ほどなく通気口からリュックサックが投げ込まれ、指示された通り応急処置を始めた。
 霧吹きを取り出してミネラルウォーターをそこに注ぐ。少しこぼしてしまった。
 慌てなくていいぞ、と律先輩の間延びした声が響く。

律「ってか澪ってひどいと思わねー? 『一番小さいのお前だからお前が入れ』とかって」

澪『そんなこと言ってる場合か!』

律「じゃあ澪が入れば? あっそれとも澪ちゃん暗闇が怖いとか……いだっ!? 足つねんなよー!」

 こんな状況ですら律先輩と澪先輩は漫才みたいなやり取りを繰り返している。
 まるで部室みたいに軽口を叩く律先輩がどこかまぶしかく見える。
 入部したときから律先輩は太陽のような人だった。

律「梓、手が止まってんぞー。うりゃっ」

梓「ちょ…まぶしいですよ。なにすんですかっ」

 懐中電灯の光を顔に向けられて思わず目を背ける。
 すると一瞬うしろめたい気持ちがした。
 冷却剤の冷たさがやけに指にしみる。
 私はそれをタオルにくるんで、少し離れた位置から唯先輩の首元に当てた。
 自分の体温が伝わらぬようにとなるべく身体を離していたのに、唯先輩は朦朧としたままでも私に手を伸ばそうとする。

 やめてください。
 私を抱きしめたら死んじゃいます。
 そこまで言える勇気は、最後までなかったけれど。

憂『お姉ちゃん! 大丈夫なの!?』

 聞き慣れた、けれど切羽詰まった声がした。
 はっと我に返る。

律「あっ憂ちゃん、救急車の方は?!」

 律先輩がとたんに真剣な声に戻る。
 いけない。油断するとすぐ頭がぼうっとしてしまう。
 私は自分の手を床に打ちつけた。鈍痛が染み込む。

憂『停電のせいで事故があったらしくて時間かかるらしいんです、二人はどうですか?』

律「いま梓に介抱してもらってるとこ。大丈夫だって、私たちがなんとかするよ」

憂『すみません……梓ちゃん! 聞こえるー?!』

梓「全部聞こえてる、いま応急処置してるとこ!」

憂『ほんとにだいじょうぶ? ヒヤロンはタオルに巻いて当ててね、あといきなり水飲ませたらショックで――』

梓「律先輩から聞いてる、大丈夫だから」

 大丈夫、大丈夫だから。
 自分にも言い聞かせる。

憂『で、でも!』

律「憂ちゃん、ここは梓を信じよう。もう夕方だし、これ以上暑くはなんないよ」

憂『そう…です、ね』

 憂の涙声は胸の奥で狐の嫁入り雨のようにしとしと流れ込む。
 そういえば、唯先輩も雨が好きだって言ってたな。
 こんなんじゃダメだ。私が唯先輩を救うんだ!

 ――梓ちゃん、お姉ちゃんを頼んだよ。

 ようやく覚悟を決められたとき、突然真っ白い光が流れ込んできた。

律「うわっまぶしっ」

澪『停電が直ったみたいだぞ!』

紬『えっ、それじゃありっちゃ…』

憂『じゃあもう少ししたら救急車来るんですよね!』

律「おい聞こえたか? あと少しの辛抱だぞ!」

 やった、電気が直った。これで大丈夫だ!
 流れ込んできた光は根拠もなく強い希望まで運んできたようだ。
 急に室内照明が点いたせいで目がくらんでなにも見えなかったからか、もう助け出されたような気さえした。
 よかった。
 唯先輩が外に出られる。

律「じゃあ梓、私はいったん澪のもとにもど


 その瞬間、律先輩の身体を二百ボルトの電流が貫いた。



【2010年08月15日 04:15/平沢家 玄関前】

 おはようございます!
 わたくし桜ヶ丘高校三年、平沢唯です。
 いつもは九時まで眠っている私ですが、今日はがんばって早起きしちゃいました!
 だって今日は、念願のあずにゃんとの……

