憂「お姉ちゃんどうしたんですか、何かあったんですか?!」
血相を変えた憂が詰め寄ってくるけどそれどころじゃない。
私は梓にリダイヤルする。
《お掛けになった電話番号は、現在電波の――》
もう一度。
《お掛けに――》
くそっ! なんでつながんねーんだよ!
澪「おい律、状況をまず説明して――」
律「今それどころじゃない!」
ああもう、澪に当たってどうするんだよ私。
梓へのリダイヤルをあきらめて、唯にも掛けてみる。
だが、唯への電話も自動音声に遮られた。
全身の力が抜けた。
携帯を机に放り出して、椅子に身体を投げ出した。
投げつけた衝撃で携帯が、倒れた人のように開く。……縁起でもない。
澪「律、落ち着けよ。何があったんだ?」
憂「お姉ちゃんは無事なんですか?」
顔をのぞき込む心配性二人。
だけど、さっきの私はそれ以上に動揺してたと思う。
こんなんじゃ私が落ち着かないでどうする。
深呼吸を一つ。
身体の奥から不安を吐き出すように、念入りなやつを。
そうして、私は二人に電話の内容を告げた。
律「澪、今日の勉強会は中止だ。二人がどっかのビルのエレベーターに閉じ込められてる。場所は分からない」
目を見開き、青ざめた顔が二つ。
みるみる血の気を失っていく。
律「みんな、落ち着こう。とりあえず先生たちに伝えて、唯たちの行きそうな場所探してみようぜ!」
投げ出した携帯電話を右側のポケットに入れて、無理やり明るい声で呼びかけた。
まだ動揺しっぱなしの澪を見たとき、窓の外が目に入る。
灰色の雲を見ているといやでも不安が膨らむから……私は思わず目をそらした。
【2010年08月15日 9:43/Nビル構内】
梓「これから場所を説明しますから、助けを呼んでください!」
言い切る間もなく、唯先輩の携帯の電池が切れた。
一瞬、電話が繋がったときには喜んだけれど結局たいしたことを伝えられずに切れてしまった。
もしかしたら、相手が律先輩だったからかもしれない。
あの話をしてから、心の底で先輩に引け目を感じていたから。
唯「どうだった、りっちゃんと話せた?」
梓「はい。でもすぐ切れちゃって、場所が伝えられなくて……」
唯「閉じ込められてるのは伝わったんだよね? じゃあ大丈夫だよ!」
梓「でも、場所がわかんなかったら助けに行きようが…」
唯「それでも、誰かが見つけてくれるよ。だって今日いて座が1位だったもん!」
梓「あはは……」
笑顔で根拠なく言い切ってしまって、思わず力が抜ける。
でも、気持ちが押し潰されそうな密室の中ではそんな唯先輩が頼もしく見えた。
唯「まああずにゃんも、のーんびり助けを待ってようよ」
梓「……そうですね」
私が言うなり教科書の入ったカバンを枕にして、床に寝っころがる唯先輩。
いや、それはさすがにリラックスしすぎなんじゃ……
唯「そのぐらいの方がいいんだよ。ってかさっきのあずにゃん、めっちゃ慌ててたもん」
梓「私なりに落ち着いて伝えようとしましたよ!」
唯「地震起きたの、六時だよ?」
あ…そうだっけ。
唯「ほらぁ、あずにゃんパニクってるじゃん」
得意げな顔を向けられた。
この人、事態の深刻さ分かってるのかな……?
梓「ていうか唯先輩はなんでそんなに落ち着いてられるんですか!」
唯「だって、あずにゃんが一緒だもん」
えへへ、って愛くるしい笑顔を浮かべてそれとなく手を握る唯先輩。
こんな時、いつもどうしていいか分からなくなる。
私の心の奥底に、あまりにもすんなり入ってきてしまうから。
私が「練習しよう」とか「もっと真面目な部活に」って構えてる時だって、気づくといつも唯先輩のペースに乗せられてた。
アイデンティティをかけて必死で立てたバリケードなのに、唯先輩はたやすく隙間をぬって侵入してしまう。
そして気づくとぎゅってされてて――
……いつしかバリケードの中で、唯先輩を待ちわびるようになってたんだと思う。
唯「私もね、一人だったら不安でたまんなかったと思うよ」
私の目をじっと見つめて、唯先輩が話す。なんか、どきどきする。
唯「でもあずにゃんが居るから、大丈夫そうな気がするよ」
私はギー太とアイスとあずにゃん分があれば生きていけるからね!
