プロローグ
その症状が表れ出したのは何時の頃だったろうか
高校に入学してからのことだった気がする。
そう、初めに体験したのは学園祭ライブでのことだ。
初めてのライブでの緊張からか
演奏の最後から退場するまでの記憶が無かった。
ライブが終わってから澪ちゃんが舞台で転んで
客席にパンツを披露したことをりっちゃんから聞いた。
後に見る機会があったライブ映像で
私は最後まで演奏をこなしていたのを確認した。
何の問題も無い。
熱中してそのときの記憶が無くなるなんて良くあることだ。
ずっとそう思っていた。
ある日、両親と共に学校に呼び出された。
私が美術の授業中に書いた絵が問題になったのだ。
それは、白いワンピースを着た女の子が
刃物でズタズタに切り裂かれた何ともおぞましい絵だった。
先生は私を問い詰めたが、私にはそんな絵を描いた覚えが無い。
私は何度も首を振って書いていないことを訴えたが
今度は、私を心配そうな目で見つめてくるだけだった。
両親も不安を覚え暫く教師と相談した後
私を心療内科で診てもらうことに決めた。
そこで私は最近記憶が無くなる旨を医者に話し
医者は薬の処方はせず、経過を診るため私に日記を書かせることにした。
私もそれに従い常に日記を認めることにした。
私は、美術の授業での曖昧な記憶を初めに書き
その後は今日あった出来事を記述していった。
※
唯がまだ高校一年の頃。
冬の訪れを感じる寒い季節に
唯は炬燵に当って蜜柑を食べていた。
憂「お姉ちゃん、そろそろご飯できるから炬燵の上片付けてね」
唯「ほ~い」
返事はするものの唯は片づけをする気配が無い。
憂「も~片付けてって言ったのに」
憂は言いながらも自分で片づけをして
テーブルに夕飯を運ぶ。
唯「ごめんね、憂」
憂「いいよ。わかってるから」
憂「そう云えば、最近調子どう?」
唯「うん、楽しいよ」
憂は唯の記憶の途切れる症状について聞いたつもりだったが
唯は軽音部の事しか頭に無いのだろう
笑顔でそう答えた。
憂「そうじゃなくって、日記はちゃんとつけてるの?」
唯「え?うん。毎日ちゃんと書いてるよ」
憂「そう。最近は症状出たりしてる?」
唯「特にはないかな」
憂「よかった」
憂はほっとした表情を見せると
唯と二人だけの夕食を摂った。
食後に唯はアイスを食べながらのんびりと過ごしている。
憂は夕食の後片付けを済ませると
お風呂に入ってくると言って浴室へと向かって行った。
憂は湯船につかり、姉のことを考えていた。
不安でたまらないのだ。
記憶障害。
それを脳の障害へと関連付けるのは簡単だった。
姉の症状を聞かされたとき
一時期は心配で眠れぬ夜を過ごしたこともあった。
何か、大変な病気なんじゃないかと
学校の図書室や、市の図書館、書店を回って
関連しそうな病気の書籍を掻き集めたこともあった。
そこに記された文章は憂を不安にさせるだけだった。
両親を問い詰めて本当のことを聞き出そうとしたこともあった。
──本当のことを話して
──お姉ちゃん治らない病気なの?