唯「あっあずにゃん、おはよー!」

梓「ひゃ!? もう、自転車止めるまで抱きつくの待ってください」

唯「待てないよぉ! だって、昨日の夜から楽しみにしてたんだよ?」

 制服姿のあずにゃんを見つけて、気が付いたら抱きついちゃってました。
 そんな私の腕をやんわりと外したあずにゃんはくすっと笑って、ちゃんと寝れたんですか、なんて聞いてきます。
 当たり前じゃん…そう言おうとしたのに、

唯「あたり…ま……ふあぁあ…ん……」

 あくびが出ちゃいました。


梓「日の出見るから早く寝てくださいって言ったじゃないですかっ」

 小さい肩をちょっといからせてむくれるあずにゃん。

唯「ごめんあずにゃん、だってデートが楽しみで眠れなかったんだもん。あずにゃんは違うの?」

梓「なっ……私だってがんばって寝ました!」

 あずにゃんは笑ってるのか怒ってるのかわからない顔でそっぽを向きます。
 あは、かわいいな…! 私は思わず抱きしめちゃいました。ぎゅー。

梓「ごっ、ごまかさないでください」

唯「違うよ。素直になってくれないから、腕の中でちょーえき12秒の刑なんだよあずにゃん」

梓「……なんですか、それ」

 むくれたあずにゃんも可愛いけど、十二秒経つころには……ほら。
 やっぱりほほえんでくれています。
 目を閉じてほほえみを浮かべて私の肩に頭を乗せるあずにゃんに、私もちょっと見とれちゃってました。

梓「――って! こんなことしてる場合じゃないですよ、早く行きましょう!」

 いきなり大きな声で言われちゃいました。
 えー? もうちょっといいじゃん、あずにゃん分は私の必須栄養素なんだよ?

梓「だーめーでーすー! 日の出の時間わかってるんですか?」

 ええっと……日の出って何時だっけ?

梓「この辺りはこの時期だと五時ぐらいです。ビルまで自転車で三十分はかかりますから、急ぎましょう」

 早口で言うとあずにゃんは自転車に乗り込みました。
 私もあわてて自転車に飛び乗って、走り出したもう一台の自転車を追います。
 後ろから眺めていると、二つに分けた髪が風に揺れて風鈴みたいできれいです。
 私もロングヘアーにしてみよっかな。あずにゃん、気に入ってくれるかな?

 携帯をちらっと見ると……現在時刻、04時30分。
 新聞配達のバイク以外は誰一人いない明け方の街をあずにゃんと二人で走り抜けます。
 空の色も少しずつ黒から青に変わっていき、砂金のようなに小さな星も自転車のライトの光も少しずつ薄まっていきます。
 信号と電灯だけがぽつぽつと灯されたこの街は、そのときまるで私たちふたりのものになったように思えました。

