律「……ん? おぉー澪まだいたんだ」
……え?
律「なぁーにそんな変な顔してんだよ! 私がどうかしたか?」
ベッドの上でカチューシャを外した入院着の律が、変わらない笑顔を向けていた。
うそ……夢、じゃないよな?
律「あっそだプレイヤーと携帯壊れた! みおー、退院するまでiPodかしt――うわっ」
駆け寄った。
抱きしめた。
腕の中で、身体の感触を確かめる。
ほんとに律だ……律は、無事だったんだ――。
たくさん言いたいことがあって、いろいろ責めたくて、
伝えたいこともあって……だけど、涙声はぜんぜん言葉にならなかった。
でも……本当にうれしかった。
律「ごめんなー、澪。心配かけちゃってさ」
どうしようもなく泣きじゃくる私の髪を、律はそっとなでてくれた。
澪「りつ…どうして? 体はだいじょうぶなの?」
いや、それがさあ――。
そう言って取り出したのは、焦げ跡のついたMDプレイヤーと、おそろいだった携帯電話。
律「ほら私、プレイヤー胸ポケットに入れっぱなしだったじゃん?」
澪「いまそんな話はしてないよ…」
律「そしたら携帯とプレイヤーの方に電流が通電して、心臓とかへの直撃が避けられたんだってさ」
澪「うそ…」
律「あれで右腕の火傷だけって奇跡の生還だよな! もう私アンビリーバボーとか出れんじゃね? あはっ」
映画みたいな話だよな、律はそう言って笑ってた。
私はまだ気持ちが抑えられなくて、ずっと律を抱きしめ続けた。
律「ってかさ、澪のおかげだよ。澪のじゃなかったらプレイヤーとっくに捨ててたもん」
ありがとうな、澪。
そう言って律は私の髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。
律。
私、律のことだいすきだよ。
律「……目、真っ赤になってるぞ。ティッシュあるから顔拭いとけよな」
私がそう言ったら、律は照れたように顔をそらした。
でも、私が泣き止むまでずっと抱きしめた腕は離さずにいてくれた。
◆ ◆ ◆
またまたかえりみち!
律「じゃあ私らこっからバスだから、そろそろなー」
唯「りっちゃん澪ちゃんまたね!」
澪「唯、明日の勉強会は遅れるなよ?」
唯「だーいじょうぶだって! 憂がちゃんと起こしてくれるもんっ」
梓「そこは自分で起きましょうよ!?」
紬「まぁまぁまぁまぁ」にこっ
梓「唯先輩、みなさんってこれから毎日勉強会なんですか?」
唯「そうだよ、だって受験生ですもん!」ふんすっ
梓「…わき目もふらず、ギターにもさわらず?」
唯「うっ…ギー太は、まあちょっとは夜中にかまってあげたりしてるかなぁ…えへへ」
梓「はぁ…そんなことだろうと思いましたよ」くすっ
梓「…そうそう唯先輩、ちょっと寄り道していいですか?」
唯「いいよ~。どこに?」
梓「川の方いきましょうよ。ゆいあず練習したとこです」
唯「そうだね! ・・・・ってもうここ土手じゃんっ」
梓「いつの間に着いたんでしょうか…」
どて!
梓「ずいぶん涼しくなりましたねぇ」
唯「昼間はすごかったのにねぇ。私、あまりの暑さにおかしくなっちゃうかと思ったよ」
梓「唯先輩、暑いの苦手ですもんね・・・・・あ、おみずのみましょうか」
唯「おぉ~ポカリ! やっぱ夏はこれだよねぇ」
梓「アクエリより甘くて好きなんでしたよね。はい」
唯「ねぇあずにゃんのませてぇ」
梓「なっ…はずかしいことさせないでください!」
唯「でも、ここ私たちしかいないよ?」
梓「もっもう……しょうがないですね、今回だけですよ?」
なんと、お願いしたら本当に飲ませてくれました!
