胸をなでおろそうととした時、急に非常口の誘導灯に電気が点った。
ついで廊下の照明、エレベーターの階数表示、さらには非常階段の照明が次々と瞬き、点いていく。
これは――停電が直ったってことなのか?
律「わっ……まぶし」
どうやらエレベーターの室内照明も点いたらしい。
不意打ちで強い光を浴びた律が目をくらませる。
澪「律、停電が直ったみたいだぞ!」
律「う……それはよかった、梓たちも暑さから解放されるのか?」
えっ……それじゃありっちゃん、そこに居たら危ないんじゃない?
横でムギがそう言ってたけどそんなこと気にならなかった。
憂「じゃあ……もう少ししたら救急車来るんですよね? お姉ちゃん助かるんですね!」
憂ちゃんが泣き顔のまま、喜びの声を上げる。
これで――唯も梓も助かる。一安心だ。あとは救急隊に任せよう。
律も膝を折って身体を引きずるようにして、エレベーターの天井裏から這い出ようとした。
律「じゃあ梓、私はいったん澪のもとにもど
その瞬間。
つんざくような破裂音がした。
とっさに身をすくめ、しゃがみこむ。
耳を刺すような悲鳴。
顔を上げると――エレベーターから出た下半身が痙攣を起こしていた。
澪「律?! 律、おいどうしたんだよりつうっ!!」
さわ子「澪ちゃん、エレベーターから離れなさい! あんたも危ないわよ!?」
澪「えっ…えっ、どういう――」
さわ子先生はすぐに持っていたバールをエレベーターホールに投げ捨てた。
そして床に当たったバールが金属音を立てるよりも速く左足で律の身体を蹴りつける。
小さな背中が扉の中から転がり出る。それからすぐに靴を持ってホールの真ん中まで引きずり出した。
紬「せ、先生?! りっちゃんに何を――」
さわ子「いいからムギちゃんも離れて! 感電するわよ」
か…感電?
律が? エレベーターで、感電?
梓『皆さん、いったい何があったんですか?! 答えてください!』
扉の向こうで梓の声が聞こえる。
でも、ムギと先生というストッパーを失ったドアは少しずつ閉まっていく。
やがて梓の声も鉄の扉に遮られる。
憂「お…お姉ちゃんがまだ中に!」
閉じていくドアに駆け寄ろうとする憂ちゃんをムギが捉まえ、抱きしめる。
紬「ダメ! 今行ったら憂ちゃんも危ないの」
憂「でも……おねえちゃんが、お姉ちゃんがしんじゃう! はなして!!」
紬「――憂ちゃん!!」
乾いた音がした。
ムギが…憂ちゃんの頬を、平手で打った。
紬「……ごめんね、ごめんなさい、憂ちゃん」
ムギは憂ちゃんの頬をさすり、もう一度しっかりと抱きしめる。
憂ちゃんのすすり泣く声がした。
そのすぐ前ではさわ子先生の腕の中で、気を失った律が横たわっている。
澪「あっ……え、その……やだ……」
やだ、いやだよ。
なんでこんなことになってるの?
