはお姉ちゃんの筆跡。

この欄は、一度消した後に再び書かれた形跡がある。本当は澪さんの名前が入っていたのかも知れない。

そして、

『最後のサビ: 二人一緒!』

…二人一緒。ふふ、お姉ちゃんらしいね。

本能のおもむくままに動いているように見えて、実は周りへの気遣いも決して忘れていない。

お姉ちゃんはそういう人だ。

だから。

お姉ちゃんの幸せが、私の願いであるように。

私の幸せが、お姉ちゃんの願いなんだ。

でも、それだけじゃない。

お姉ちゃんの願いは、私だけじゃなく皆の幸せだ。もちろん、梓ちゃんを含めて。


――翌日。

「憂っ。」

教室に入った私に真っ先に声を掛けてくれたのは、やっぱり梓ちゃんだった。

「おはよう。昨日、大丈夫だった?」

「うん。もう大丈夫だよ。」

やっぱり昨日音楽室を覗いたことは気付かれなかったみたいだ。

「ほら憂、昨日のノート。」

休んだ分のノートを受け取ると、純ちゃんが文句を言う。

「あー、憂ばっかりずるい! 私にも貸してー!」

「ダメだよ。純はただ寝てただけじゃん。」

「梓のケチー。そんなんじゃ、誰もお嫁にもらってくれないよ。」

「なっ。そんなことないもんっ!」

膨れっ面の梓ちゃん。何度見ても見飽きないな。

…あの事故のことで梓ちゃんを責める感情は、もう完全に拭い去られていた。

他愛のないおしゃべりの後には、少し退屈な授業。それが終われば放課後だ。

「はぁ、やっと授業終わったー。」

「純は寝てただけじゃん…。ノートは貸さないからね。」

「えー。じゃあもう梓には頼まないもん! 憂、助けてー。」

「え、どうしようかなー。」

梓ちゃんは腕でバツ印を作っている。でもまぁ、減るもんじゃないし…。

いいよ、と言ってノートを渡した。

「ありがとうっ! さっすが憂!」

「もー、甘やかしすぎだよ。」

また梓ちゃんは膨れっ面。でも今度はすぐ元の顔に戻ってしまった。

いや、元の顔じゃない。何か強い意思を感じさせる顔。

「あ、私ちょっと用事あるから。じゃあね。」

「あれ、梓どこ行くのー?」

「うん、ちょっとね。」

「ふーん。じゃあねー。」


その用事が何か、私には心当たりがあった。

「…純ちゃん、私も用事あるから、じゃあね。」

「えー。しょうがないなぁ…。じゃ私も部活行くかな。」

「頑張ってね!」

「うん。じゃあね!」

教室を出ると、純ちゃんは、ジャズ研の部室に向かった。

私が向かうのは、…音楽室。

因縁の階段を上り、昨日と同じようにドアを細目に開けてみた。


――♪

梓ちゃんの歌声が、音楽室に響いていた。

昨日と同じで、2番だけ。

それは、1番を歌うはずのお姉ちゃんが、いないから。

…ふと、梓ちゃんの姿に、昨日1人でギー太を弾いていた自分を重ねてしまう。

私は正直、ギー太を弾いたって慰めにしかならないと思っていた。奏でる音はお姉ちゃんには届かないのだから。

それは今の梓ちゃんも同じはず。なのに、一生懸命に歌を練習し続けている。

たぶん昨日と同じように、下校時間を過ぎても続けるのだろう。先生が残っていたのも、きっとそのためだ。

でも、どんなに練習したって、学園祭には出られないのに…。

それに、仮に出演できたとしても、…お姉ちゃんが回復する見込みなんてないのに。

それでも梓ちゃんは歌い続ける。

きっと、明日も明後日も、毎日毎日。

その歌声は、もはや喜怒哀楽の情を超えた何かを帯びていた。

『もう針がないから買わなくっちゃ♪』

…気が付いたら、音楽室の中に足を踏み入れていた。

『ララまた明日♪』

2番が終わり。この次は間奏の後にもう1度、サビを繰り返す。

「あれ、憂?」

歌を止めた梓ちゃんの驚く声が聞こえる。

今の気持ちを何と表現すれば良いのかは分からない。

でも、一つだけ分かることがあった。

…もう私は立ち止まれない。

『キラキラひかる願い事も♪』

私の口が、最後のサビを歌い始める。

ここは、梓ちゃんと一緒に、お姉ちゃんが歌うはずの部分。

私が練習したって、そもそも軽音部の部員じゃないし、学園祭にも出たりはしない。

それでも、歌いたい。

そう思わせる何かが、私を駆り立てる。

『グチャグチャへたる悩み事も♪』

梓ちゃんも私の歌に加わった。

2人の声が重なり、音楽室は歌声で満たされる。

そして同時に、私の胸も熱情で満たされていく。

『そうだホッチキスで閉じちゃおう♪』

渾身の歌が、部屋いっぱいに響き渡った。

『――また明日♪』

2人で、最後まで歌い切った。

「……。」

「憂、急にどうしたの? びっくりしちゃった。」

「えへへ、梓ちゃんが練習してるとこ見てたら、つい…。」

「…あ、でも、練習付き合ってくれてありがとう。」

梓ちゃんの笑顔が眩しい。

一時とはいえ、事故の過失を責めていたことを、親友として恥じた。

「…お姉ちゃんと歌うはずだったんだよね、これ。」

「憂、はずだった、じゃないよ。」

「え?」

「これは、唯先輩と一緒に歌う曲。」

決然と言い放った。

その声は、お姉ちゃんの回復を信じて疑わない響きに満ちている。

「唯先輩は、きっと大丈夫。」

「……。」

「憂、私はそう信じてるよ。」

信じるだけで願いが叶うなら、誰だってそうするだろう。でも、それだけで願いを叶ってしまうほど世界は甘くない。

それでも、梓ちゃんを見ていると、お姉ちゃんが戻って来ると信じられる気がした。

「…そうだね。私も信じるよ。」

「ありがとう…。」

「梓ちゃん、応援してるよ。」

「うん! 頑張るよ。」


――この後、下校時間が過ぎて夜遅くになるまで、2人で練習を続けた。

「…憂、そろそろ帰ろっか。先生に迷惑かかっちゃうし…。」

休部措置中だけれど個人的に練習するなら許可してあげる、とさわ子先生が大目に見てくれているのだ。

「確かに迷惑かけるわけにはいかないね。」

「先生に感謝しなくちゃ。」

本当なら、ずっとずっと練習していたかった。

でも、明日だってその次の日だって、練習は出来る。…その意思さえ揺らがなければ。

だから仕方がないと、音楽室を出た。

「…あれ?」

何か落ちている。

「憂、どうしたの?」

拾い上げたカードには、『秋山澪ファンクラブ会員証 NO.0001』 と書かれていた。

「これ…、和さんのだよね。なんでこんなところに…。」

「ふふ、意外とおっちょこちょいなのかも。」

「え、そんなことないと思うよー。」

「…あっ! トンちゃんのエサ、忘れてた!」

「梓ちゃん、人の事言えないじゃんっ。」

エサやり当番は、えへへ、と笑って水槽のところに走っていった。

少し背伸びしてエサをあげている小柄な姿は、少し頼りなさ気に見えるかも知れない。

でも、その小さな体に宿る心の優しさと意思の強さを、私は改めて感じていた。


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最終更新:2010年08月18日 21:40