ひとりごとのように私を呼んだあずにゃんに何かを言おうとして――何一つ言えません。
あずにゃんは――なにかすがるように、フェンスの向こう側を見つめていました。
私はそのとき、むかし憂と見た映画をなぜか思い出しました。
愛し合う二人が人種の差に引き裂かれ、離れ離れにさせられながらも求め合う……そんな話だったと思います。
映画の中で国家警察に連れ去られていく女の人の諦めたような諦め切れないような顔。
すぐ隣のあずにゃんにその顔を見出してしまって、怖くなって手を握り締めました。
――離れないで。そばにいて。ずっと抱きしめさせて。
――でも、ダメだよ。
――私たちは付き合ってはいけないんだ。
映画の台詞が、なぜかずっと頭の中に響くのです。
《答えは二人とも分かっていて、けれど口に出したら終わってしまうんだ。》
あの映画は、私とあずにゃんのことを言っていたんでしょうか…?
そんなことをしばらく考えながら、私は何も言えずに手を握っていました。
梓「曇ってて見れなかったし、そろそろ帰りましょうよ」
突然、振り切るようにあずにゃんが立ち上がりました。
唯「えっ――あずにゃん、まだ六時にもなってないしもうちょっと居ても…」
梓「こんな時間に変なとこに連れ出してすいませんでした。唯先輩も家に帰って、勉強会まで仮眠取ったらどうですか?」
唯「……うん」
立ち上がって距離をとったあずにゃんを、いつものように抱きしめようとして――なぜかできませんでした。
あずにゃんはあずにゃんなのに、私とあずにゃんの間に見えないカベがあるような気がして。
フェンスの手を離した瞬間から急速にあずにゃんが離れていくようで、
あの映画の女の人がひたすらフラッシュバックして、
せめて繋ごうと伸ばした私の手も、空に浮かべたまま動かせずにいたんです。
唯「そうだね、帰ろっか」
梓「受験勉強がんばってくださいね」
唯「仮定法が難しいんだよね、英語とか」
梓「授業ちゃんと聞いてたんですか?」
ありあわせの言葉で場の空気を埋めてみたって、はめこんだそばからこぼれていくような。
そう思うと自分がどうしようもなく無力に感じました。
いつしか蝉の声が響きだし、少しずつ暑くなっていきます。
私は太陽が雲に遮られているうちに、ドアの中へと戻りました。
気まずい空気のまま、私たちはエレベーターに乗り込みます。
メールでも見ようと思って携帯を開くと圏外になっていました。
誰かの送る電波すら届かない、二人っきりの場所。
なのにあずにゃんと私は違う人に感じて、狭い密室の中でも距離を感じていました。
梓「……唯先輩、ボタン押さないと降りられませんよ?」
唯「あ、そうだった。てへへ」
いろいろ考えごとしてて忘れちゃってた。
私はあわてて1階のボタンを押しました。
エレベーターが揺れだして、小さな引力を感じます。
5階、4階と階数が下がっていったその時。
突然エレベーターが音を立てて揺れ始めました。
梓「きゃ…!」
悲鳴を上げて私の肩に飛びつくあずにゃん。
急に体重が掛かってよろめいた私はなんとか手すりにつかまります。
エレベーターが振動で急停止しました。
私はあずにゃんの肩をぎゅっと抱いて、揺れが収まるのを待ちます。
唯「……だいじょうぶ?」
梓「はい…すいません」
揺れが収まった後もあずにゃんもしばらくそばにいました。
ほっと息をついて、私の胸に少しもたれるあずにゃん。
唯「地震、だよね?」
梓「こんなところで起きるとは思いませんでした…」
こわかったんだねー、よしよし。
元気になってほしくて、わざとあずにゃんの頭を子供みたいになでてみます。
……なのに、あずにゃんはそのまま私にぎゅっとしがみついたままでした。
正直、ひっぱたかれると思ってたのに。
本当に怖かったんだ……変なことしちゃったな。
私はもう一度、今度は本当にあずにゃんの小さな頭をそっとなでなおしました。
なんとなく、申し訳ない気分です。
梓「もう大丈夫です、取り乱してすみません」
唯「いーのいーの! あずにゃんは泣かない強い子だねぇ」
もう、子供扱いしないでください。
そう言ってむくれたあずにゃんを見て、ようやく安心できました。
唯「あ、じゃあうちでちょっと休んできなよ! いろいろあって疲れたでしょ?」
梓「そうですね。でも、突然押しかけて大丈夫なんですか?」
唯「うち今日、憂しかいないもん。あずにゃんだったらきっとよろこんでくれるよ!」
梓「いや、朝ごはんの支度とか……もういいです、行きますよ」
やっと自然にあずにゃんが笑ってくれました!