澪「りつぅ……りつう!」
さわ子「あっちょっと澪ちゃん落ち着いて――」
律は目を覚ましてくれない。
私は何度も律の身体を揺さぶる。
律は笑ってくれない。
誰かが律にしがみ付く私を抑えようとしている。
律は、私の名前を――
澪「りつ、起きろよ、おきてよ…もうこんなのやだよ!!」
顔が熱くなって、目に涙が溜まってくのが分かった。
私は動かない律を抱きしめて、泣きじゃくっては祈った。
何もできない子供みたいに、ひたすら心の中で唱えた。
神様…。
神様、どうかお願いです。
律を、唯を、梓を……お助けください。
ムギや憂ちゃんに笑顔を返してあげてください。
神様、どうかお願いです。
みんなをこれ以上苦しめないでください――と。
【2010年08月15日 18:52/Nビル構内】
がこん。
室内照明がついた時に浮き足立った心は、ついさっき天井裏でドアの閉まる音と共に叩きつけられた。
一瞬出られそうだと思ったのに私たちはまた閉じ込められてしまう。
とはいえぽっかり空いた通気口の分だけ、新鮮な風が届いている。
手すりに足をかけカバンをぶつけてまでこじ開けた甲斐は確かにあった。
通気口に携帯を掲げれば、まれにメールの送受信ぐらいならできると分かったのが大きい。
もっとも最初に思いついたのは唯先輩だったけど、先輩はすぐバランスを崩してしりもちをついてしまった。
そんな唯先輩は今、危険な状態にあった。
顔を赤らめ、意識も定かじゃない状態で、うわごとをあえいでいる。
熱中症で間違いなかった。
睡眠不足も祟ったんだと思う。
下着姿の彼女に霧吹きでミネラルウォーターを浴びせる。
カバンから引っ張り出した教科書であおぐ。
……そうしていると唯先輩の口元に、わずかな笑みが生まれる気がするのだ。
密室の熱気の中でその微かな笑みは、小さな氷菓子のように私を勇気付けてくれる。
がんばらなきゃ。唯先輩は私が守るんだ。
私は応急処置を続ける。
発症したのは四時半を過ぎた頃だ。
一時前辺りから急に室内が暑くなってきて、みるみる熱気に満たされていった。
はじめ「あずにゃん室温下げてー」なんてはしゃいでいた唯先輩も、三時過ぎぐらいからみるみる元気をなくしていった。
そして四時過ぎ、澪先輩へのメール送信が成功して喜んでいた矢先……急に唯先輩が倒れてしまう。
通気口からのメール送信で頭が一杯だった私は、唯先輩の顔色の変化に気づいていなかった。
最初の失神は数秒程度だったけれど、次第に私の言葉にも反応しなくなった。
そうして五時を過ぎる頃には気を失ったような状態になってしまった。
律先輩の助けが来るまで水分すらなかった。
だから、せめてと唯先輩のシャツを脱がして下着姿にしてあおぎ続けた。
今も膝元に、唯先輩をあおぎ続けた数Bの教科書がある。
背表紙が指の汗で湿って破れてしまっている。
ちなみに、スカートの方は二時ごろには脱いでいた。
いま私が着ているのがそれだ。
これについては……やっぱり忘れとこう。うん。
汚れた私の下着についても、見ないことにする。
唯「……っ・・・・・ぃ…・・・・・・s……」
首元にヒヤロンタオルを当てると、かすれた声で何かをつぶやいた。
少し微笑んでいるように見える。
もしかしたら、夢の中でアイスか何かと勘違いしたのかもしれない。
そんな場合じゃないのにちょっとほっこりした気分にさせられてしまう。
唯「…ぁ・・・・・ん……」
……名前を呼んでくれてる、のかな?