あずにゃんの膝に私の頭を乗せると、指でそっと私の唇を開いてポカリをちょっとずつ飲ませてくれます。
なんだか普通に飲むより身体中に冷たさが沁みいるようで、すごく心地よかったです。
唯「……ありがと、あずにゃん」
梓「唯先輩だけですからね、こんなことするの」
恥ずかしそうに顔を背けるあずにゃん。
その時は、なんだかいつもと様子が違って見えたんです。
なんだか夢みたいで、すぐにも消えてしまいそうなほどおぼろげで……突然怖くなりました。
あずにゃんが、どこか遠くに行ってしまいそうな気がして。
――すぐ隣にいるのに、変な話だよね。
梓「ねぇ、唯先輩」
唯「なぁに?」
梓「……高校卒業したら、放課後ティータイムってどうするんですか?」
唯「続けるよ、いつまでも。みんなと離れたくないもん」
梓「ほんとですか?!」
あずにゃんは大きな目を輝かせて喜びました。
あはは、顔に出やすいなぁ。
……でも、すぐにまたなにかを諦めてしまったような顔になってしまいます。
唯「どうしたの? あずにゃん、元気ないよ」
梓「なんでもないです。ちょっとナーバスになってるだけですよ」
その時、なぜか嫌な予感がしました。
私はもう二度とあずにゃんをぎゅってできなくなるのかもしれない。
いつかはあずにゃんも私から離れていって、思い出になってしまう。
そう思ったら、気づかない振りをしてた気持ちがどうしようもなく膨れ上がってしまったのです。
――私は、あずにゃんのことが好きなのかもしれない。
友達ではなく、後輩でもなく、一人の女の子として。
でもそれを言ってしまったら、あずにゃんは気持ち悪がってしまうに決まってます。
だから……この気持ちはそっと封じ込めることにしました。
それなのに。
梓「……ゆいせんぱい」
あずにゃんの方から腕を伸ばし、私を抱きしめてしまったんです。
唯「……あは、あずにゃんからってめずらしいね」
梓「・・・・・・唯先輩のうそつき」
あ・・・・あずにゃん?
私、なにか嘘ついたかな……。
目に浮かんだ涙を私に見せまいとして、また顔をそむけようとするあずにゃん。
私は離れようとするあずにゃんを抱きしめようとして――なぜか、できませんでした。
唯(あれ……からだが、動かない?!)
さっきまで自由に動いていた腕も足も力が抜けてしまって、指一本動かせません。
どうしよう、このままじゃ本当にあずにゃんと離れ離れになっちゃう…!
焦る私に向かって、あずにゃんは背中に回した腕をそっと緩め始めます。
あずにゃんの後ろに見えていた河川敷も、気のせいかぼやけていってる気がして。
唯「…ねぇあずにゃん、これって、どういう」
梓「夢だったんですよ、全部。唯先輩も、たぶん私も」
梓「私たちは、事故に遭ったんです」
唯「事故?」
梓「エレベーターの中に十時間近く閉じ込められて、唯先輩は熱中症起こして倒れたんです」
唯「そんな……そんな、ことって」
けれど、思い出そうとすると切れ端のような記憶が浮かんでは消えて。
屋上でフェンス越しに二人だけで見た夜明けの街。
カバンをまくらにして寝転がって、二人で音楽を聴いたこと。
ストックホルム・シンドローム。
澪ちゃんにメールが届いたとき、抱き合って喜んだこと。
認めたくないのに、認めざるを得ないほどつじつまが合っていて。
やっぱり、今見えてるのは夢で――
梓「それだけじゃないです」
あずにゃんはそう言うと、抱きしめていた腕をぱっと離しました。
唯「あずにゃん……行かないでよ、こっちでもっとおしゃべりしよ?」
梓「私が今まで見てたのも……たぶん、夢みたいなものだったんですよ」
唯先輩のとは違う意味ですけどね、そう言ってあずにゃんはさみしげに笑うんです。
やだよ……そんな顔で笑わないでよ。
本当に、離れなきゃいけないみたいじゃん。
川の向こう岸はもう蜃気楼のように薄れて、溶けていくばかりです。
もう少しであずにゃんまでそれに飲み込まれそうでした。
なんとか腕を伸ばそうとしたけれど……腕は動きそうになくて。
梓「私が入学した年の新勧ライブ、覚えてますか?」