こっちも落ち着いたら、なんだかワクワクしてきちゃったよ。
あずにゃんと憂と、三人で朝ごはん! はーやく食べたいなっと。
私はエレベーターの1階のボタンをもう一度押しました。
唯「……あれ?」
ボタンの「1」のところのランプが点きません。
おっかしいなあ……もう一回、ぽちっとな。
ダメでした。
梓「ちょ…どうしたんですか? 唯先輩」
後ろから不安げな声が聞こえます。
私は何度もボタンを押しましたが……ぜんぜん動く気配がありません。
胸の奥に、いやな熱がともるのを感じました。
心臓が変にドクドク言ってる気がして怖くなります。
このまま――いや、そんなはずないよ。大丈夫だよ。
っていうか出ちゃえばいいよね、階段で行けばいいじゃん。
無理やり言い聞かせて、今度は「開」のボタンを押しました。
ボタンは……点きませんでした。
めまいを覚えました。
唯「……あずにゃん」
梓「なんですか? どうしたんですか、唯先輩?!」
これ以上あずにゃんを怯えさせたくなかったのに。
言いたくなかったけど、私は伝えました。
唯「……エレベーター、動かない」
【2010年08月15日 8:00/桜ヶ丘高校 図書室】
澪「唯、遅いな…どうしたんだろう」
律「寝坊でもしたんじゃねーの? 唯ってそういうキャラじゃん」
そう言って澪の不安をわざと茶化してみる。
本気でそうは思ってないけど、胸の奥に変なものを残すのはいやだったから。
私は澪と片耳だけ入れたイヤホンが外れないように気をつけて鞄からチョコレートを二粒つまみ出す。
一個は私の口に放り込み、もう一つは澪の口元に持ってく。
律「ほら、ストレスにはポリフェノールでしゅよー澪しゃん」
澪「あのな……まがりなりにも学校の図書館だぞ? 今は私と律しかいないけど」
えーいいじゃん別に。誰も見てないんだぜ?
受験生向けに図書室が開放されてるってったって、日曜の朝も使ってるのはほとんど私たちだけなんだし。
澪「そう言ってこないだポッキーの袋落としてバレたんだろ、学習しろ」
律「澪って誰も見てない赤信号で止まって遅刻するタイプだよな」
澪「信号も見ないで突っ走ってひかれそうな人に言われたくない。ってか、遅刻は唯だろ?」
言ったそばから澪の唇が私の指からチョコをぱくっと奪い取った。なんだ、結局食べるんじゃん。
てーか話戻っちゃったし。ちぇ。
律「……ほら、今日って変な天気だし傘とか取りに戻ったんじゃないのか?」
言ったら妙に天気が気になって、なんとなく澪の背後の窓に目を向ける。
もやもやした雲が空を覆っていた。熱帯夜で汗を吸ったシーツのような、そんなしけった雲。
唯や梓は雨が好きって言ってたけど……私はやっぱ苦手だ、こういう日。
澪「そんなの唯は気にしないだろ。っていうか、律ぼーっとするなよ。手とまってる」
律「え? わりーわりー、だってこんな天気だとなんかアンニュイになってきちゃうじゃん?」
澪「律、アンニュイの意味わかってる?」
澪が少し吹き出す。
あっみおバカにしたなー、ゆるさんぞーっ。……ってな感じで場を持たせとけばいいかな。
律「うるせーし。だいたいアンニュイなんて言葉知ってるから澪とか梓はアンニュイになるんだよ」
澪「梓? ……ああ、そうかもね」
うわ、墓穴掘った。りっちゃん不覚。
昨日の話は持ち出さないって決めてたのに。
澪「……勉強しよ」
律「そうだな、受験生だしな、よく忘れるけどさ」
澪はなにも言わずに私のMDプレイヤーからイヤホンを引き抜いて、自分のiPodに差し替える。
律「あっボヘミアンラプソディまだ聞いてたのに! こっから展開変わって盛り上がるんだぞ?!」
澪「勉強には向かないんだよ」
機嫌悪いなー。っていうか、なんか話すの避けてる?
