「もう、あずにゃんは甘えん坊だなぁ」
そう言いながら、梓ちゃんの頭にそっと触れる。優しく優しく、壊れ物を扱うように。
梓ちゃんの髪はさらさらで、撫でている私の手にも心地良い。
梓「うう…からかわないで下さいよ」
椅子に腰かける私の膝にもたれかかるその顔は、少し恥ずかしがっているようだったけれど、日頃からは考えられないほどにゆるみきっていた。
本当に猫のよう。いつもはつんとしていて中々懐かない癖に、一旦慣れたらとことん甘えてくる。あずにゃんとはよく言ったものだ。
―――――――――私たちが、こんな歪んだ茶番を始めたのは、お姉ちゃんたちが卒業してからだ。
梓「純、お願いっ!名前だけでもいいから軽音楽部に入って!このままじゃ人数不足で廃部になっちゃう……憂が一緒にやってくれるっていうから、あと二人必要なの」
純「……わかった、梓の頼みとあっちゃ断れないね。ただ……私はジャズ研の役職があるから、実際にそっちの練習に行くわけにはいかない。そこはやっぱり、最高学年としての責任があるから。ごめんね」
梓「うん、わかってる。ありがとね」
純「代わりにってわけじゃないけど、もう一人ジャズ研から名前貸してくれる子を探してみるね。そしたらちゃんと4人になるでしょ?」
梓「……本当にありがとう。無理言ってごめんね。本当に感謝してる」
純「水臭いこといいなさんなって!私たち友達でしょっ!」
~音楽室~
梓「ふたりっきりだと、この部室もずいぶん広く感じるね」
憂「そうだね。ちょっとさみしいかも」
梓「うん……でも、頑張らなきゃ。先輩たちがいなくなっても絶対に軽音楽部を無くしたりしない。部長の私が守る!」
梓(だからそのためにもっともっと練習して、いい演奏をして、馬鹿にする人たちに実力を見せつけなきゃ!)
例えば、先生方の間でもこのように無理矢理に存続させている部活動に対し批判的な人は少なくない。
さわ子先生の奔走無くしてはいかに名義が揃おうと軽音楽部は消滅していたと思う。
存続のために下げたくないであろう頭をたくさん下げてもらった。さわ子先生には感謝してもしきれない。
また、去年の演奏を知らない一年生の中には軽音楽部の存在すら知らないという人までいるみたいだ。新歓のときには部員確保でごたごたしていたから、演奏すらできなかった。
大きな音楽系の部活の人たちからはあからさまに馬鹿にされたこともある。
悔しかった。そして何より、先輩たちに申し訳なかった。
梓(だから……演奏で黙らせてやる!)
憂「梓ちゃん……あんまり思いつめないでね?」
梓「うん、まあ、大丈夫だよ。ほら、私部長だから頑張らないと」
梓(こんなとき先輩たちが……唯先輩がいてくれたら)
梓(ダ、ダメダメ!今の部長は私なんだから!)
梓(でも……)
梓(やっぱり、そばにいてほしい……)
憂「あ、ちょっとまってね。髪の毛結びなおさなきゃ」
そこには、唯先輩がいた。
一度入れ替わりもした前科があるのは伊達ではない。会えない寂しさが上乗せされて心が乱されたのか、髪を下ろした憂の姿は本人にしか見えなかった。
梓「あ……唯……先輩……」
私は何を言ってるんだろう。
もう唯先輩に頼らないって決めたのに。私が部長だから頑張ろうって決めたのに。
私は、何を泣いてるんだろう。
梓「あ、ごめんね、なんでもないからっ!は、早く髪結んじゃってよ!さっさと練習しなきゃ、ね?」
憂「梓ちゃん、いや……あずにゃん、おいで?」
そういって、にっこりと笑いながら憂は手を広げて見せた。
落ち着け私。
何を馬鹿な。
こんなの間違ってる。
でも、次の瞬間、私は憂の、いや――――――「唯先輩」の腕の中で声をあげて泣いていた。
…
なんで私は梓ちゃんをあの時抱きしめてしまったのか、今でも実はよくわからない。
全部一人で背負いこんでいた梓ちゃんをかわいそうだと思ってはいた、何か力になれないかとも。
でも多分、それだけじゃない。
大好きなお姉ちゃんになれる。
つまり、お姉ちゃんの世話をするとか、一緒にいるとかではなく「お姉ちゃんと同一の存在になる」ことに惹かれちゃったのかな。
もしくは、梓ちゃんがお姉ちゃんといつも仲良くしてたのに嫉妬して、引き離そうとしてたのかも。