唯「うん…あのライブ見て、あずにゃんは入部してくれたんだよね」
あの日のライブは夢みたいでした。
あずにゃんはそう言って懐かしげにほほえみます。
梓「それからすぐに軽音部に入部して、唯先輩のことを見つけました」
梓「けど…そこで出会った唯先輩は、私がステージ上で見た人とは違ってたんです」
唯「あはは……」
やっぱ、幻滅されちゃったんだろうな。
私ってものごとが続かないし、コードも音楽用語も覚えてないし、
いっつも後輩のあずにゃんを頼ってばかりだったしね……しょうがないよね。
梓「そりゃ、はじめはちょっとがっかりしましたよ。でも同時に、もっともっと気になったんです」
唯「……え?」
梓「あの日あんなにたやすく私の心を奪っていった、唯先輩ってどういう人なんだろうって」
芝生に寝転がる私のすぐ横で、膝立ちで話すあずにゃん。
こぼれそうでこぼれない涙に気づきもせず、真剣な眼差しを向けています。
息づかいが伝わるほど、髪の匂いがわかるほど近くにいるのに……私はまだ抱きしめられないでいます。
梓「軽音部で過ごした時間は――もっと言うなら、唯先輩と過ごした時間が、夢みたいでした」
梓「気がついたら唯先輩は三年生で、もう卒業する年で」
梓「・・・・・それを考えたら、とたんに怖くなって」
本当に夢なら、いつかは覚めちゃうんじゃないか。
夢から覚めたら私はあずにゃんから、ただの
中野梓に戻ってしまって、思い出しか残らないのかも。
あずにゃんは、そんな悲しいことを言うのです。
唯「ねぇ…あずにゃん?」
恐怖に耐え切れず、私は聞いてしまいました。
唯「私たち、夢から覚めたらどうなるの?」
梓「どうもしないですよ。唯先輩は無事救出されて、病院のベッドで眠ってますから」
唯「じゃ、じゃああずにゃんは?! あずにゃんの身に何かあったら――」
梓「安心してください、私も無事でした。それから、唯先輩を助けようとした律先輩も」
そっか……よかった、これからもあずにゃんと一緒にいられる。
梓「でも、夢は夢のまま終わらせようと思います」
えっ…いま、なんて?
梓「軽音部はすごく楽しくて、唯先輩は素敵な人でした。……けど全部あれ、夢だったんですよ」
唯「そんな…夢なんかじゃないよ、現実だよ!」
必死であずにゃんに言うけど、あずにゃんは諦めてしまったみたいにかぶりを振ります。
――二人で、夢だったことにしましょう。そしたら気持ち悪い思いなんて捨てられますから。
愛する人が傷つくかもしれないのに、それでも付き合いたいとか、キスしたいとか、
そんな思いも全部思い出だったことにしてきれいなまま過去に閉じ込めてしまえますから。
私は、ただの後輩です。ただの、中野梓です。
……あずにゃんは、ついにこぼれた涙をぬぐうこともせずに、そう言いました。
梓「これ以上、こんな気持ちを持ち続けるのは辛いんです。それは……唯先輩もそうでしょう?」
唯「なんであずにゃんにそんなことがわかるのさ!? 私は、あずにゃんのことが、本当に……」
梓「……分かりますよ。痛いぐらい伝わってます。だって今の私、唯先輩が見てる夢なんだもん」
梓「私が言ってること、半分以上は唯先輩が考えてたことじゃないですか」
そう……気づいていたんだ。
一緒に過ごす時間が夢みたいで離れたくないって思ってたのも、
諦めようって考えたのも、あずにゃんって呼ぶのやめようっていうのも、全部。
私があずにゃんへの気持ちをなんとか押し込めようとして考えたことだったって。
唯「でも……やっぱり、いやだよ。私――あずにゃんを他人にしたくないよ」
梓「他人じゃなかったら、なんなんですか?」
……ダメだ。うまく言えない。
いや、ほんとうは分かってるんだ。
でもちゃんと言ってしまったら、現実に口に出してしまったら――
梓「口に出したら終わってしまう、こうですか?」
あずにゃんは、あの映画で別れた恋人の台詞をそらんじてみせた。
そうだよ、終わってしまうんだ。
だってさあ、女同士だよ? 普通だったら、気持ち悪い関係なんだよ?