そう、言い切られてしまって、居心地がわるくなって思わず目をそらす。
梓「……ギターより受験勉強をしてください」
あはは、そうだよね。私、忍耐力ないからさ……弱いもん、うん。
そう言って唯先輩は困ったように笑った。
本当は思ってもいないバリケードを立ててはまた逃げようとしてしまう自分は、確実に唯先輩よりも弱い。
五時――じゃなかった、六時の地震で閉じ込められた時は唯先輩もさすがに動揺してた。
ていうか唯先輩、自分を責めまくってた。
ごめんね、私が変なこと言い出したからだよね、ごめんねあずにゃん、って。
思わず私は「唯先輩のせいじゃないです、事故だからしょうがないですよ」なんてなだめていた。
『先輩をこんな危ないところに連れてきたのはあなたでしょ』
聞きたくない自分の声をかき消すために、つい唯先輩は悪くないなんて言い方をしてしまう。
その度に、声を上げるたびに、自分の中に変な熱が溜まっていくのを感じていた。
やがてその熱はこの部屋に充満し、唯先輩を押し潰してしまうのかもしれない。
私のせいで、唯先輩が。
唯『あずにゃん、どしたの? こわい顔してるよ』
そうやって一人で思いつめてたときも、唯先輩が引き戻してくれた。
唯『なんかこうしてると合宿みたいだよね!』
ふきだしてしまう。
いつの間にか、私が助けられる側に回ってた。……いや、最初からかな。
甘えてばっかだ。落ち着きなよ、梓。
自分の心に自分で言葉の刃を向けて、他人から傷つけられる前に先手を打つ。
これも昔からの癖だった。
しばらくして私も唯先輩も落ち着いた頃、唯先輩が突然言い出した。
唯『あずにゃん、あずにゃん! あの非常ボタン押してみてもいい?!』
梓『は……はぁ?』
唯『ほら、ああいうボタンってふだん押しちゃいけないじゃん? ねぇ私が押してもいいよね?!』
レストランで注文ボタンを押したがる子供みたいに唯先輩がはしゃぐ。
っていうか、そのものだった……。
梓『いいですよ、押してください』
なんだかほほえましくて自然と口元が緩んでしまう。
唯『終わったら次、あずにゃんの番だよ! 繋がるまで続けるからねっ』
なんていうか……軽音部入ってから私、こんな気持ちになること増えたかも。
はじめ唯先輩は非常ボタンを押し続けることを知らず、一回押しては私と交代しようとした。
梓『いや、ここに書いてあるじゃないですか。押し続けるんですよ』
唯『ええー…指疲れそうだなあ』
梓『ギタリストがそれ言いますか…』
それから唯先輩はしばらく押し続けた。
けれど……一向に管理会社に繋がらなかった。
私も心の底ではあの小さな黄色いボタンにすがっていた。
外界に私たちの存在を知らせてくれて、やがて助けを呼んでくれるはずだと。
でも実際は、七時ごろからずっとボタンを押し続けているのに何の音沙汰もなかった。
唯『私たち、見捨てられちゃったのかな…』
肩を落とす唯先輩。
私は心の中で管理会社に逆恨みと八つ当たりをぶつける。
そうして外の世界から完全に遮断された私たちは、エレベーターの床に座り込んだ。
ここのエレベーターには足元に赤の薄っぺらいカーペットが敷いてある。
それに気をよくした唯先輩はさっそくカバンを枕に床に寝転がった。
唯『なんかこうしてる家みたいだなぁ…ういー、あいすー。なんちゃって』
梓『憂の苦労がうかがい知れますね…』
言ってはみたものの、私だけ律儀に立ってるのもばからしく思えて、結局自分のカバンの上に座った。
唯『あーあずにゃんジベタリアンだー、お行儀わるーい!』
梓『床で寝てる人に言われたくありません!』
そんな、一瞬いま事故に遭ってるってことを忘れてしまうような。
一緒に居る相手が唯先輩じゃなかったら……こうはならなかったと思う。
結局私も根負けして、唯先輩と一緒に寝転がった。
カバンを枕にして、仰向けになる。
カーペットの縫い目を指でなぞったり、太ももに当たるカーペットの感触を押し当ててみたり。
見ると天井はやけに低く感じて、煤けた照明が私たちを押しつぶそうと迫ってくるようで……気持ち悪くなる。
そこで思わず目を逸らすと……唯先輩と目が合った。
唯『えへへ、二人っきりでお泊りみたいだね』
梓『……変なこといわないでください』
変な気分になるじゃないですか。手とかつながないでくださいよ、本当。
梓『そうだ、もう少しだけ携帯つながるか試してみましょうよ』
今にして思うと、自分の気持ちをそらすために言ったんだと思う。
結局、電話は律先輩に一瞬繋がったものの――振り出しに戻っただけだった。
いて座が一位だったら、私のさそり座は何位だったんだろう。
唯先輩と一緒にいれてるから五位ぐらいかな?