……この関係は、あの一度きりでなく今でも続いているということは事実なのだから、動機なんてもうどうでもいいか。
今の私と梓ちゃんにとって重要なのはその事実だけなのだから。
梓「……よし、ありがとうございました!きょうはこれまでで大丈夫です」
「わかった~。ならちょっとむこう向いててね?」
髪をほどくとき、結ぶとき、憂と私はお互いに目をそらす。
どちらが決めたというわけではなく、自然にそうなっていた。
憂「あ、そういえば梓ちゃん」
近くにいながら、目を合わせず、背中越しに話す。
梓「どうしたの?」
まるで私たちの不自然な関係を象徴してるみたい。
憂「今日、うちに泊まっていかない?」
私たちは、どうなってしまうんだろう。
~平沢家~
梓「お邪魔しまーす」
憂「いらっしゃい」
生活感の無い家だった。憂がしっかり掃除しているのもあるんだろうが、この家に一人では散らかりようもないだろう。
憂「まずはご飯にしよっか」
梓「あ、手伝うよ」
憂「いいのいいの、座ってて」
てきぱきと料理を作る憂の姿は生き生きして見えた。
久々に人が来たのが嬉しいのだろう。
憂「できたよー。」
梓「ありがとう。いただきまーす」
憂「さ、めしあがれ」
梓「流石憂だね!美味しい」
憂「ありがと。お姉ちゃんがいなくなってからずっと一人でご飯だから作るのにも張り合いがなくて…久しぶりに手の込んだもの作ってみたんだ。喜んでくれてうれしいな」
憂「美味しいって言ってくれる人がいない料理って、寂しいから」
憂らしい、と思う。
自分のことなんてそっちのけで、人のために何かしてあげようとする。しっかりしてるように見えるが、そんな意味では危ういところがある。
「自分を犠牲にしてでも褒めてほしい」なんてことじゃなくて、要は、極度の世話焼きなのだ。称賛はあくまでおまけにすぎない。相手の幸せそうな姿を見るのが憂の幸せなのだ。
でも、憂には憂自身のことももっと大事にしてほしい。
本人がいくら幸せでも、頑張りすぎて倒れたりなどしたら却って皆が辛い思いをするだけだ。
憂が他人の幸せを願うように、憂の幸せを願う人はたくさんいるのだから。
私だってそうだ。
だって私は憂の
―――――――――憂の、なんなんだろう。
憂「どうしたの?やっぱり美味しくなかったかなぁ……」
梓「にゃっ!?い、いやいやいやいやそんなことはないよ!あはははは……」
憂「あはは、変な梓ちゃん。じゃあ私はもう食べちゃったしお風呂の準備しとくね」
梓「う、うん……」
急いで残りの料理に手をつける。やっぱり美味しい。
唯先輩が毎日食べていたのと同じ……って、なんでここで唯先輩なんだ。
にしても、憂にとって私はどんな存在なんだろう。
ただの友達、もしくは親友、または部活の仲間、バンドメンバー……それとも
憂「……ちゃん。梓ちゃん」
梓「ふぁっ!?」
憂「体調悪いのかな?一応お風呂用意できたけどそれならやめといたほうが……」
梓「え、いや、大丈夫だよ!さ、先に入っちゃっていいかな。厚かましいけど……」
憂「もちろん。大切なお客様ですから」
…
梓(ふう……いいお湯だ)
梓(……憂)
わからない。
入学してから今まで付き合ってきたはずなんだけどなあ。
案外、お互いよくわかってないのかな。
そういえば、今までずっと唯先輩がらみの話ばっかりしていた気がする。
今の関係だってそうだ。
梓(うう……なんか憂と顔を合わせるのが気まずいかも)
憂「梓ちゃん、湯加減どうかな?」
梓「にゃあああ!?だ、大丈夫!最高です!」
憂「さっきから大きな声出してどうしたの?まあいいや、なら私も入るね」
梓「はーい……ってえええええ!?」
ガラリとお風呂のドアが開く音がする。
ドアに背を向けて湯船に浸かっていた私は振り向くこともできずにただ固まっていた。
「あずにゃーん、こっち向いてよ」
梓(!?)
梓(確かにお風呂に入るときは髪をほどく。だけど、今まで憂が自発的にこんな風に接してきたことはなかったはずだけど……なんのつもりだろう)
彼女は椅子に座って体を流すと湯船に入ってきた。
後ろから抱き締められる形となり否が応でも心臓の鼓動が速くなる。
梓(ちょっ……当たってるって!ここは唯先輩とは全然違う……って何考えてるんだ私!)