両親は医者からは重い病では無いと言われていることを憂に話したが
憂はその全てを信用することが未だに出来ずにいる。
最近では落ち着いて、姉の症状がそれほど酷くないと思い始めても来たが
心配なのは変わらなかった。
考えても仕方が無い。
憂は風呂から上がると、姉の居るリビングへと向かった。
──お姉ちゃんの顔を見れば安心できる。
しかし、さっきまで炬燵に当っていた姉の姿が無い。
はっとしてキッチンを見ると唯が包丁を手にして佇んでいた。
憂「お、お姉ちゃん・・・」
唯は虚ろな目で憂を見る。
唯「うい・・・」
憂「お姉ちゃん、落ち着いて・・・ゆっくり包丁を置くの・・・ね?」
唯は驚いた様子で自らの手元を見つめると
目に涙を浮かべその場に膝から崩れ落ちた。
憂「お姉ちゃんっ!」
唯「憂っ・・・私・・・どうして・・・」
憂「落ち着いて、大丈夫だから・・・大丈夫」
憂は喉に絡む声で唯を慰める。
落ち着いて、落ち着いて、と自分に言い聞かせるように。
唯「憂、私おかしいのかな?」
憂「そんなこと無いよ」
唯「だって、さっきまで自分が何してたのかわからないんだもん」
唯は怯えた目を憂に向けた。
唯「怖いよ・・・憂・・・」
憂「大丈夫だから大丈夫・・・」
憂は唯の頭をそっと撫でる。
大丈夫──その言葉を繰り返しながら
暫く二人で抱き合っていた。
年が明けて春
唯は、学校の正面玄関へ続く桜並木の下を妹の憂と歩きながら
新しい生活の幕開けに胸を高鳴らせていた。
憂が同じ学校に合格して、これからはこうして毎日一緒に通えるのだ。
新しい後輩を向かえ、先輩として過ごす学校生活。
そして、新入生歓迎会のライブ。
軽音部に新入部員が入ってくれるだろうか
期待と不安の入り混じった感情がとても新鮮に思える。
清々しさに心が洗われるようだった。
憂「お姉ちゃん、なんだか嬉しそう」
並んで歩く憂が言った。憂もなんだか嬉しそうだった。
唯「うん。だって先輩って呼ばれるんだよ」
憂「私はお姉ちゃんって呼ぶけどね」
唯「え~憂も唯先輩って呼んでよぉ」
憂「だって私達姉妹でしょ。おかしいよ」
唯「それもそうだね」
憂「軽音部。新入生入ってくれるといいね」
唯「うん」
二人は笑いあい、桜色に染まる景色に溶け込むように校舎へと消えて行った。
その後行われた新観ライブは多くの新入生の心を打った
にも関わらず、軽音部へ入部したのはたった一人だけだった。
それを不満に思うことはなく
唯達は快く新入部員を迎え軽音部は新たな一歩を踏み出した。
軽音部の和やかな雰囲気を
最初は受け入れ難いと感じていた新入部員の
中野梓だったが
甘い誘惑に──いや、軽音部の演奏に惹かれ
その源であるティータイムにも次第に慣れ親しんでいった。
梓「唯先輩、一人でケーキ食べすぎじゃないですか?」
唯「え?そうかなぁ。だって皆食べないんだもん」
梓「そ、それは・・・その・・・」
唯「あずにゃん、もしかして──」
梓「そっそれ以上言わないで下さいっ!」
太ったんだ。
唯は口には出さなかったが、
少し意地悪に笑う。
唯「じゃあ、あずにゃんのも食べてあげるねっ」
唯は梓の皿に乗ったケーキにフォークを伸ばす。
梓「食べますっ食べますからっ」
梓は小さな口で大きく切り取ったケーキを口に含むと
喉に詰まったのかむせ返って
あわてて紅茶を飲んでケーキを流し込む。
律「唯、あんまり苛めるなよ」
律が呆れた表情で唯を窘める。
唯「別に苛めてないもん。りっちゃんも食べないなら私が食べてあげるよ」
律「私は食べるっての」
澪「そう云えば最近あんまり練習してないからな、律も肉が付いてきたんじゃないか?」
澪の言葉に乗せられて律は立ち上がる。
律「よしっ!練習するぞっ!」
その日の練習は実に充実したものだった。
と言っても、律はドラムを叩き壊す勢いで
他の音を掻き消してしまうほどだったのだが。
それでも、何時もより長い時間練習することができ
唯のギターも大分上達した。
梓は逐一駄目出しして、唯に丁寧に教えたが
