唯は梓と遊園地へ行った帰りの出来事から
梓との関係が壊れてしまうのでないかと心配していたが
普段どおり接してくれる梓を見て
それが思い過ごしであるとわかった。

それからは、唯はその時のことを忘れて
何時も通り梓と接することにした。
抱きついたりと過度なスキンシップを取る唯に
梓も照れながら嬉しそうな表情を向けてきた。

秋が終わり肌寒さを感じる季節。
授業が終わり、放課後
唯は軽音部の部室へと足を踏み入れた。

途端に意識が途切れた。



入り口で暫く立ち止まったままの唯を
皆は不思議そうな目で見ていた。

唯「ご、ごめん・・・私なにか言ったかな?」

律「いや、ただぼーっと突っ立ってこっち見てただけだけど」

澪「唯、何かあったのか?」

唯は頭を振って答えた。

唯「ううん。なんでもない」

紬「いま、お茶淹れますから。唯ちゃんも座って」

紬に促されて唯は椅子に座る。
──まただ。
唯は医者の言い付け通り、毎日日記を付けていたが
症状が改善される様子は無い。
特に酷くなっている訳でもないが
突然、意識が途絶えるのは不安でしかない。

その不安に促されるように唯はその場で今日の日記を付け始めた。

律「唯、何書いてるんだ?」

唯「日記だよ」


律「なんだ、珍しいな」

唯「そうかな?」

梓「でも、何で今書いてるんですか?」

唯「う~ん。何となく今書かなきゃいけないような気がして」

梓「変なの」

唯は先ほど部室の扉を開けたところで
記憶が途切れた事を書き記すと筆を置いて
紅茶を一口すすった。

律「それにしても今日は冷えるな」

梓「律先輩、そんなこと言って練習サボりたいだけじゃないんですか?」

律「そ、そんなこと無いぞ」

梓「本当ですかぁ?」

唯「やろうよっ練習」

唯の言葉に誰もが驚いた表情を見せた。

律「唯、お前本当に今日は何かあったのか?」

澪「そうだな。唯にしては珍しい」


梓「唯先輩、変なものでも食べたんですか?」

紬「まぁまぁ、練習したいなんて良いことじゃないですか」

律「そうだな。よし、やるかっ」

全員が立ち上がり練習を始めようとしたところで
顧問の山中さわ子が扉を開けて入ってきた。

さわ子「ちょりーっす」

間の悪さに溜息を吐いて律は言った。

律「さわちゃん。私達これから練習するんで」

さわ子「え~っ!お茶は?ケーキは?」

紬「後で淹れてあげますから」


紬は困惑顔でさわ子を宥めようとするも
子供のように駄々をこね始めたさわ子を
律はしょうがないと云った表情で見つめる。

律「むぎ、とりあえずさわちゃんにお茶淹れてあげて」

さわ子「あ、ありがとぉ~」

さわ子は目に涙を浮かべて感謝の言葉を口にした。

律「何も泣くことはないだろ」

紬「そうだわ、ついでに私達の演奏も聞いてもらえませんか?」

さわ子「うん、聞く聞く」

律「変わり身はえぇな~」

紬はさわ子に紅茶を淹れると
キーボードの前に立ち、律に目配せする。
律はそれに頷いてスティックを打ち鳴らす。

律「ワン!ツー!スリー!」



演奏を終えた後、唯は自分が息を切らしていることに気づいた。
先ほどの演奏の記憶が抜け落ちていることは理解できていた。
しかし、記憶が途切れたことによる不安よりも
自分の中にある達成感に喜びを感じていた。

素晴らしく気分がいい。
ライブを終えた後のような感動が胸の裡を震わせていた。

みんなの顔を見る。
一様に驚いた表情を唯に向けていた。

澪「唯・・・すごく・・・良い」

梓「唯先輩!凄いですっ!どうしたんですか!?」

紬「本当、なんだか感動しちゃいました」

律「最高だったぞ、唯っ!」

唯はさわ子に視線を移す。
さわ子はケーキにフォークを刺したまま固まっている。
何かを言いたそうに口をぱくぱくとしているが
上手く声にならない様子だった。

さわ子は声を出せない歯がゆさから
目に涙を浮かべると
何も言わずに、大きく頷いた。
何度も何度も。


律「泣くほど良い演奏だったってことだな」

律がからかうように言うと
さわ子も悔しかったのか
ケーキが涙が出るほど美味しかったのよ──と判りやすい嘘を吐いた。

その後は結局練習にならなかった。
誰もが、演奏の余韻に浸って居たかったのだろう
椅子に座って物思いに耽るように
繰り返し繰り返し先ほどの演奏を頭の中で再生していた。

