憂「もしかしたら、梓ちゃんの方かも」

 公園の入り口の自販機で買ったポカリで喉をうるおしていたら、憂ちゃんがつぶやいた。

澪「どういうこと?」

憂「お姉ちゃんの行きそうな所じゃなくて、って意味です」

 なるほど。あれから半日近く唯の行動範囲をかけずり回って、それでも見つからないってことはそっちの線が濃そうだな。

澪「じゃあ、今度は憂ちゃんが知ってる限りで梓の講堂範囲を当たってみるか?」

憂「でも、梓ちゃんが知ってそうなところもほとんど巡ったんですよね」

 言われてみれば、そうだろうな……梓、唯か憂ちゃんかジャズ研の鈴木さんと仲良くしてるイメージしかないし。

憂「私、梓ちゃんから相談受けてたんです」

澪「へぇ、どんな?」

 何も知らないみたいに聞き返してしまった。……恐らくあれのことだろうな。
 違うことを祈るけど、たぶんそろそろ逃げられない。


憂「――梓ちゃん、お姉ちゃんが好きなんです」

 ビンゴ。
 返す言葉が浮かばず、そうか、なんてズレたあいづちを返してしまう。
 言葉を探せば探すほど見えなくなって、夏の熱気でますます意識のピントがずれていく。

 気づくと公園で遊ぶ子供たちは誰一人居なくなっていた。
 どこか遠くのスピーカーが、迷子の子供の話をしていた。

 ふと思う。律だったらこんなとき、うまく場を切り抜けられるのかな?
 いや……無理だったんだろうな。
 こないだ、梓から話を聞いたときもそうだったらしいし。

憂「……聞かないんですね、どういう“好き”かって」

澪「ごめん、律から聞いたんだ。それは憂ちゃんも知ってる?」

憂「その日に梓ちゃんから聞いたんです」

澪「……そうか」

 喉が瞬く間に乾いていく気がして、声もうまく出せそうにない。
 手に持ったポカリを口に持っていこうとするけど、それもしてはいけない気がして右手も動かせずにいた。
 なんとなく、左のポケットに入れた携帯電話に手を触れる。
 ほんの少し――液晶画面がやけに冷たく感じたけれど、すぐ私の汗で分からなくなった。

澪「梓の気持ちは、律から聞いてたよ」

憂「……澪さんも律さんも悪くないですよ」

 誰も悪くない。悪いって言う人が悪いんです。
 憂ちゃんはそう言い聞かせる。
 けど、それだと私たち全員「悪かった」ことにならないかな。
 梓が同性を好きになったことも、私たちがそれを止めたのも、憂ちゃんが応援したのも、
 唯が梓と同じ気持ちだったことも。

憂「それに、梓ちゃんの背中を押すかは私も迷ったんです」

澪「……気の迷い、男との出会いがないから勘違いしてるだけ、そのまま付き合っても世間はまず認めない」

 赤の他人は変わったものをすんなりとは受け止めない。
 「常識」はこの空の直射日光みたいに、驚くほど間単に異物を焦がしていく。
 それでもみんな、たとえば雨よりも晴れた日の方が――変わったものを簡単に焦がしてしまう日差しの方が「普通」だと感じてしまう。

憂「全部考えました。お姉ちゃんと梓ちゃんの将来のこととかも。もしかしたら、私と澪さんの立場が逆だったかもしれないぐらいに」

 そう、律や澪が応援して、憂ちゃんが反対してた場合もあったはずだ。
 というより、もし建前だけで押し通せたなら私たちの立場は逆になってたと思う。

憂「私は、お姉ちゃんに幸せになって欲しかっただけなんです」

澪「……私も律も、そんなところだよ」

 何が二人にとって正しい、正しくないなんて考えてもいなかった。
 私たちは二人して、自分の気持ちを否定しただけだ。
 梓に「常識」を浴びせて、自分たちだけ日当たりのいい場所に逃げたんだ。

澪「憂ちゃんはどうして唯を応援することにしたんだ?」

 話を変えようとする自分が嫌だったけれど、どうしても聞いておきたかった。
 憂ちゃんだって――傍から見ていても、唯に並々ならぬ感情を持っている気がしたからだ。

憂「和さんと話し合ったんですよ。お姉ちゃんの気持ちは本当なのか、って」

澪「和はなんて言ってたんだ?」

憂「……『それよりも憂、唯の気持ちを肯定したらあんたの唯への気持ちも危うくなるんじゃないの?』」

憂「って、言ってました」

 うわ……さすがに鋭いな、和は。
 私たちのことまで言われてる気がしたよ。

憂「ねぇ、澪さん」

澪「何?」


憂「……恋愛感情って、なんですか?」

澪「……ごめん。答えられない」

 答えられたら、最初から悩んでないよこんなこと。

 日差しが緩まっていることに気づいて、空を見上げた。
 いつのまにか雲がまた空を覆い隠していて、今にも雨が降り出しそうな天気だった。

憂「とにかく今はお姉ちゃんたちを探しましょう」

澪「そうだな。こう暑いと、唯の身が危ないかもしれないし。早く探さないと」

 それは、私や律の問題先送り宣言にも聞こえた。
 それどころじゃないを言い訳にして、何回逃げてきたんだろう?

