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 膝に横たわる唯先輩に目を落とす。
 水分補給や応急処置のおかげで少しは苦しそうな表情も薄れたようだった。
 なんとなく唯先輩の汗に濡れた髪をなでてみる。
 抱きしめたい衝動に駆られて、思わず手を離す。
 そろそろ助けが来るだろう。そしたら何とかなるはずだ。

 もちろん、こんな目には二度と遭いたくない。
 けれども同時に一日じゅう唯先輩と過ごして、打ち解けあえた日でもあった。

「このまま出られなくてもいい、二人だけの世界に閉じこもっていたい」
 唯先輩が倒れるまで、私は何度もそんなことを考えてしまっていた。
 どこまで本気か分からないけれど、唯先輩もアイスとギー太と私がいればいいなんて言ってたっけ。

 だから熱中症は神様から私たちへの罰だったのかもしれない。
 あるいは、警告。
 二人きりの世界にいたら、熱にやられてしまうとか、そんなような。

梓「ゆいせんぱい、おみずのみましょうか」

唯「・・・ぅ・・・・…・・ぁ・・……」

 ポカリスエットのキャップを外して、唯先輩の頭を少し上に向ける。
 ペットボトルが結露と汗で濡れていて滑り落としてしまいそうになる。
 口元とあごに指を添えて、やわらかい下唇を人差し指で開く。
 そして半透明な水を、喉につまらないよう少しずつ少しずつ流しこんでゆく。

 口の中に冷たい水が注がれた時、唯先輩のまぶたがぴくっと動く。
 ほんの少し眉をしかめ、それから元のように力をなくした。
 私は一瞬手を止めたけれどまた少しずつ水分を唯先輩に注いでいった。

 この水がどうにか内側から身体中に行き届いてほしい。
 そうしたら熱にやられた唯先輩を、身体の奥から冷やしていってくれるだろう。
 少しずつ少しずつ、口からあふれないように。
 ゆっくりと喉を鳴らすのにあわせて、いたわるようにこの水を身体に入れていく。

梓「…ゆいせんぱい」

唯「……・・・・…」

梓「…あいしています」

 小さく音を立てて喉が少し膨らみ、水が飲み込まれていく。

梓「いっしょに、外に出ましょうね」

 閉じられたまぶたが少しだけ細められた、そんな風に見えた。



 がこん。
 また天井裏から音が聞こえたかと思ったら、すぐにドアの開く音がした。
 ざわつく男の声。すすり泣き。……あれは憂だろうか?

男「救急隊です。負傷者の方はこちらですか?」

 通気口から顔をのぞかせた四十歳ぐらいの救急隊員に呼びかけられた。

梓「はい……はい! えっと、唯先輩が――」

 他人の声を今日はじめて聞いたせいで、うまく反応できない。
 さっきの律先輩のことがあって、助けがきたという実感もまだ追いつかない。
 とにかく唯先輩の熱くなった身体を抱き起こす。
 思わず起こしたせいか、かすかなうめき声が上がる。

男「では我々がそちらに向かいます。ちょっと足元空けてもらっていいかな?」

 慌てて唯先輩を連れて荷物を向こうに押しやると、すぐに通気口から二人の隊員が降り立った。
 瞬く間に唯先輩は救急隊員に背負われ、通気口から救助される。
 助け出されていくところはあたかも映画の救助シーンのようで、どこか実感が湧かないままだった――。

 それから先のことは、よく思い出せない。
 私も救助隊から助け出された頃にはすぐ倒れこんでしまったせいだ。
 昔テレビで見た歓楽街の喧騒のように、脱出した直後の記憶はあやふやだ。

 気づくと私は白いベッドの上で、右腕には点滴がつながれていた。
 あのエレベーターに比べると病院の真っ白な天井はやけに高い。


梓「あれ……どこ」

 お母さんが飛び起きて涙ながらに私を抱きしめてくれた。
 普段忙しいはずのお父さんも仕事着のままそこにいて、目を覚ました私の手を強く握った。
 私はそこで、最近お父さんやお母さんの体に触れてなかったなあ、なんて見当違いなことを思う。
 助かったと実感できたのは、お母さんやお父さんの泣き顔につられて自然と嗚咽がこみ上げてきてからだった。

 ――唯先輩は、大丈夫なんだろうか?