また、忘れてしまうのではと不安にもなった。
しかし、こうして練習している間が
唯にギターを教えている間が
何よりも楽しい一時なのだと梓は感じていた。
※
楽しい時間は何時までも続いて欲しいと願うが
思うほど早く過ぎ去ってしまうものだ。
その年は、海に合宿へ行った。
思っていた通り、なのだろうか
先輩達は遊んでばかりだった。
ただ唯先輩と二人で夜中に練習した時間は
幸せな思い出として残っている。
初めての学園祭ライブ。
色々な事があった。
ギターを忘れて家に取りに戻る唯先輩。
その唯先輩の居ない舞台での演奏はどこか物足りなさを感じた。
最後の曲の直前に講堂に現れた唯先輩。
髪も服も乱れて息を切らしていたっけ。
すぐ近くで見る唯先輩が懸命に歌い演奏する姿。
あの楽しそうな横顔は一生目に焼きついて離れないだろう。
その時からなのかもしれない
私が唯先輩に思いを寄せる様になったのは。
※
ある日の休日。
唯は梓に誘われて遊園地へ遊びに行く約束をしていた。
唯の寝坊癖を知ってか
梓は憂に頼んで唯を時間通りに起こすよう言っていたらしい。
唯はしぶしぶベッドから起き上がると
支度を整え、憂に渡された弁当を持ち
約束の時間に間に合うように家を出た。
唯「おまたせぇ~」
唯の姿を見て梓はほっと胸を撫で下ろした。
梓「遅刻したらどうしようかと思ってましたよ」
唯「憂に起こすように言ってたくせに」
梓「だって、唯先輩絶対寝坊するじゃないですか」
唯「絶対とは心外だよ」
梓「じゃあ昨日何時に寝たんですか?」
唯「え~っと・・・12時・・・」
梓「やっぱり寝坊する気だったんじゃないですか」
唯「ごめんなさいっ」
二人はバスに乗って遊園地へ向かった。
休日と云う事もあってか遊園地は大分混雑していた。
唯「凄い人込みだねぇ」
梓「そうですね。唯先輩、迷子にならないで下さいよ」
唯「子供じゃないんだから」
梓「唯先輩のことですからわかりませんよ」
唯は膨れっ面をして文句を言っていたが
その顔も可愛いな、などと梓は思っていた。
梓「さぁ、行きましょうか」
唯「うん」
梓「唯先輩は何に乗りたいですか?」
唯「やっぱり遊園地といったらジェットコースターだよ」
二人はジェットコースター乗り場へ向かう。
それなりに搭乗を待つ列もあったが
20分ほどで順番が回ってくるようだった。
その間は、軽音部のこと学校のこと
色々なことを話した。
梓は唯の家での生活を聞いたが時間があれば
ギターの練習ばかりしているらしく以外にも感心してしまった。
逆に唯が梓の家での生活を聞くと
少し寂しそうな表情を見せた。
唯「寂しかったら家に遊びにきていいんだよぉ」
唯は梓に抱きついて頬擦りをする。
梓「べ、別に寂しくなんてありません」
唯「ツンデレってやつだね、あずにゃん」
梓「違いますよ。離れてください、恥ずかしいですから」
唯「ごめんごめん」
ふと唯は身長制限の立て看板に目を移す。
唯「あずにゃん、乗れるのかな?」
梓「馬鹿にしないで下さい」
唯「冗談だよ。あずにゃ~ん」
梓「もうっ、くっつかないでくださいよ」
順番が来て二人はジェットコースターに乗り込む。
最初は余裕の表情を見せていた梓だったが
次第に顔を青くさせ
一周する頃には涙目になっていた。
唯「あずにゃん、大丈夫?」
梓「ぜんぜん・・・平気です・・・」
無理をしているのは明らかだったが
そんな梓に悪戯心が芽生えた唯は
次から次へと絶叫マシンに梓を誘っていった。
梓「唯先輩・・・もう、限界です・・・」
流石に参ったといった表情の梓に
唯は休憩しようと言ってベンチで休むことにした。
唯「ほい、あずにゃん」
唯は梓に売店で買ってきた飲み物を渡すと
隣に腰掛けた。
梓「ありがとうございます」
唯「ごめんね」
梓「いえ、その・・・楽しかったですよ」
唯「ホントに?」
梓「はい、先輩と一緒なら」
梓は今言った言葉が急に恥ずかしくなって
顔を赤らめて外方を向いた。
唯はそんな梓の顔を覗き込んで、どうしたの?