まあ、人のこといえないけど。
それから澪が再生したのはシガーロスの三枚目だった。Hoppipollaとか入ってるやつ。いや、嫌いじゃないけどさ……
律「これ、眠くならないか?」
澪「まだ勉強とか図書室とかに合ってるだろ。うるさいのはやだ」
ああそうですか。
フレディ、あの世で泣くぞ?
それからほんの数分はペンを走らせていられた、と思う。
私と澪はそろって世界史選択で、今は前近代のラスボスこと中国死、もとい中国史を復習していた。
もう中国史だけは死ぬ。漢字で死にまくる。
細かい年号の暗記から世界史に逃げ込んだってのにさ。
つーか「かんがん」とか「てんそく」とか書けるJKいるのかよ?
澪「ひらがなで答え書いてるといつまでも覚えられないぞ」
……いたし。目の前に。裏切られたし。
律「あーもう! 天気悪いし唯来ないしムギはフィンランドだし、やる気ぜんぜん出ねえ!」
澪「いつものことだろ、まったく…」
あーだめだ。勉強スイッチ完全に切れたわ。
ちまっこい漢字を書いて覚えるのにうんざりしてきたから、しばらく音楽に耳を傾けていた。
マイブラとかライドにも似た、澪いわく「ひたすら別世界に行けるような」曲調。
透明な空気をそのまま音にしたようなギターサウンドと、大地を駆け抜けるようなドラミング。
聴き入っているだけで行ったことも見たこともないアイスランドの景色が浮かぶ。
……のだ、そうだ。澪が言うには。
まあ私はもっとロックロックした曲のが好きだけどさ。クイーンとか。
律「シガーロスのボーカルって、ゲイらしいよ」
澪「……知ってる。それが?」
律「いや…意味はないけど。ただなんか……どっかのバンドマンが言ってたよ」
澪「なんて?」
律「同性愛者とか、性的マイノリティの生み出す楽曲はどうしようもなく素晴らしい、ってさ」
ボールペンを止めて澪が顔を上げる。はたかれると思ったら冷たい目を向けられて、言葉に詰まった。
律「…いや、勉強するってば」
私、逃げ足速いな……。
澪「唯、遅いな……。八時半になるのに、メール一つ来ないなんて」
五分ほど勉強を続けてた澪もさすがに手を止めてつぶやく。
同じこと考えてたらしい。さっきの話とは関係なく。さすが幼なじみ。
ふと、メールでも来てるかもしれないと思って携帯を開く。
ただいまの時刻、8時28分。新着メール、なし。
律「まさか。唯のやつ、まさか通学中に国道から不意に走ってきたトラックの――」
私の深刻そうな顔に、澪も思わず顔をひきつらせる。
胸の奥によぎった悪い予感をそのまま告げるべきか、一瞬迷った。
本当のことを言ったら、澪を傷つけてしまうかもしれない。
けれど――言うしかないんだ。
律「――トラックの運ちゃんに道聞かれて車乗って道案内してたりしてー!」
ぽかっ。
本日一発目、いただきました。いてー!