うん、そういうことにしとこう。
夢の中にも私がいてくれたら、そんなにうれしいことはないし。
もう十時間近く閉じ込められているから、唯先輩とはいろんな話をした。
ギター。軽音部。勉強。好きな音楽。昔書いた将来の夢。好きな食べ物。
聞けば聞くほど唯先輩のいろんな一面が知れて、私はますます惹かれていった。
話せば話すだけ唯先輩は私に興味を持ってくれて、それがとても心地よかったんだ。
たしかに、朝に屋上で唯先輩と気まずい雰囲気になったときはどうなるかとは思った。
実際は唯先輩がすぐに不安を取り去ってくれたんだけど。
いろいろ話していったら、二人で土手に行った日のことへと話がおよんだ。
七月部活最後の日の夕方、先輩たちは次の日から夏期講習。
……私もあの日は変にアンニュイになってたんだと思う。
唯『はいあずにゃん、ここで問題です! 私がそのとき食べたアイスは次のうちなんだったでしょーかっ』
梓『なんですかそれ!』
唯『いち、バニラバー! に、・・・・・・えーっと、なんにしよっかな』
梓『選択肢は考えてから出題しましょうよ?!』
そんな、たわいもない話だったのに。
唯『ねぇあずにゃん。……なんであの時、抱きしめてくれたの?』
言えなかった。
さすがに、本当の気持ちなんて。
ちょっと前から憂には応援されていたけれど、律先輩の言い分ももっともだったから。
梓『……たまには、そういう気分になったってだけですよ』
唯『あんなに泣いたのに?』
梓『えっと…部活が終わって先輩たちと離れるんです、そりゃ泣く子もいるんじゃないですか?』
唯『あの日もいろんなこと話したよね。今までの日々が夢だったらどうしよう、とか』
梓『そうでしたっけ』
唯『あずにゃん。なにか悩みあるんだったら、遠慮なく言ってね?』
梓『その言葉だけで十分うれしいですよ』
唯『……えへへ』
そんなの、言えるわけないですよ。
あなたへの気持ちが、すべての悩みの原因だなんて。
唯先輩の気持ちも、分かってないわけじゃなかった。
私一人で抱えてた時はうぬぼれだと思い込ませてたけど、憂も律先輩もそうだと言ってくれた。
律先輩は私たち二人の様子から自然と察してくれて、話を聞いてくれた。
律先輩が知ってるぐらいだから、澪先輩も考えていてくれたんだと思う。
そして私の唯先輩への想いを全部聞いてくれて、けれども律先輩はこんな話をした。
律『やめといた方がいいって。梓たちのためを思って、とか私にえらそうなこと言えないけどさ』
梓『そんな……女性が女性を愛することって、そんなにおかしいんですか?!』
律『おかしくねーよ。私は、唯とお前ならすごくお似合いだと思う』
梓『でも、じゃあなんでですか!』
律『……昔話、していい?』
律『澪って昔っから人付き合い苦手じゃん? 小学校のときとかクラスにあんまなじめてなかったわけよ』
梓『やっぱり澪先輩の話なんですね』
律『うるせー、昔話って言った時点で覚悟しとけ。んで澪のやつ、友達になりたての頃とか二年ぐらい私にべったりで』
梓『うわあ……のろけ話ですか』
律『なっ…ちげーっての!』
あの頃の澪かわいかったなー、なんて遠くを見つめて言う律先輩が素直にうらやましかった。
自然に友達と喋れるようになったのはここ最近だから、幼なじみってほどの友達もいないし。
律『でもべったり過ぎてからかわれたりしたんだよね』
梓『へぇ。それで助けてあげたみたいな、ちょっといい話系ですか?』
律『あっそっち聞きたいー? じゃあ私がクラスの男子三人をまとめて――』
梓『いや結構です』
律『ちぇ、つれねーなぁ梓は。 ……でさ、からかわれてたんだよ』
梓『なんてですか?』
律『あきやまみおはネクラなレズ女だって』
思わず、コップに残っていたラムネをいきおいで飲み干した。
冷たい気泡で胸の奥のくすぶりを洗い流そうとしたのかもしれない。
律『いやー、小学生って残酷だよなー。言葉の意味もよく知らないで、平気で人にレッテル貼る生き物だもん』
梓『それは……そうですけど。でもその話がしたかっただけなら、もっと短くまとめてくださいよ』
律『じゃあまとめる。誰だって知らない相手のことなんか、レッテルしか見ないってことだよ』
梓『……それぐらい知ってます』