っていうかその占い、絶対アテになんないな……。
唯「ねーあずにゃん、なんか楽しいことしよ?」
梓「じゃあ……音楽でも聴きますか?」
自分の腰掛けていたカバンからウォークマンを取り出す。
唯「うん! ……って、それって最新機種?」
梓「そうですそうです、ノイズキャンセリング機能もついてるんですよ!」
唯「へー、なにそれ」
梓「自分の聴きたくない騒音とかを消せるんです」
すると唯先輩はうなってしまう。
そこまでして消したい騒音ってどんなのだろう、なんて悩んでしまった。
梓「例えばほら、人の話し声とか電車の音とかいろいろあるじゃないですか」
……言った後で、気づいた。
唯先輩は何でも楽しめるから、騒音なんてないのかもしれない。
雨音にあわせて歌っていたような人だったっけ。うらやましいな。
そう考えると、自分の聞きたくない音をシャットアウトする私が急にみすぼらしく感じた。
梓「適当にシャッフルして流れたのでも聞いてみましょうか」
唯「そだね。どんなのだろ」
目をつぶって適当にボタンを押して再生させる。
印象的なディストーションギター、後に入ってくるドラム、はじめは小さくやがてうなりを上げるベース。
ファルセットの利いたボーカルが歌いだす。
唯「おお……なんかカッコイイ! ねえなんて曲?」
しかしよりにもよって、こんなときにこんな曲だなんて。
苦い笑いがこみ上げる。なんて皮肉だろう。
梓「……ミューズの、ストックホルム・シンドロームって曲です」
シャッフル機能はたまにこういうことをしてくれるから困る。
唯「それってどういう意味?」
梓「ストックホルムで銀行強盗があって、人質がしばらく監禁されているうちに犯人のこと好きになっちゃった事件があったんです」
そんな風に、極限状態で人の気持ちが変わっちゃう、っていう心理学の用語をテーマにした歌だと思います。
唯先輩にそう説明した。
……いまここでこの曲はないよ、やっぱ。
唯「あ、それって憂が同じこと言ってたよ! つり橋効果ってやつだよね?」
梓「似てるようで全然違います…」
ストックホルム症候群はもっと悪い意味で使うんですよ、たぶん。
わざと閉じ込めてたりとか、よくない関係だったりとか。
……気持ちを変えることで、身を守ってるだけだから。
自分のことしか考えてないだけだから。
唯「ねぇ、私たちってストックホルム症候群なのかな」
梓「……そんなこと、聞かないでくださいよ」
唯「ごめん、なんでもない! でもこの曲かっこいいね、りっちゃんとか好きそう」
すぐに笑顔に戻った唯先輩。
だけど、その三秒前の表情は忘れられそうもなかった。
昨日まで憂や純のおかげでなんとなく決意できてたはずの気持ちが揺らいで、崩れ落ちそうになる。
せめてこのドアが開いてくれたら……病気じゃない、まっとうな気持ちだって、言い切れるのかもしれないのに。
『まっとうなの? あんたが先輩に向けてる気持ちって、傍から見たら相当気持ち悪いんじゃない?』
うるさいな。静かにしててよ。
律『――気持ちは分かる。けど、これから先に傷つくのは梓だし、唯だと思う。だから……やめといた方がいいって』
数日前に聞いた言葉が耳の奥で揺れる。
傷つけたくない。傷つきたくないから。
……私は気づかれないように、唯先輩の身体に触れないように、そっと距離をとった。
【2010年08月15日 13:36/児童公園】
律『さっきムギと合流した。唯たち見つかったか?』
律からのメール。聞くぐらいだから、あっちも進展はないみたいだ。
返信して、ベンチの隣の憂ちゃんに現状を伝える。
憂「あれ、紬さんって避暑に出かけてましたよね?」
澪「それどころじゃないだろ、今は」
そうですよね、と憂ちゃんがか細い声で答える。
私はカバンからチョコレートを取り出して――憂ちゃんに差し出すのはやめた。
律からもらった個別包装のトリュフ、袋を開ける前から型くずれしてしまっていた。
澪「……えっと、食べる? ていうか、飲む?」
憂「もう溶けちゃってるじゃないですか」
少し笑ってくれて、安心する。……なんか律みたいなことしてるな、私。
午前中に窓の外を覆っていた分厚い雲は跡形もなく消え、抜けるような青空からは直射日光が遠慮なく降り注いでいる。
夏の日差しは私たちの影すらも奪おうとするほど強い。
憂ちゃんと唯の行きそうな場所を巡っていた私もさすがにダウンして、公園の木陰のベンチに逃げ込んできたところだった。
ふつう、「雨は悪い天気だ」と人は言うけれど。
けれど体中の水分を根こそぎ否定するようなこんな日差しに当たっては、少しぐらい雨が降ってほしいなんてことも思ってしまう。
憂「この公園、小さい頃にお姉ちゃんと和ちゃ……和さんとよく来てたんです」
ほら、あの水飲み場ありますよね? そう言って、公園の隅に設置されたものを憂ちゃんが指さす。
憂「あの蛇口を全開にして、数メートルぐらいの噴水にして水浴びするのが好きだったんですよ。お姉ちゃん」
澪「それって、後で怒られたりしないのか?」
憂「だからお姉ちゃん、公園に行くと怒られてばっかでした」
昨日のことのように語っては、くすくすと微笑む憂ちゃんがかわいらしかった。
……唯、愛されてるなあ。
最終更新:2010年08月28日 20:34