澪「あったけど! そんな話もあったけどさ! 今はそういう話をしてるんじゃない!」
そうそうあったよなあ、二年の時だっけ。
トラックの運転手に搬入先のデパートまでの道を聞かれて、そのまま乗り込んで道案内して高校に遅刻したのって。
唯いわく、「デパート前のバス停でバス乗れば間に合うと思ったんだけど、お財布忘れちゃったんだよねえ」と。
どんなお人好しだよ。いや、唯のそういうとこ割と好きなんだけどさ。
ってそんな話じゃなかった。ごめん澪。唯のことだよな。
澪「そういえばあのデパート、最近つぶれたらしいぞ? 不況のあおりって怖いな」
えっ、そっちの流れなの?
そうして唯のことを気にかけつつもチョコレートをほおばって澪と近所の商店街の衰退を嘆いてた頃、扉の開く音がした。
私は慌ててMDプレイヤーを右胸のポケットにしまってチョコレートの袋を鞄に押し込む。
憂「こんにちは、お勉強のお邪魔でしたか?」
なんだ憂ちゃんか、先生かと思ったよ。
澪「いや、邪魔は律からさんざんされてたから気にしないよ」
おい。
律「あ。そうそう憂ちゃん、唯のことなんだけど――」
憂「お姉ちゃん、トイレですか?」
澪「えっ? 唯、まだ来てないけど」
とたんに憂ちゃんの表情が曇る。
あれ、唯と何かあったのか?
憂「……お姉ちゃんまだ来てないんですか?」
律「来てない来てない。あっもしかして唯のやつ、寝坊して憂ちゃんとケンカしたのか? そしたら」
澪「やめろ律。それで唯のことなんだけど」
憂「お姉ちゃん、朝の四時半に梓ちゃんと出かけたっきり戻ってきてないんです」
言葉を失った。
窓の向こうで、蝉の音が悲鳴のように強く聞こえ出した。
澪「……おい、律」
律「分かってる。ちょっと落ち着こうって」
落ち着こう、なんて口に出してしまうぐらい私も落ち着いちゃいなかった。
憂「お姉ちゃん、何かあったんですか?」
私たちの不安はすぐに憂ちゃんにも伝わる。
居ても立ってもいられず、かといってどこにも行けないような、そんな焦燥感。
それは次の言葉を見つけられないでいる私もたぶん一緒で。
澪「私も律も居場所までは分からないんだ。憂ちゃん、唯は梓と一緒にいるのか?」
憂「お姉ちゃんは、梓ちゃんと日の出を見に行くって言ってました!」
ひ、日の出?
唯らしい訳わかんない発想だな…。
澪「でも、それだったら今日曇りだし早く家帰ったり学校来たりしててもおかしくないよな」
澪の言葉が不安を増幅させる。
たぶん私はトラックとか縁起でもないこと考えてたせいで、変に杞憂してるだけなんだ。
そう言い聞かせて落ち着けようとする。
本当に気にかかってるのは別のことだったけど。
律「憂ちゃんの方にもメールとか電話とか来てないのか?」
憂「音沙汰ないです、梓ちゃんにも電話したんですが圏外みたいで――」
その瞬間、私の右太ももで携帯が振動しだす。
すぐに手を突っ込んで取り出す。
考える間もなく通話ボタンを押して携帯を耳に当てた。
澪「おい律、誰からかかってきたんだ?!」
律「ちょっと静かにしてろ! いま唯から――」
梓『り、律先輩ですか!? 私です!』
律「どうしたんだよ梓、唯はそこにいるのか? みんな心配して」
梓『エレベーターに閉じこめられてるんです、私たち!』
律「は?」
……は?
ええっ?!
梓『五時過ぎぐらいに地震ありましたよね? それでエレベーター止まっちゃって出られなくて、やっと電波つながったと思ったら』
律「落ち着け梓、今どこにいるんだ?」
梓『えっと……これ〈ピーッ〉明しま〈ピーッ〉助けをよんd』
律「おい、電波大丈夫か?!」
私の声は梓に届かず、通話は切れた。
最終更新:2010年08月28日 20:31