それはお姉ちゃんが大学一年、私が高校三年のときの出来事。
お姉ちゃんの通う大学は二年になるとキャンパスが異動になって、家からかなり遠く離れた所へ通わなければならなくなった。
だから、お姉ちゃんは今年の三月末には一人暮らしを始めることになったのだ。
その話を和ちゃんとしていると、和ちゃんはいつになく真剣な顔で切り出した。
「あのね憂。やっぱりこのままじゃ、まずい気がするわ。」
「…そうだよね、いざ、家族以外の人に言われると手厳しいものがあるけど、自分でも薄々気付いてたんだ。」
「ごめんなさいね、他人の私が人の家庭事情に首を突っ込んだりして。でも、唯を見てると心配で。」
でもあの子、このままだと憂無しじゃ生きていけなくなっちゃうわよ。
和ちゃんの指摘は、これ以上無くストレートに、的確に私の心を揺さぶる。
お姉ちゃんは、私に頼りすぎている。少なくとも自分の身の回りの世話は自分でできるようにさせないと、
この先、生活していけなくなってしまう、と。
改めて振り返ってみると炊事、洗濯、買い物…どれもお姉ちゃんは普段やらない。
それは、決してお姉ちゃんだけが悪いわけじゃない。家事という仕事を一手に引き受けて―――否、お姉ちゃんの笑顔が見たいがために、
奪ってしまった私にも責任があるから。認めたくはないけど、認めなければいけない。このままでは、お姉ちゃんはダメ人間になってしまう。
「和ちゃん…私、やってみるよ。お姉ちゃんの事を想えばこそ、このままじゃダメだよね!」
意気込む私とは反対に、和ちゃんは眉を八の字に下げて心配そう。
「憂…きっと、あなたにとっては辛い事になると思うわ。
お願いだから、一人で抱え込まないで……唯に言えないことなら、私が受け止めるから。私も、唯とあなたが大切だから。」
「うん…ありがとう。」
和ちゃんと別れて家路を歩きながら、ふと昔の思い出を引っ張り出してみる。
和ちゃんはお姉ちゃんの幼馴染だけど、私にとってもそれは同じこと。小さい頃は三人で一緒に遊んでたりしてたから、
律さん、澪さん、紬さん、梓ちゃんといった軽音部の人達とは少し違う、どこか特別な存在だ。
そういえば、よく近所の公園に行ったっけ。ブランコをこぎながら、誰が一番高くこげるかとか、
三人並んで滑り台を滑り降りたりとか、公園に散歩に来ていた人の連れている犬を撫でたりとか…。
あの頃が懐かしいなぁ。
そんな事を考えている間に、目の前が玄関になっていた。戸を開けると、お姉ちゃんの靴がある。
ってことは、もう帰ってきてるんだね。
「ただいまー。」
「おかえり憂~。」
リビングからお姉ちゃんの声。やっぱり、またゴロゴロしてるのかな。しょうがないなぁ。
スーパーで買ってきた食材を冷蔵庫に仕舞っていると、ギー太のチューニングをしながらお姉ちゃんが訊ねてくる。
「憂、今日の晩御飯は~?」
「えっとね、今日はカレーにしようと思うんだ。お姉ちゃん、手伝ってくれる?」
「おっ、わたしの手が必要なんだね、もちろんいいよ!」
嬉しそうにお姉ちゃんはわたしの申し出を了承してくれた。
私としても、お姉ちゃんと一緒に料理をするのは楽しいし、この機会に包丁の扱い方や野菜の切り方なんかを
きちんと教えようと思う。実を言うと、料理に関してはそんなに心配してない。だって、できるようになるのが実感できると
楽しく感じるようになるものだから。
タン!タン!…タン!