と悪戯っぽい笑顔で言った。
梓「唯先輩は意地悪です」
梓は呟くように言った。
それからは、木陰で二人肩を並べて憂に作ってもらったお弁当を食べた。
食後にはアイスを舐め、
流石に胃に食べ物を詰めた状態では絶叫マシンは乗れないだろうと
お化け屋敷やコーヒーカップなど緩めのアトラクションを満喫した。
陽が西に沈み始め、空を茜色に染め上げた頃
最後にと、梓は観覧車に唯を誘った。
梓と唯は観覧車のゴンドラに向かい合って座る。
ゆっくりとゴンドラが上昇する。
唯は首を捻って静かに窓の外を眺めていた。
梓はその横顔を、唯が今何を思っているのか考えながら見つめていた。
梓「唯先輩、シンガポール・フライヤーって知ってますか?」
唯は窓の外を見つめたまま首を横に振る。
梓「世界最大の観覧車なんですって。高さ165mで一周するのに30分掛かるらしいです」
梓「定員も28人で、貸切で結婚式とかパーティーなんかも出来るらしいですよ」
梓「ライブなんかも出来ちゃったりするんですかね」
唯は梓に顔を向けると微笑んで言った。
唯「観覧車でライブかぁ~。楽しそうだね」
梓は唯に本気とも冗談とも知れない言葉を返した。
梓「いつか、やってみたいと思いませんか?」
唯「うんっ!やろうよっ観覧車でライブっ!」
唯は満面に笑みを湛えて言った。
ゴンドラが頂上に達し、窓からは赤く染まった夕陽が差し込んで
唯の笑顔を眩しく輝かせていた。
その幻想的な光景に梓は思わず涙を流した。
──唯先輩なら、唯先輩となら、どこまでも行けそうな気がする。
確信に近い思いが梓の中にはあった。
二人はゴンドラが降りるまで
窓に顔をくっつけるように外の景色を眺めながら
他愛も無い会話を交わした。
観覧車を降りると、
唯は、楽しかったね──と言って梓の手を握った。
初めは照れくさそうにしていた梓も唯の手を握り返し
二人は遊園地を後にした。
バスを降りてから
唯と梓は二人手を繋ぎながら暫く歩いた。
二人の家は近所というほどでもなかったが向かう方角は同じだった。
唯は梓の手の温もりを感じながら
今日の事を思い返していた。
楽しかった──本当に楽しかった。
──そうだ、今日の事もちゃんと日記に書かないと
そんなことを考えていると妙な耳鳴りを感じ
次の瞬間には意識が途切れた。
唯の目の前には涙を流した梓の顔があった。
何かあったのか?
唯は例の症状がまた表れたのだとわかった。
唯に顔を近づけて泣いている梓。
自分が何かしてしまったのだろうか
傷つけるようなことでも言ったのか
唯は不安になる。
唯「あ、あずにゃん・・・」
梓は涙を拭うと微笑んで言った。
梓「何でも無いです。何でも」
唯「で、でも・・・」
梓「心配ないですよ。唯先輩は私を傷つけるようなことはしてませんから」
その言葉に唯は安堵したが
意識のない間自分が何をしたのか気になって仕方が無かった。
唯は梓に直接聞いてみようとも考えたが
結局言い出せずにその日はそこで別れた。
最終更新:2010年01月22日 22:26