【2010年08月15日 22:17/桜ヶ丘記念病院】

 待合室の壁はやけに冷たくて背中から熱を奪われていくような感覚を覚える。
 左手に汗がにじむほどiPodを握って、イヤホンから私たちの演奏を流す。
 気持ちを落ち着けるために流したのに、かえってみんなのことで頭が一杯になった。

 唯の声、梓のギター。私のベースとムギのキーボード。そして、律のドラム。
 一つとして欠けては生まれない奇跡をmp3に閉じ込めた、宝物の曲だ。
 私は受験勉強や人間関係で悩むたび、何度も聞き返しては。
 唯たちが事故に遭って不安な時も、頭の中で流れるメロディが安心感を生んでくれた。

 でも、今の私はいつものようにバンド演奏をまともに聞けそうもない。
 ドラムの強弱ばかりを耳で追ってしまって、他の楽器が聞こえないほどだったから。

 ……唯、大丈夫かな。
 これから先、ギターが弾けなくなるなんてことは……だめだ、そんなこと考えちゃ。
 梓だって、助け出された直後に気を失ってしまった。
 二人に何かあったらと思うと不安でたまらなくなる。

 私がこんな思いにとらわれた時、律はいつだって助け出してくれた。
 茶化して、愚痴って、それでも誰よりも分かってくれていた。
 それなのに――神様は、その律まで傷つけてしまった。

 頭の中に元気だった律の姿を浮かべる。
 バスドラの重低音や軽快なスネアはそこに陰影や確かな存在感をくれる。
 ハイハットやシンバルの強い響きは、私に話しかけてくる律の声を思い出させる。
 演奏する姿を浮かべて、元気な律がそばにいるように考えて、それでどうにか自分を保つ。

 だから、音楽が終わってしまうのが怖かった。
 曲が終わる寸前に止めて、冒頭に戻して再生する。でなければ曲が終わらぬうちに次の曲に進む。
 落ち着きなく親指を動かし、演奏を反芻しては律にリアリティを与えていく。

澪「りつ…大丈夫、だよね……離れないよね……やだよ、りつぅ…」

 iPodを握る手に力がこもって、また涙が抑えられなくなる。
 律のママもパパも、病室に入ったまま出てこない。
 最悪の結末ばかりが脳裏にちらつく。

 ふと、律の家で外国の恋愛映画を見たあとのことが頭に浮かんだ。
 人種差別を超えた愛が引き裂かれて、密告されて、女が連れ去られるんだけど男の自己犠牲で助ける、みたいな映画。

  律『でもたまにあこがれねー? 私が誰か助けて死んで、残った澪が私の死を乗り越える的なさぁ!』

  澪『なんで私なんだ。っていうか、律が死んだら元も子もないだろ』

  律『えーでも全米泣くって絶対! 「私は、律の死を乗り越えて生きていくからね……うるうる」、みたいな!』

澪「……やだよ。ぜったい、やだそんなの…!」

 ふざけるな。私は律のいない世界なんて乗り越えたくもない。
 だから……お願いだから、元気で帰ってきてよ。
 私はiPodのボリュームを上げて不安をかき消そうとしたけれど、ついに消えてくれなかった。



 ちょうど二十四時間ぐらい前、律から電話が掛かってきた。
 そのとき私は今日やるはずだった勉強会ではやれないような、辞書引きとか英作文の確認をしていた。

  律『澪。これが、俺たちの最後の電話になると思う。だから…一言だけ、聞いてくれないか』

  澪『あの映画かよ……で、お前は何して捕まった設定なんだ』

  律『――月曜の英文法の練習問題、答え持ってない?』

  澪『もったいぶって言う台詞か! 切るぞ』

  律『あぁん待ってみおー! 答え失くしたのもそうだけどさ、他に話あるんだってば』

  澪『先にそっちから言えよな…』

  律『唯と梓の話なんだけど』

 律の声のトーンが変わって、私もベッドで少し身構えた。

  澪『ああ……あの二人、なんか進展あったのか?』

  律『結局コクるみたいだぜ? 梓の方から』

  澪『そっか…』

  律『たとえ付き合えないとしても想いだけは伝えたい、んだってさ。妬けるねー』

  澪『……なんかあの映画みたいだな。付き合えない運命とか』

  律『超思った』

 私と律はあえて他人事のように、大事な友達と後輩の恋路について語った。
 唯の気持ちははっきりとは分からないけれど……唯だったら受け入れそうな気がする。
 でももし付き合うことにしたらどうなるのか。
 クラスメイトたちの唯に対する見方はどう変わるか。

 小学校のとき、律にくっついてばかりの私がからかわれたのを思い出す。
 あの時のような幼稚ないじめが起きるとは思わない。
 ただ……唯たちが避けられるような予感は、その時もしていた。