まな板に打ちつける包丁のリズムはまだどこかぎこちないけど、最初の頃のような危なっかしさは無くなってきたかな。
「そうそう、半分に切ったら今度はそれをまた半分にするでしょ?そう、それでおっけーだよ。」
「これが銀杏切りかぁ。なんかカッコいいね!」
「ふふ、そう?じゃあ今度はジャガイモの切り方だけど…」
姉妹で料理に勤しむ時間はあっという間に過ぎて、気付けばいつもの晩御飯の時刻より少し遅くなっていた。
けれど、お姉ちゃんが楽しそうに料理をする姿を見ていると、やっぱり提案してよかった、と思える。
さり気なくお手伝いをお願いしてお姉ちゃんに家事を覚えさせる作戦は、当初は成功かと思われた。
けれど、やっぱりそう上手くは行かないみたいで、その頃からだろうか。私達姉妹の間に亀裂が入り始めていたのは。
◇ ◇ ◇
「あら憂、どう、唯の様子は?」
「あ…和ちゃん。それが、最近あんまり上手く行かなくて…昨日もお姉ちゃんに、私が料理してる間にお風呂掃除と
洗濯物のアイロンかけをお願いしたんだけど、いっぺんに二つなんてできないって言われちゃって…」
「そっか。でもそこで甘やかしちゃダメよ。出来る限りでいいからやらせないと。
一人暮らしを始めたら、全部自分でやらなきゃならないんだから…憂にとっては辛いだろうけどね。」
「でも、お姉ちゃんのためだから頑張るよ!」
「きっとまだ唯は、憂に対する甘えみたいなものから抜け出せないのね。
もし、優しく言っても聞かないようなら…時には厳しく接しないとならないこともあるかも知れないわ。」
晩御飯の食材を買いに出掛けた先で、和ちゃんにばったり出会って、近くのベンチでタイヤキをかじりながら並んで座った。
辛い事があったら、抱え込まないで全部私に吐き出していいんだからね、と優しく頭を撫でられて。
泣くつもりなんて微塵も無かったのに、涙が頬を伝っていた。和ちゃんはそんな私を見て「まったく、姉妹揃って甘えん坊なんだから。」
と、そっと抱きしめてくれた。「お姉ちゃん」とはまた違う雰囲気だけど、和ちゃんもまた、私にとっては「お姉さん」みたいな存在。
和ちゃんが落ち着きのある長女で、お姉ちゃんが元気な次女、って感じなのかな。そして私が、内気な三女…?
ふと、和ちゃんも本当のお姉ちゃんだったらいいのに、なんて思ってしまった。
「お姉ちゃん、お昼ご飯の前に部屋の掃除済ませちゃいなよ。」
「えぇーっ?まだいいよぉ、一週間前にしたばっかじゃん。」
「ダメだよ、本当なら毎日でもしなきゃすぐホコリが溜まっちゃうんだから。」
「むぅーっ、憂のケチ!」
膨れっ面をしながらも、お姉ちゃんは掃除機を手に部屋へ向かっていった。
今日のお姉ちゃんの家事は、掃除と買い物かな。今日の夕飯は、お姉ちゃんの大好きなメニューを作ろう。
夕飯の献立がお肉なので、お昼は蕎麦を茹でる事にした。お隣のおばあちゃんからおすそ分けしてもらった、信州名物の戸隠蕎麦だ。
二階からはガーガーと掃除機の稼動音が聞こえてくる。お姉ちゃん、なんだかんだで家事上達してきたなぁ。
「お姉ちゃん、ご飯だよー。」
「ほーい。今日のお昼はなーにっかなー…って、お蕎麦かぁ。」
「どうしたの?」
「なんでもないよ。いただきまーす。」
お姉ちゃんの態度は気になったものの、特に何を言うわけでもなくずるずるとお蕎麦を啜っていたので、それほど気には留めなかった。
そして、二人で夕方まで宿題をしたりテレビを観たりして過ごしていると、あっという間に夕飯の支度の時間。
「お姉ちゃん、晩御飯の材料買ってきてもらえる?」
「………」
お姉ちゃんからの返事がない。どうしたんだろう。
「お姉ちゃん?どうし―――」
「憂はさぁ、最近面倒な事全部、わたしに押し付けてるよね。」
「え?」
「自分は楽しい料理とかラクな洗濯機回しとか、やりたい事ばっかりやって、お買い物とか掃除とかアイロン掛けは殆どわたしじゃん!」
「そ、そんなこと―――」
「あるよ!お陰で最近ギー太を弾く時間だって満足に取れないし、たまーのお休みの日も全然休んだ気になれないし。」
言われてみれば、知らず知らずのうちにそんな配分になっていたかもしれない。洗濯機を動かすのは誰でも出来るし、
買い物や掃除、アイロン掛けなんかはコツを覚えるまで重点的にやらせたほうがいいと考えた事もあった。
けれどそれはどちらかといえばお姉ちゃんにとってやりたくない仕事だったから、そんな事ばかりやらされればストレスも溜まる。
「ご、ごめんね。そういうつもりじゃ……」
「最初は憂と一緒に料理したりして楽しかったのに、今は料理だってわたし一人に任せるようになったし。
もういいよ、憂はそうやって自分がラクしたいだけなんでしょ。ほら、買い物行くんだから早くメモ貸してよ。」
不機嫌そうに手を差し出すお姉ちゃん。本当はやりたくないけど、この期を逃がすわけにはいかない。
「……お姉ちゃん、いい加減にしてよ!!私だって好きで家事やってるわけじゃないんだよ!?