私はそういう人間だし、どう見られたって仕方ないと思うけど。
でも、あずにゃんが変な目で見られたり、傷ついたりするのは……耐えられない。
そう思って、何度も何度もあずにゃんとの未来を考えては忘れて、考えては忘れて、
……そうやって、なかったことにしようとしたんだ。
だからかな……私の夢の中のあずにゃんも、少しずつ蜃気楼に取り込まれて消えていこうとしている。
でも。
でも、やっぱり、
唯「・・・・・あずにゃんは、あずにゃんだよ」
決めた。
私だって、あずにゃんと離れ離れになるのはいやだ。
唯「夢から覚めても、あずにゃんはあずにゃんのままでいてほしいよ!」
目の前のあずにゃんが、ついにしゃくり上げて泣き出した。
梓「……今さら、ずるいです。私の気持ちなんか、見ないふりしてたくせに」
ごめんね、あずにゃん。
あずにゃんが私のこと好きだって言うのも、本当は分かってたんだ。
だけど……口にするのが怖かった。
だったら仲のいい先輩と後輩でいいやって、そう思ってたから。
梓「いえるんですか。私のこと、どう思ってるか」
唯「いえるよ!? 私はあずにゃんのことが好き! 離れたくない、抱きしめたい、キスしたい、愛してる!」
梓「夢から覚めてもそれ言えるんですか?! 今まで逃げてたのに!」
あずにゃんの言葉が胸に刺さる。
今まで見てみぬ振りして、そうやってあずにゃんを振り回してたんだ。
このままじゃ……夢から覚めたら、本当にあずにゃんが離れていっちゃうかもしれない。
河川敷はもう白い光でいっぱいで、もうここがどこだかも分からなくなっている。
もうここには私とあずにゃんだけしかいなかった。
でも、そのあずにゃんも……腕や足の輪郭が薄くなっていく。
梓「夢を夢のままであらせ続けるって、唯先輩が考えてるよりずっと大変ですよ?」
わかってるよ、あずにゃん。
ステージ上で夢を見せるバンドマンだって、現実では夢を形にする努力をしてるんだもんね。
あずにゃんが教えてくれたことだもん。ちゃんと覚えてるよ。
唯「それでも、私はあずにゃんとずっと一緒にいたい」
だから、今度こそちゃんと言うよ。
――待っててね、現実のあずにゃん。
唯「約束する。目が覚めたら、あずにゃんに私の気持ちを伝える」
梓「……分かりました。じゃあ、お願いがあります」
唯「なに?」
梓「最後に私のこと、いままでみたいにぎゅって抱きしめてください」
もう二度と離れ離れにならないように、ちゃんとその腕で抱きしめてください。
あずにゃんはそう言った。
私は動かない腕に力を込める。
するとゆっくりだけど身体が動いて、あずにゃんに少し近づく。
がんばればなんとか腕が動かせる。
抱きしめなきゃ。今すぐ、ぎゅうってしなくちゃ。
でもあずにゃんの身体はどんどん白い光に飲まれていく。
時間がない。
梓「…ゆいせんぱい」
さっきより身体が軽くなった気がした。
私は全力で手を伸ばして、
なんとか消えそうな輪郭をつかんで、
背中に腕を回して、小さくてやわらかい身体を私のもとに引き寄せて、
――力を込めて、抱きしめた。
すべてが光に包まれる、ほんの一瞬。
泣き晴らしたあずにゃんが、笑ったように感じた。
最終更新:2010年08月28日 20:40