澪「……とにかく、日差しも弱まってきたしそろそろ行こうか」


 そんな矢先、耳慣れない着信音が聞こえた。
 憂ちゃんの携帯だった。

憂「はいもしもし……えっ、純ちゃん? 今どこにいるの? ……ああ、おばあちゃん家だったんだ」


憂「……え? 梓ちゃんの行きそうな場所が分かるの?」

 えっ、見つかったのか?

憂「……うん、うん。わかった。この街ではあるんだよね? そう、たぶんそのこと言ってたんだと思う!」

 憂ちゃんの目が輝いていく。
 慌ててカバンからノートとペンを取り出し、憂ちゃんに渡す。
 これは……見つけたかもしれない!

憂「それじゃあ住所を――え? それは分からないの? あっちょっと電波が…」

 切れてしまったらしい。
 まただ、これじゃあ律の二の舞だ……。

憂「ごめんなさい、向こうの携帯だと思います……」

 でも、少しは進展があったみたいだ。
 あとはどうにかして鈴木さんに連絡を取れれば……

澪「じゃあ、律たちに伝えとくよ。そろそろ唯たちを助けてやらないといけないしな!」

 そう言って携帯を開こうとしたとき、今度は私にメールが入った。

 ……梓からだった。



【2010年08月15日 17:52/Nビル前】

律「澪、このビルだ!」

 数十分前のどしゃ降りが嘘のように晴れ出したころ、二人が閉じ込められてるらしいビルにたどり着いた。
 時々まだ遠くに落ちる雷の音に身をすくめながらもどうにか坂を上りきると、律が手を振っていた。
 律の横にはムギとさわ子先生。入り口に車が止まっているから、みんな先生の車で来たのだろう。

澪「言われたものは持ってきたぞ、早く行こう」

紬「ねえ、憂ちゃんは?」

澪「電波つながりにくいだろ? だから住宅街側で救急車呼んでもらうことにしたんだ。二人を確認次第、私がメールで憂に伝える」

律「とにかく急ごう、梓のメールを見る限りだと結構重傷みたいだぞ」

 私は真っ先にビル構内に入ろうとする――だが変なところでバランスを崩してしまう。

律「……大丈夫かよ、澪ー」

澪「二リットルペットボトルとか運んでみろ、誰だってこうなるよ」

 するとムギが「ちょっと貸して」と言うなり私のリュックサックを受け取って、軽々と背負った。

紬「さ、急ぎましょ?」

 ムギ、すごいな……。

澪「しかし暗いな……どうしたんだ?」

 懐中電灯を握りしめた私たちは三階まで階段で駆けあがり、エレベーターに向かった。
 条件反射的に「開」ボタンを押す――開くはずがない。

律「これですんなり開いたら笑うよな」

澪「そんなこと言ってる場合か!」

律「いてっ」

紬「ふふっ」

 思わずいつもの調子でつっこみを入れてしまう。
 でも、少し緊張がほぐれた。

さわ子「あんたたち、時間も気にしなさいよ…」

 キャンプ用電気ランタンをフロアに据えたさわ子先生が、あきれ顔で言った。


 ミーティングは三十秒で終わって、それぞれ位置に着く。
 さわ子先生とムギがドアを力技でこじ開ける。
 そこに小柄な律が入って、通気口から梓に指示を出す。
 私は荷物運びで疲れているからと、律の補助をすることになった。

律「澪、後ろから落とすなよ? ダチョウ倶楽部とかそーいうの求めてないからな?」

澪「ふざけてないで準備しろ」

律「わーかってるって」

 律はそういって部室から持ってきた懐中電灯を握りしめた。
 横には長いバールを持ったムギと先生。

さわ子「ムギちゃんいい? いくわよ」

紬「はい!」

 二人が力を加える。
 開かずの扉がこじ開けられた。
 すぐさま律が飛び込む。

 中では入り口三十センチ下の中途半端な位置に停止したゆりかごが一台。

律『いるのか?! 唯、梓、大丈夫か?』

 そう呼びかけたしばらく後、律が私たちの方に叫ぶ。

律「いた! やっぱ唯たちここだった!」

澪「そうか! じゃあ二人ともいるんだよな?」

律「ああ、いるいる。早く憂ちゃんに連絡してくれ。早い方がいい」

澪「わかった、行ってくる」

 そのまま飛び出そうとして――でも一瞬不安になって――振り返った。

律「なんだよ」

澪「律も、気をつけろよ」

律「わーってるって」

 笑顔で即答してくれた。
 私は今度こそ階段を駆け降りて電波の届く範囲に向かった。

 けれども外に向かおうとした矢先、メールが届く。
 電波状態が悪いせいで途中で切れてるものの、憂ちゃんから「救急車呼びました」って内容だとはわかった。
 安心して一息付き、きびすを返してエレベーターホールへと再度向かう。
 憂ちゃんも、いてもたってもいられなかったんだろうな。