 ――二人だけの世界も、悪くないかな。
 そんなこと言ったら、りっちゃんたちに怒られそうだけどね。

梓「でも、起きててくれたんですね」

唯「へ?」

 赤信号で止まってたら、突然話しかけられてびっくり。

梓「ほら・・・・今日、曇っちゃったじゃないですか」

唯「あ、うん…そだね。でもそれがどうしたの?」

梓「……私たちの目的忘れてませんか?」

唯「忘れてるわけないよ!」

 っていうか、私なんだもん。
 この街の高いところから、明けていく街を見下ろしてみたいなんて言い出したのは。

 昨日の帰り道のことです。
 あずにゃんとふたりっきりになった時にこう聞かれました。

  梓『唯先輩、みなさんってこれから毎日勉強会なんですか?』

  唯『そうだよ、だって受験生ですもん!』

  梓『…わき目もふらず、ギターにもさわらず?』

 あの時も変にするどいあずにゃんでした。
 しょうがなく私は白状します。

  唯『ギー太は、ちょっと夜中にかまってあげたりしてるかな・・・・てへへ』

 受験生なんだけど、やっぱ身体が覚えちゃってるんだよね。しょうがないよ、うん。
 あー…あずにゃんに引かれたかな、ってそのときは落ち込んでました。

  梓『はぁ…そんなことだろうと思いました。ちゃんと勉強もしなきゃダメですよ?』

 やっぱり注意されちゃいました。めんぼくないな、私。
 でも、そういうあずにゃんはなぜかちょっとうれしそうでした。


  梓『でも、学園祭のライブのことも忘れないでくださいね?』

 そのとき私に見えた夕焼け色のほほえみは、どこかさみしそうでした。
 そっか……最後のライブだもんね。
 それでうれしそうだったんだね、あずにゃん。

  唯『大丈夫だよ、みんなとやる最後のライブ、絶対成功させるからね!』

 言い切って、Vサイン。
 あずにゃんはくすっと笑って、そしたら勉強の方を忘れそうですね、なんて言ってた。
 本当にそうなりそうで今もちょっとこわい…。


 唯『じゃあ、また今度ね!』

  梓『……あの』

 別れぎわ、私はあずにゃんに呼び止められます。
 空はもう赤から青に変わり始めていて、家々の明かりがぽつぽつもれ出す頃でした。

  梓『一日ぐらい、気晴らしにどっか出かけませんか?』


 わーお……あずにゃんの方からデートのお誘いです!
 昼間の暑くてだるい空気が一瞬で変わった気がしました。
 なんだかあずにゃんの言葉が冷たくて甘いもののように感じます。
 もしかして、あずにゃんの前世ってアイス?

  梓『なんか変なこと考えてませんか? 唯先輩』

 変な目でみられちゃった。

  梓『憂が「お姉ちゃんをどっかに連れてってあげて」って言ってたんです』

 私は勉強の邪魔だからって言ったんですけど、なんて言うあずにゃんがなんかわざとらしくて、

  梓『ひとが真剣に話してるのになに笑ってるんですかっ』

 ……また怒られちゃった。

  梓『それで唯先輩、なにか見たいものとか行きたいとことかありますか?』

  唯『でもあずにゃんとデートかぁ……うーん、もうちょっと悩んでいい?』

  梓『デートとか言わないでください! 気晴らしに二人で出かけるだけなんですから』

 なんか恋人みたいで恥ずかしいですよ……あずにゃんはうつむきがちにつぶやいていました。
 いいじゃん、一日ぐらい。……恋人に、なってもいいならさぁ。


 デートに誘ってくれたのは、ほんとうにすっごくうれしかったです。
 でも、夏休みはぜんぶ夏期講習か勉強会にするって決めていました。
 受験生だから勉強が第一です。勉強以外のことは考えない方がいいって、澪ちゃんも言ってたもん。

 それに……なんだろ。
 あずにゃんといると離れられなくなりそうな気がして、ちょっと怖かったのかも。


 私はちょっと考えて、一緒に日の出を見に行こうって誘ってみました。

  梓『またずいぶん予想外ですね……でも、なんでですか?』

  唯『ごめんね、一日中開いてる日はたぶん難しいんだ。だから、せっかくだし家の近くできれいなもの見たいなって』

 一年ぐらい前、軽音部のみんなで初日の出を見に行ったのを思い出します。
 あの時もあずにゃん、耳つけっぱで可愛かったな……。

  梓『……わかりました。じゃあ、ちょうどいいとこがありますよ』

 えっ? 初日の出のとき行ったあそこじゃないのかな。

  梓『秘密の場所なんです。……まだ行けるかわかんないけど、すごく見晴らしがいいんですよ』

梓「唯先輩、着きましたよ」

 昨日のことを思い出していたら、いつの間にか知らないところに着いていました。
 目の前に建っているのは、住宅街から少し離れたところにある古びたビルです。
 雨風にさらされて少し塗装のはげたそのビルは……なんだろう、人を寄せ付けない感じがします。
 澪ちゃんが見たら怖がりそうかも。