掃除洗濯買い物炊事……毎日毎日毎日毎日私ばっかりやらされて、
お姉ちゃんは休みの日でも家でゴロゴロゴロゴロ!バイトするわけでもなく、
最近になって少しはマシになったかと思ったら休みの日は殆どお友達と遊びに行って遅くまで帰ってこないし…私への当てつけなの!?」
「う…そ、それは…」
「どうなのお姉ちゃん!?教えてよ、教えてったら!!!」
おろおろするお姉ちゃん。もう、反論する事も頭にない、って顔だった。…ごめんなさい、お姉ちゃん。
私は、嘘を吐きました。
「………ごめん、ごめんね、憂。そうだよね…憂は今までずっと一人で…これからは、ちゃんと家事も手伝うから。文句も言わないから。だから…」
「いいよ、もう。お姉ちゃんなんて知らない。お姉ちゃんに期待した私がバカだったんだよ。」
いつの間にか、鼻声になっていた。零れる涙をぐしぐしと袖で拭く。
がつん、と頭を殴られたようなショックを受けたように、お姉ちゃんの顔は強張っていた。
元々押しの弱いお姉ちゃんだから、私がちょっと怖い顔をして声を荒げるだけであっという間に青菜に塩だと思う、
と耳打ちしてきたのは和ちゃんだった。
可哀想だけど、お姉ちゃんの自立のためには私も心を鬼にしないとダメだもの。泣きながら、プイッと顔を背けて。
無言で部屋に戻って、戸に鍵を掛ける。暫く耳を澄ませていると、お姉ちゃんはどうやら出掛けたらしかった。
……さっきのは言い過ぎたよね。帰ってきたらお姉ちゃんに謝らないと。
和ちゃんも、つくづく損な役回りだと思う。自分だって辛いはずなのに、それをじっと堪えて協力してくれている。
もしお姉ちゃんが、和ちゃんに私と上手くやっていけていない事を相談したとしても、真相を知っている和ちゃんは
さりげなくお姉ちゃんを自立の方向へと導かなければならないのだ。お姉ちゃんと私との間のクッションとなって、
しかもお姉ちゃんの事をさりげなく誘導して、私の弱音まで受け容れてくれている。
やっぱり私は、一人きりじゃ何もできない、ダメな子だった。
◇ ◇ ◇
ショックだった。としか言いようが無い。だって、あんなに優しかった憂が、嫌悪の表情を顕にしてわたしを睨んでいたから。
憂、どうしちゃったの?また憂と一緒にお料理したいよ。今まで憂にばっかり家事をやらせちゃってごめんなさい。
だから…だから…また昔みたいに、二人で笑おうよ。ねぇ、憂。わたしの事、嫌いになっちゃったの…?
……こうしていても仕方がない。これ以上憂に迷惑を掛けないためにも、行動で示さないとね。
買い物のメモを手にふらふらと商店街を歩く。最近、大手のスーパーよりも商店街で別々に材料を買った方が安く済むし、
新鮮で美味しいことが分かってきた。これも、憂に買い物のノウハウを教えてもらったお陰なのかな。
でも隣に憂が居ないと、すごく空しくて、吹きつける北風が物凄く寒い。商店街の威勢のいい呼び込みでさえ、どこか遠く感じる。
「寂しいよ、憂…」
どこで道を誤ったんだろう。それすら分からないまま、こんな所まで来てしまった。
あまりに悲しくて、自分ではどうしていいか皆目検討も付かなくて。
でも、憂に嫌われたままでいるのはもっと辛くて。人に頼っちゃダメだと頭では判ってたのに、
わたしは心の友とも言うべき親友、りっちゃんに電話を掛けていた。
「―――で、唯さんの悩み事の相談に乗るためだけにあたしはここに呼び出された、と。」
「ご、ごめんねりっちゃん。りっちゃんだって忙しいよね…」
りっちゃんはさみーさみーと両手を擦り合わせながらぶるぶる震えていた。
それでもわたしの相談に乗ってくれた事が嬉しくて、思わずりっちゃんに肉まんとホットココアを奢ってしまった。
大学に入ってからりっちゃんは、前髪を下ろして女の子してる、って感じだ。いつものカチューシャをつけてないと
なんかクールに見えて、少し気後れしてしまう。中身は変わってないって判ってはいるけど。
「なぁーに言ってんだよ唯!親友が困ってるのに見捨てておけるほどあたしは薄情者じゃないっての。それに、他ならぬ憂ちゃんの事だろ?」
「うん…実はね、憂を怒らせちゃって。喧嘩、しちゃったんだ。
でも、憂に言われた事を思い出せば思い出すほど、わたしってなんてダメなんだろう、って思えてきちゃって…」
一言紡ぐ度に涙がこぼれそうになる。りっちゃんは腕組みをして聞いてくれてたけど、やがて口を開いた。
「なぁ、もしかしたらそれは、唯に対する憂ちゃんのSOSなんじゃないか?」
「えっ!?」
考えもしなかった言葉が耳に入ってきて、思わずりっちゃんを見つめた。
「考えてもみろよ、今まで文句の一つも言わずに、幸せそうに唯の世話を焼いてたあの憂ちゃんがだぞ?