澪「おい律」

律「うわ、なんだよいきなり?! 行ったんじゃなかったのか?」

澪「憂ちゃんもう呼んじゃったらしい、たぶんこっち向かってると思う」

律「お、ラッキーじゃん! あずさー、救急車早く来るってよ?」

梓『そうですか、じゃあこっちもそれまでがんばります!』

 今日初めて聞けた梓の、少なくとも無事そうな声。
 ……涙が出そうになった。

 それからしばらくの間は応急処置も順調だった。
 私が処置内容を律に伝えて、律に照らされた梓が唯に手当てをする。
 停電状態で暗く暑い中だったけれど、律やムギたちと話しながらだったから気にならなかった。

律「ってか澪ってひどいと思わねー?」

澪「なんだよいきなり」

律「だって『一番小さいのお前だからお前が入れ』とかって言ったんだぜ」

澪「そんなこと言ってる場合か!」

律「じゃあ澪が入れば? あっそれとも澪ちゃん暗闇が怖いとか――いだぃいだい!」

 ふくらはぎをつねってやった。


 憂ちゃんがエレベーターホールに着いたのはその頃だ。

憂「みなさん、救急車呼んできました!」

律「おーおかえり憂ちゃん! 今、澪が私の足つぼマッサージを――」

 ぎゅっ。

律「いだいいだいって!! ……悪かったよぉ、みおー」

澪「お前はいい加減懲りろ。で、救急車は――」

 憂ちゃんは呼びかけた私にわき目も振らず、エレベーターの中に向かって叫んだ。

憂「お姉ちゃん! 大丈夫なの!?」


 私たちの声なんて聞こえもしない様子の憂ちゃんを、潜り込んだ律がどうにか抑える。

律「よしよし、唯は無事だから。っていうか二人入るとエレベーター動いたらヤバいから」

憂「あ……すいません」

律「あっ憂ちゃん、救急車の方はどうなった? どのくらいで来るんだ?」

憂「それが……さっきの停電のせいで事故があったらしくて、ちょっと時間かかるらしいんです」

 時間が掛かるって……こっちだって、一刻を争う事態なのに!

憂「あっあの、二人はどうなんですか?!」

律「唯はいま梓に介抱してもらってるとこ」

 それでも憂ちゃんは落ち着きを取り戻せずにいた。
 あれだけ大切にしてた姉の一大事だ、無理もない。
 このままではエレベーター内に突入しそうな勢いの憂ちゃんを、律がどうにか諭す。

律「大丈夫。大丈夫だって、私たちがなんとかするから」


 憂ちゃんもいったんは引いたものの、やっぱり中が気になってしょうがないようだった。
 何もすることがない、何もしてやれないって状況に耐えられなくて、ずっとそわそわと動いていた。
 携帯電話を開いたり閉じたり、階段の方に向かって救急車を探しては戻ってきて、
 残ったポカリスエットのペットボトルを出したかと思えばしまう、そんな調子だった。

憂「梓ちゃん! 聞こえるー?!」

梓『全部聞こえてる、いま応急処置してるとこ!』

憂「ねえ梓ちゃん、ほんとに大丈夫? 霧吹きは使ってる?あっヒヤロンはタオルに巻いて当ててね、あといきなり――」

梓『律先輩から聞いてるよ』

憂「……そんな、でも」

 ――大丈夫だから。

 梓はたった一言、憂ちゃんにそう言った。
 水面にぽとりと落ちた滴のように心の中で梓の声が反響する。
 芯の通った、結晶のように透明なその声だけで、たったその一言だけで本当に大丈夫に思えてしまった。

梓「……憂、私たちは、大丈夫だから。」

 私はこの梓の声を一生忘れないと思う。
 いつか、歌詞として書きとめようと決めた。

憂「で……でも!」

 簡単には不安を消せない様子の憂ちゃんが、なおもすがる。
 唯に似て大きな瞳に浮かんだ涙をこぼさぬように、下唇に力をぎゅっと込めた顔で。
 公園のベンチで話した時もこんなような顔をしていたけれど「お姉ちゃんが見つかるまでは」と気丈に振舞っていた。
 でも……憂ちゃんにはもう限界だったんだと思う。

 律がそんな姿を見かねて、憂ちゃんに言った。

律「憂ちゃん、ここは梓を信じよう」

 伏せられた二つの目から涙があふれ、すぐにしゃくりあげるほどになってしまった。

律「ほら、もう夕方だしさ。これ以上暑くはなんないよ」

憂「そう…です、ね」

 涙声になりながらも憂ちゃんは頷いた。
 これ以上暑くならなければいい、心からそう願った。

憂「梓ちゃん、お姉ちゃんを頼んだよ」

 涙声で、でも閉じ込められた梓にも聞こえるように憂ちゃんははっきりと言った。
 非常階段のほうから見える空は赤く染まり、すでに昼間の暑さは過ぎ去っていた。
 熱気を伴って吹いてくる風も、少しだけ涼しく感じる。

 よし、あとは救急隊が来るのを待つだけだ――


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最終更新:2010年08月28日 20:36