唯はただ、高鳴る胸の鼓動に耳を傾けて
言いようの無い胸の裡から溢れる感動を
噛み締めていた。

唯が壁掛け時計に目をやると
あれから大分時間が経っていたことがわかった。
律も唯の視線の先を追って時計を見やる。

律「そろそろ、帰るか」

皆は熱に浮かされたようにぼうっとしていたが
そろそろと立ち上がり帰り支度を始めた。

唯「ねぇ、帰りにアイス食べていこうよ」

律「ああ、いいぞ」

澪「そうだな」


紬「偶にはいいかもしれませんね」

唯「あずにゃんも一緒に行こう?」

梓「はい、いいですよ」

5人はそろって、唯の行きつけの店でアイスを食べた。
決して特別なことでは無かった。
月に何度かは5人そろって、同じようにアイスを食べに来る事があった。
普通のことだった。日常の風景だった。
変わらぬ日常の──。


そこからの帰り道。

梓は買い物があるといって商店街の方へ向かうために
横断歩道を渡る。

梓が皆に向かって手を振っている。

唯も手を振り返す。

梓が笑う。

唯も笑い返した。

歩行者用の青信号が点滅を始めた。

突然、けたたましいクラクションの音が鳴り響いた。


鮮血がアスファルトを赤く染め上げていた。
その上に横たわっているものが何なのか
誰の目にも明らかだったろう。

──死体。

腕は拉げ(ひしゃ・げ)
筋肉と白い骨が剥き出し

脚は皮膚が捲れ上がって
襤褸切れのように垂れ下がり

腹部は裂け
大小の臓器がはみ出し

首は在らぬ方へ向き
頚骨が皮膚を突き破っていた。

辺りには黄色い脂肪と
ピンク色の肉片が吐瀉物のように
撒き散らかっている。

あれは何だ?
あれは人間なのか?
死体だ。
死体だ。
死んでいる。人間だ。



そう言えば先ほどから梓の姿が見えないと
唯は辺りを見回す。

さっきまで一緒に居たはずだった。

──あずにゃん、どこ行ったのかな?

──あぁ・・・帰ったんだっけ?

唯は澪を見る。

澪は寝ていた。
──澪ちゃん、道端で寝てると危ないよ。
唯は声を掛けたつもりだったが
奥歯を強く噛み締めていて口を開くことすらできなかった。

紬を見る。

紬は携帯電話に向かって何かを必死に伝えようとしている。
──むぎちゃん、何かあったの?
矢張り声にはならなかった。

律を見る。

泣いていた。
泣きながら何かを叫んでいる。

・・・・・さ・・!

──聞こえない。


あ・・・さっ!

──いやだっ聞きたくない!

あずさっ!

──違うっ!違う違う違うっ!

律「あずさっ!梓あぁっ!」

唯は道路に転がる死体に目を移す。

唯「違うよ・・・違うよ。何言ってるの?あれは・・・」

死体に焦点を合わせようとするが
一向に視界はぼやけたままだった。

それが涙だとは気づけずにいる唯だったが袖で目を擦ると、
一瞬ではあったがはっきりと見て取ることが出来た。

梓の顔──赤く染まった顔を
艶やかな髪──どす黒い粘液に塗れた髪を
黒く澄んだ瞳──白く濁った瞳を
柔らかかった頬──擦り切れて奥歯がむき出しになった頬を

唯は一歩、また一歩と、震える脚を引き摺るようにして
死体に──梓に近づいていく。



唯は血溜りに膝を付き
梓を抱いた。
生暖かな液体が
唯の脚を、腕を、体を、顔を濡らしていた。

涙が止め処無く零れ落ちる。

声を上げようとするが
嗚咽が漏れるだけだった。

叫びたかった。
胸の裡に湧き上がる絶望を吐き出したい。
ここで呑み込んでしまったら
きっと心が壊れてしまう。

だから──今。

唯は大きく息を吸った。

唯「いやぁぁああああああああああああああああっ!!」

叫んだ、何度も何度も何度も。
梓の名前を呼んだ。
助けて!──と無駄な言葉も吐いた。
何でもよかった。
兎に角叫んだ。
喉が枯れるまで。
声が出なくなるまで。

意識が、途絶えるまで。





目を覚ましたとき、唯は病院のベッドの上に居た。
何も考えることが出来なかった。
両親と憂が見舞いに来たときも、
幼馴染の真鍋和が見舞いに来たときも
一様に悲しそうな表情を向けてくるが
何も感じなかったし、相手の言葉も聞こえなかった。