ある日突然唯に対して冷たい態度をとるようになるなんて、信じられないだろ。きっと何か理由があるんだ。
例えば、憂ちゃん自身が深刻な悩みを抱えてて、自分ひとりじゃどうしようもないのに、憂ちゃんの性格上、唯にも相談できない…」
「そ、それってつまり…?」
「学校で虐められてて、その反動でそんな言動を取っちゃった、とか。」
神妙な顔で紡がれたりっちゃんの言葉に、背筋がすっと冷たくなった。それと同時に、背中に嫌な汗がどっと噴き出てくる。
「そ、そんなっ…憂っ…!」
「ま、まぁ飽くまであたしの想像だけどな。憂ちゃんに限ってそういうことは無いと思うけど。
でもいいか、唯。こういうことは、本人に問い質しちゃダメだ。余計に傷つけることになるからな。
おまえも憂ちゃんの姉なら、黙って優しくしてあげるんだ。それが、何よりの慰めになるはずだからさ。」
「りっちゃん…ありがとう。わたし、今まで自分の事でいっぱいいっぱいで、
全然憂の事を考えられてなかった。わたし、憂の支えになれるように精一杯がんばるよ!」
「ははっ、元気出たみたいだな。まぁ、困った事があったらいつでもまた相談しろよ?」
「うんっ!」
りっちゃんを見送って商店街に戻る途中で、ふとりっちゃんに言われた言葉が頭をよぎった。
―――虐められてる
そんなはずはない、憂は誰にでも優しくて、いい子で、何でもできて…
「……」
あずにゃんに、電話してみよう。
トゥルルルル…トゥルルルル…
「もしもし?」
「あ、もしもしあずにゃん?今、ちょっといいかな?」
「いいですけど、どうしたんですか唯先輩。突然電話なんて…」
「うん、ちょっと訊きたい事があってね。最近憂、学校でどう?元気無かったりしない?」
「うーん…確かに、言われてみれば、元気無いですね。純も私も同じクラスになれなかったので
時々廊下で会ったりするくらいですし、最近は部活の引継ぎでバタバタしててあんまり話せてないですけど。」
やっぱり、りっちゃんの勘は正しかったみたいだ。ふと、いつか読んだ漫画の台詞がフラッシュバックする。
『何でもできて、人当たりがいいからといって、万人に好かれるとは限らない。
何でもできてしまう者は、その才能故に時として周りから妬まれ、疎まれる事だってある』
「…うん、そっか。分かった、教えてくれてありがとね。あずにゃん、お願いがあるんだけど…憂のこと、元気付けてあげてくれるかな。」
「え?どういう――」
「ごめん、理由は訊かないで。わたしじゃ、憂を元気付けてあげられないから…じゃあね。」
「えっ!?ちょっと、唯せんぱ――」
ツーッ…ツーッ…
―――黙って優しくしてあげるんだ。
わたしにできる事って、それくらいしかないもんね。ううん、それすら満足にしてあげられてない…ほんと、ダメなお姉ちゃんだなぁ。
まだまだ春には程遠いけれど小春日和の今日この頃。お天道様の機嫌とは対照的に、私の心はすっかり凍えてしまっていた。
最終更新:2010年08月31日 20:39