「ねえあずにゃん、きもちいい?」
梓「え、あ、はい……」
のぼせたのか、この状況に動転してるのか、頭がぼーっとしてくる。
そして、なにも考えられなくなってしまう。
今の関係への疑問も私たちのこれからなんてのも全部吹っ飛んで、そこにあるのはただ蕩けてしまいそうな感覚だけ。
「気が抜けきった顔だね。きもちいいの?」
梓「はい……」
「素直だねえ。えらいえらい」
梓「あっ……」
不意によしよしと頭を撫でられる。
実は私はこれが好きでたまらない。なにか安心する気がするから。
頭を撫でるやさしいてのひらの感覚と、背中から伝わる肌のぬくもりしかもうわからない。
いっそこのままとけてしまえればいいのに。
梓「きもちいい……」
「いいこいいこ……って、鼻血でてるよ!」
梓「えっ!?」
憂「もう、のぼせてたなら言ってくれたらよかったのに」
梓「ごめんなひゃい……」
そう言う梓ちゃんの顔はまだ火照ったままだ。
膝枕をしながら、そんな梓ちゃんを団扇であおいでいる。
憂「しばらくこうしてようか?」
梓「ありがと」
梓ちゃんは元が色白だから却って頬の赤さが目立つ。
その白さが災いしてか、夏にはこげにゃんになっちゃうけど。
にしても、誰かに甘えているときの梓ちゃんは可愛らしい。
同性から見ても十分に魅力的だ。
こうやっていると、むしろ甘えてるのは梓ちゃんじゃなく私なんじゃないかと思う。
私は甘やかす誰かを必要としてるだけなんじゃないか。
お姉ちゃんだってそうだってのかもしれない。
ただ、一番そばにいる姉妹だったから、それだけだったんじゃないか。
私のせいでお姉ちゃんはダメになったんだと軽音楽部の先輩方は笑って冗談を言う。
私はお姉ちゃんのことをダメなんて思わない。最高のお姉ちゃんだ。
確かに家事一般は私がやっていたけど、お姉ちゃんは私にたくさんの愛を、温かさをくれた。
でも、もしみんなからお姉ちゃんがそんな風に思われちゃってるなら、そしてそれが私のせいなら、私は最低の妹だ。
そうやって、今もまた同じことを梓ちゃんにしようとしているのかもしれない。
梓ちゃんからお姉ちゃんの面影を投影されながら、私もまた梓ちゃんをお姉ちゃんの代替として扱ってしまってるのかもしれない。
溺愛という言葉がある。
私も梓ちゃんも、今の倒錯した関係の中に溺れかけているのかもしれない。
でも、今さらただの友達にも戻れるはずがない。
もう私は止まれない気がする。
梓「もう落ち着いてきた。ごめんね」
憂「大丈夫ならよかった。じゃあそろそろ寝よっか」
梓「うん、そうしよっか」
憂の後について寝室へと向かう。
やっぱりなんか気まずい。到着までの間二人ともなぜか黙り込んでしまう。
憂「はい、ここ」
先に入るように促され、私は部屋へ足を踏み入れた。
電気がついていないため、廊下からの明かりの範囲でしかでしか室内の様子は窺えないけど……
梓「……ここ、唯先輩の部屋じゃん」
返事をしないまま、憂は私の横をすり抜けてベッドへ腰かける。
いつの間にか髪をほどいている。先に入るように言ったのはこれか。
どこか淫らささえ感じるような微笑み。
どくん、と心臓が脈打った。
「そうだよ。ほら、あずにゃん、おいで」
「ずっと、こうしたかったんじゃないの?」
確かに、私は唯先輩のことが好きだった。
「ねえ、あず……」
梓「触るな!」
でも、「これ」は違う。こんなの私の求めていたことじゃない。
彼女の伸ばしかけた手がびくっと震え、そのまま戻る。
暗くて表情がよく見えない。でも、さっきまで浮かべていた妖しげな微笑みは姿を潜めているのはわかる。
梓「私が望んでいたのはこんなんじゃない!おかしいよこんなの!」
梓「こんな……こんなのってないよ……」
何故か涙が止まらない。
どうして。
どうして私たちこんな風になっちゃったんだろう。
私に怒鳴られて一瞬動きが止まった憂は、一呼吸置いてベッドから立ち上がり、私の隣をすり抜けて部屋を出て行った。
憂「私、自分の部屋で寝るね」
憂「……ごめん」
私の背後で、ゆっくりとドアが閉まる
部屋は、闇に閉ざされた。
最終更新:2010年08月30日 23:31