唯「え……ここなの?」

梓「小学生のころ、この近くに住んでたんです。そのときこのビルの最上階でたまに景色とか見てたんです」

唯「友達とみんなで?」

梓「いや……ここに来るときはいつも一人でした。でも、本当の親友とか大事な子だけは内緒で連れてってあげたりしてたんです」

 なんてったって、秘密の場所ですからね――いたずらっ子みたいな笑みを浮かべるあずにゃん。
 でもそこに連れてきてくれたってことは……

梓「ああもうなんでもないです! 早く行きましょうよ」

 そう言ってずかずかとビルに入っていくあずにゃん。
 私は慌てて自転車をとめ、降りるときに自転車を倒しそうになりながらも追いかけます。

梓「もう、こっちですよ?」

 エレベーターの中であずにゃんが手招きしてました。まねきあずにゃん、なんちゃって。

梓「……変なこと考えましたよね」

 ええっ、なんで分かるの?!


梓「唯先輩の考えてることぐらい分かりますよ」

唯「ねぇあずにゃん、私ってそんなに分かりやすい?」

梓「うらやましくなるぐらい分かりやすいですけど」

 あずにゃんがエレベーターでR階のボタンを押すと、ドアが閉まりました。
 二人っきりの空間。……って、変な意識とかしなくてもいいのに、私。

 私はエレベーターの手すりにもたれかかって、なんとなく天井を見上げます。
 室内照明と、人が一人通り抜けられるぐらいの作業用の小さな扉だけがある、殺風景な空間です。
 ここに何時間もいたいとはちょっと思えません。

梓「このエレベーター、夏場はすごく蒸し暑くなるんですよ」

唯「へー…なんで?」

梓「空調設備がうまくきいてないんじゃないですか? 誤作動とかも多かったらしいですし」

唯「ふーん」

 っと、着きました。

 エレベーターから出ると、下への階段とドアが一つ。
 なんだか床がほこりっぽいので、早く外に出たいです。
 あずにゃんはドアノブを上下にがちゃがちゃやって、下の方をごつんと少し蹴っていました。

梓「ここをこうすると開くんですよ、無用心極まりないですよね」

 すごい、本当にドアが開いた!
 私はあずにゃんが持つドアから勢いよく屋上に飛び出しました。
 やったあ、一番乗り!

梓「あっ、そこ階段になってて危ない…!」

唯「えっ――きゃっ」

 どてん。
 思いっきり転んじゃった……。


唯「ったあ…!」

梓「まったくもう、人の話きかないからですよ」

 うう……ぶつけたひざがちょっと痛いです。
 キズにはなってなくてよかったけどね。

 気を取り直して立ち上がり、私は空を見上げます。

唯「うわあ……なんか空が近い…!」

 相変わらずくもったまんまでしたが、その分やわらかそうな雲が視界ぜんぶを満たしていました。
 雨や雲が好きって言ったらりっちゃんが変な顔してたけど、なんだか包み込んでくれそうな雲も冷たい雨も嫌いじゃないんだよね。

 私は屋上の向こう側に走り寄りました。
 そこには――私たちの住んでる町がミニチュアのように広がっていました。
 夜が明けてもまだ点いたままの街頭が星のように見えて、
 でも車やバイクの音が高速道路の方から少しずつ聞こえて、
 なんだか街そのものが朝になって目覚めようとしているみたいですごくドキドキしました。

梓「ここ……すごいですよね」

唯「そうだねぇ」

 フェンスの網目の隙間に広がる街を眺めていたら、いつの間にかあずにゃんが居ました。

梓「高台で他に高い建物もなくて、街全体がこうして見渡せるんですよ」

唯「なんだか二人だけで、飛行船に乗ったみたいだね」

梓「……唯先輩らしい考えですね」

 隣にいたあずにゃんが、くすくす笑っていました。
 すぐそばでフェンスの網目をにぎる、小さな手。
 私はそこに自分の手をなんとなく添えてみます。
 その手はほんの少しだけぴくんと揺れて、でもそのまま網目を握りしめていました。
 自分の手が、少しだけ汗ばんだ気がします。


梓「唯先輩」


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最終更新:2010年08月29日 18:58