ただ、日記だけは自然と付けていた。
あの日のことも書いた。
涙を流しながら。
それでも悲しいという感情は抱かなかった。
何も考えていなくても涙は自然と溢れた。

それからの唯は塞ぎこむような毎日を送っていた。
空虚な日々を、霞掛かった日常を、ただ漠然と流されるように。

退院後は学校へ毎日通っているものの
授業中に突然泣き出したり、叫び声を上げたりと
酷く取り乱すことが頻繁にあった。


心配した学校側はスクールカウンセラーを招致して
事故現場に居合わせた軽音部一同の心のケアに尽力した。

和も唯を心配して、心の支えになればと、
多くの時間を唯と共に過ごした。

他の軽音部のメンバーがどうなっているのか
唯は気に留めることは無かった。
同じクラスの紬は長い間欠席していたような気がする。
律は毎日登校していたようだったが、
唯と同じように塞ぎこんでいた。
澪とは廊下ですれ違ったことはあったが
互いに声を掛けることはしなかった。

それぞれ、何を思い、どれほど苦しんでいるのか
今の唯には関係のないことだった。


年が明け春になっても部室に
軽音部のメンバーが揃う事は無かった。

それでも、唯は次第に心を取り戻し
少しずつではあるが、
梓の死に向き合えるようになってきた。

紬は、冬の間保健室登校を続けて
そこで一人授業で出された課題などをこなしていた。
テストも別室で受けて
学力的には問題が無いため進級することができた。

律も唯と同じように順調に心の傷は癒えていった。
寧ろ、律の方が快復は早かったかもしれない。
春には今まで通り元気に学校へ通っているし、
唯とも自然に会話を交わすようになってきた。

澪は事故の直後に気絶して
精神的なダメージは一番少なかったが
梓の死を受け入れられず、
未だに他者と会話を交わすことが出来ないで居た。

さわ子や和、憂も不安を隠しきれずに居たが
時間が解決してくれると信じて皆の様子を暖かく見守っていた。



夏を迎える頃には
軽音部のメンバーに笑顔が戻ってきていた。

皆は互いに言葉を交わし
笑いあい、時に喧嘩をすることもあった。
心の傷は深刻だったが
誰もがこのままではいけないと思い始めたのだろう。

進路も決まり、それぞれがそれぞれの道へ進む決意をしていた。

澪は推薦で音大への進学を希望していた。
推薦状を書いてもらうにあたり出席日数を心配していたが
事故後の欠席は公欠扱いとなり
晴れて推薦状を書いてもらえる運びとなった。

唯も澪と同じ音大へと進むために
日々受験勉強に勤しんでいる。

紬は、希望の女子大へ進むため
唯と同じく受験勉強中である。

律は早々に就職して社会人になりたがっていたが
目ぼしい就職先は見つからず
専門学校へ二年間通った後に
改めて就職口を探すと意気込んでいた。


誰もが大人になろうとしていた。
しかし、誰もが何かを置き去りにしようとしていることに
薄々勘付いてはいたのだった。

これでいいのか?
このままでいいのか?
その葛藤が常に彼女達の頭の中で渦巻いていた。

夏休みを迎えようとしていたある日のこと。
律は、けじめをつけよう──と言って軽音部のメンバーを部室へ集めた。
拒否する者は居なかった。
皆、同じ気持ちだった。
同じ思いで今まで時を過ごしてきた。

律「率直に言うぞ。軽音部、どうする?」

暫しの沈黙の後、澪が口を開いた。

澪「私は、諦め切れない。もちろん、皆の気持ちを優先するよ」

律「むぎはどうだ?」

紬「私は・・・申し訳ないけど・・・」

律「わかった。唯は?」

唯「私は、私はね──」



唯は息を呑んだ。
以前にもまして長い間意識が途絶えていたらしい。


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最終更新:2010年01月22日 22:36