 律は二人の未来を一番悲観的な形で語る。

  律『唯がうれしくて言いふらすだろ。そしたら二人とも変な目で見られるだろ』

  澪『うん』

  律『そしたら梓辺りが変な風に言われだしてさ』

 小学校の教室。捨てられた上履き。机の落書き。
 嫌な思い出ばかりが頭をよぎる。

  澪『……唯が「私のせいだから」って別れを切り出す、と』

  律『でも絶対受け入れないよな。梓も変に頑固だし』

  澪『揉めるよな、絶対』

  律『そうはしたくないよな…』

 私たちはあくまで唯と梓の未来予想図として話し続けた。
 でも、二人とも「本当は誰の、なんの話をしているか」なんて分かってたんだ。

 だから……あんな話になってしまった。


 その時、心の奥で冷たい嫌なものを感じた。
 枕のかどを反対の手で握り締めてみたりして気を紛らわす。

  澪『……なぁ、律』

  律『なんだよ』

  澪『正直な話、律は女の子同士が付き合うことを……本気で反対してるのか?』

 沈黙。耐えられなくて、つなぎの言葉を探す。
 つかえたものを吐き出すようにして言葉を繋げる。
 そしたら今まで封じてたことまで口から出てきてしまった。

  律『……なんでそんなこと聞くんだよ』

  澪『……例えば…例えばだよ? 私が律のことを好きで――』

  律『ああもうやめやめ! ってかそんなんふつー気持ち悪いでしょ、女同士でいちゃつくのなんてさあ!』

 急に大声を上げられて、身体が震えた。
 「気持ち悪い」って律は言った。
 うかつに近づこうとした私を遠ざけるために、「気持ち悪い」とまで言わせてしまった。

  律『……ごめん、言い過ぎた。気持ち悪いとか、別に思ってねーし』

  澪『分かるよそれぐらい…何年の付き合いだと思ってるんだ』

  律『…だよな』

  澪『律、ごめん』

  律『なんで澪が謝るんだよ。っていうか、もういいだろこの話』

 このときも、小学校のことを思い出してしまった。
 律が私をからかってた男子たちに蹴りを入れて、手を引いて私と逃げた日のこと。

 昨日のあの時も手を差し伸べていたんだ。
 その手は、問題から逃げるための言い訳だったけれど。

  澪『あのさ、律』

  律『なんだよ。もう寝るから私』

  澪『私さ、律のこと――』


  澪『――大事な友達だと思ってるからね。それじゃ』

 私はまた、律の手にすがってしまった。


 気づいたら曲の再生が止まっていた。
 昨日のことを思い出しているうちに時間が経ってしまったらしい。
 携帯が光ってるのに気づいて開く。十時四十分。
 ママからのメール。「今日はもう遅いから、そろそろ帰ってきなさい」って。
 十一時過ぎには帰るとメールして、充電の切れそうなiPodをしまった。

 そういえば、この携帯電話も律とおそろいのやつなんだ。
 中学二年の冬の定期試験で二人ともいい成績取ったら携帯とMDプレイヤーを買う。
 ママとそう約束して、二人で勉強がんばったんだっけ。

 私のMDプレイヤーは壊れてしまったけれど、律は未だにあれで音楽を聴いている。
 もう角の塗装がはげて、時々音飛びもする。……律の扱いが悪いからだ。
 次の誕生日プレゼントはiPodにしようって、決めてたのに。

澪「律……私、りつのこと、本当に・・・・・」



律母「あら、澪ちゃん? ……まだいたの?!」


 いつの間にか病室から出てきた律のママに話しかけられて、少し動揺する。
 化粧もせずに飛び出したらしいその顔はまだ涙で崩れていて、目が真っ赤になっていた。

澪「あ……お母さん、あの――律は、律の具合はどうなんですか?」

律母「……澪ちゃん。行って顔見せてあげて」

 病室の方を指差した。
 すぐに飛び出そうとしたけれど……ダメだ。足がすくんでしまう。
 もし……もし、律がどうにかなっていたら?
 私の気持ちも、私の声も、何一つ届けられなくなっていたとしたら?

 怖かった。
 怖くて、なにかにすがりたくて、動けなくなりそうになる。

 そんな時。
 数時間前に聞いた梓の声が頭に響いた。

 ――私たちは、大丈夫だから。


 昨日の放課後、梓と別れた時の不安げな声とはまるで違っていた。
 梓はあの時――あの極限状態のなかで、本当に覚悟を決めたんだ。
 唯を助けよう、唯と共に生きのびよう、と。
 あの声は私にも勇気をくれた。

 私だって、律の手に頼り続けてるわけにはいかないんだ。


 行かなくちゃ。
 立ち上がると、さっきまで動けそうもなかった身体がすっかり軽くなっていた。
 少しとまどってふらつきながらも、律の病室へと駆け寄る。


 金属製の冷えたドアノブを握りしめて、深呼吸。
 はやる気持ちを落ち着ける。
 もう、逃げない。
 そしてできることなら……律に、今度こそ誰にも頼らず伝えるんだ。

 ドアノブがすっかり手の熱で温まった頃、私は病室のドアを開けた――。


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最終更新:2010年08月28日 20:39