律『あと、澪はその時に「友達やめよう」って言ってきた』
梓『えっ……なんでですか?』
律『いっしょにいるとりっちゃんまでいじめられるから、だーってさ』
一緒にいると、唯先輩まで。
……ただの昔話として受け取ることは、どうしてもできなかった。
律『友達が梓を見る目も変わるだろうし、唯だって同じだ。』
梓『……私は、別にいいですけど』
でもその苦しみに自分たちを置くのは、まだ早いと思う。
そう言って律先輩は話を切り上げた。
私は何か反論しようとしたけれど、結局できなかった。
律先輩を説き伏せたって、世間の何一つ変わらないことも知っていたから。
律先輩と話した日の夜、自分の気持ちを抑え込もうと決めた。
でも次の日――土手で唯先輩と話したときに一度気持ちが爆発した。
部活が終わったら会えなくなる。
卒業したら会えなくなる。
私は唯先輩の中で思い出の人になって、過去に押し込められて、やがて忘れてゆく人になる。
そう思ったら……たまらなくなって、思わず逃がさないようにと抱きしめてしまった。
腕の中に、閉じ込めてしまった。
あの日の夜は唯先輩が家まで送ってくれた。
本当はすぐ別れようとしたのに唯先輩は最後まで私のそばから離れてくれなかった。
やわらかく手を握られて、いとおしさがこみ上げて、私もからめた指を引き剥がせなくて。
冷え切らない夕方の空気に時々吹く風が心地よくて、
なんとなくぎゅって握ったら握り返してくれて、
内緒でほんの少しだけ歩くスピードを落としていたのは、気づかれていたのかな。
家に着いても、私が玄関を開けて入るまで手を振っていてくれた。
すぐに自分の部屋から憂にメールで助けを求めたのを覚えてる。
後にエレベーターの中で先輩は言った。
唯『だって…あんな顔されたら、あずにゃんを見捨てられないよ』
梓『…私ってもしかして、顔に出やすいですか?』
唯『わかるよぉ、あずにゃんのことだもん!』
昔から「中野さんは考えてることが分からない」って言われてきた私にとって、それはみずみずしい驚きだった。
前に学校で純から言われた「梓って変わったよね」って言葉も、実際はそういう意味なのかもしれない。
次の日すぐ、憂は時間を作って私の家に駆けつけてくれた。
それから唯先輩についていろんな話をした。
まじめにやってくれないとか。つかみどころがないとか。すごいのかすごくないのかわからないとか。
抱きしめてくるのがはずかしいとか。それでも唯先輩のことばかり考えてしまうとか。
そしたら憂にも「本当に好きなんだね」って笑われてしまった。
……唯先輩のことだったら、人のこといえないと思うんだけどな。
気持ちを押さえ込むことに決めた、そのことも憂に話した。
本当は憂からも諦めるきっかけの言葉が欲しかったから。
もし唯先輩のことを誰よりも見ている憂が、唯先輩から私への気持ちを教えてくれたら、すっぱり諦められるかもしれない。
嘘でもいいからそんな言葉を聞こうとした。
でも憂は、そんな私のことを応援してくれた。
憂『これから先、ほんとに付き合ったらいっぱい傷つくと思うよ。相手が男の人だったとしても変わらないけど』
梓『うん、わかってる。付き合うってそういうことだよ』
憂『それでも、お姉ちゃんと付き合っていけるなら……私は梓ちゃんに、お姉ちゃんを幸せにして欲しいって思うな』
梓『私に、できるのかな?』
憂『梓ちゃんならできるよ。だってお姉ちゃん、梓ちゃんにそうされたがってるもん』
憂は笑って応援してくれた。
自分の気持ちは一言も言わずに、ただ私の背中を押してくれた。
だからせめて――諦めるとしたって、気持ちだけは伝えようとしたのだ。
どこでもいい。
短い時間でもいい。
唯先輩とふたりっきりになれる場所で、気持ちを伝えよう。
そう思って、二人で会う約束をつけた。
勉強の気晴らしに、憂のお願いで……そんな言い訳をたくさん用意してたのに、
唯先輩はすぐ私たちの約束を「デート」と名づけてしまった。
あの時、唯先輩が日の出の街を見たいなんて言わなければ。
私がこんなところを選ばなければ。
地震が起きたりしなければ。
……私たちは、普通に別れてしまえたんだろうか?
最終更新:2010年08月28日 20:38