恐る恐るみんなの顔を見る。
紬は涙を浮かべていた。
澪は目を伏せて、ほんの少し笑みを零していた。
律は嬉しそうな顔で机に身を乗り出していた。
律「唯っ!澪っ!むぎっ!」
三人は律に目を向ける。
律「軽音部──復活だなっ!」
唯は自分が何かを言ったらしいことは理解できた。
そしてそれはきっと自分の望む言葉だったに違いない。
結局何を言ったか聞き出すことはしなかったけれど
軽音部の復活に胸を躍らせていた。
夏休みに入ると、受験勉強と
最後の学園祭ライブへ向けての練習のため
軽音部のメンバーは毎日部室に集まっていた。
あの幸せだった毎日を取り戻したように思えた。
そんな中で時々梓のことを口にすることもあった。
悲しみの表情を見せる者もいたが
学園祭ライブを成功させることが
梓への弔いとなるのだと
皆は必死に練習した。
紬は新しい曲を作り
澪は梓への軽音部全員の気持ちを歌詞に認めた。
澪にしては珍しく、
とても儚げで、それでいて希望に満ち溢れた歌詞だった。
学園祭当日。
午後から行われた軽音部のライブは観客の涙を誘った。
最後の曲。
梓に向けたその曲の前に
軽音部一人一人が梓への思いを壇上で語った。
ありきたりな言葉を繋ぎ合わせただけの
拙いものだったが、
有り余る思いが込められた言葉だった。
演奏が始まると
皆は思い思いに楽器を奏でた。
とても自由な演奏だったけれども
決してバラバラではなかった。
軽音部の強い絆がその演奏には込められていた。
澪も唯も堪え切れない感情に声を震わせながら歌った。
皆が涙を流していた。
涙を流しながらも楽しそうに、嬉しそうに
梓と過ごした時の思い出を
音に変え、響きに変え、声に変え、
講堂にいる全員にその思いを伝えた。
最高のライブだった。
ライブを終えた後の皆は
清々しい表情をしていた。
もう、何も思い残すことは無いと
漸く、区切りをつけることができた。
皆はそれぞれの道へ向かう。
推薦入試を受けた澪は一足早く合格の報せを受けた。
唯、紬、律の三人も合格発表まで不安な毎日を送っていたが
無事合格することができ安堵していた。
その後は合格祝いにと
軽音部の四人と和、憂、さわ子が集まり
ささやかなパーティーを軽音部の部室で行った。
和「それにしても、唯が大学生かぁ。なんか思ってもなかったわ」
唯「むっ。酷いよ和ちゃん。私だってやるときはやるんだから」
和「そうね。ごめんごめん。澪と一緒の大学だっけ?」
澪「ああ、自宅からじゃ通うのは難しいだろうから、
唯とアパート一緒に借りて住もうかって話なんだ」
律「お二人さん、同棲ですかぁ?」
澪「馬鹿っ。んなわけあるかっ」
紬「ルームシェアですね。憧れちゃいます」
律「憂ちゃんは寂しくないの?」
憂「大丈夫です。毎日でもお姉ちゃんの所に通いますから」
澪「いやいや、毎週くらいにしておきなって」
澪「そうそう、唯ってば弦楽専攻を選んだんだけどさ」
和「ああ、ギターが出来ると思ってたのね」
唯「そうなんだよぉ。そしたらバイオリンとかチェロとかでさぁ」
和「説明会で聞かなかったの?まぁ唯のことだから想像できるけどね」
澪「いいんじゃないかな。同じ弦楽器だし、唯も一から勉強しなおす方がためになるだろ」
律「澪は作曲専攻だっけ?作詞教えてもらった方がいいんじゃないのか?」
澪「うるさいな。詞は本人の思うように書けばいいんだよっ」
軽音部の部室に笑い声が響く。
さわ子「さぁ、皆。乾杯するわよっ」
律「さわちゃんが飲みたいだけだろっ」
紬「まぁまぁ、乾杯しましょう」
律「おっしゃっ。じゃぁみんなの合格を祝ってっ!」
──乾杯!
※
唯はその時の事を今でも覚えている。
思い返すと、唯の記憶が途切れる症状が最後に表れたのもその時だった。
卒業式が終わり校庭で卒業生は互いに別れを惜しんでいた。
唯は校舎を見上げながら歩いていた。
軽音部の部室が見えるところまでくると足を止め
耳を澄ました。
──聞こえるよ。あずにゃん。
──あの時の演奏が。
──私の記憶には無いけれど、あずにゃんと最後に演奏したあの曲が。
暖かい涙が頬を伝う。
──なんて声を掛けたらいいんだろうね?
──さようなら?
──ううん、行って来ます。かな?
その時、部室の窓際に唯は人影を見た。
背の低い、長い黒髪の女の子。
唯が手を振ると、女の子もこちらに手を振り返してきた。
女の子が笑ったような気がした。
唯も笑い返すと、女の子は消えてしまった。
律「お~い。唯~っ」
律の声を聞いて振り返ると
軽音部の皆が、憂が、和が
そこに居た。
律「みんなで写真撮ろうぜ」
唯「うん」
唯が頷いた瞬間に意識が途切れた。
律「どうした?唯?」
唯を心配して律が顔を覗き込んでいた。
唯「なんでもない。撮ろうよ写真」
律「ああ、そうだな」
律は憂にカメラを渡して
軽音部の部室が見える校舎を後ろに
軽音部のみんなと和を交えて並んで立つ。
憂「みなさ~ん。笑ってくださ~い」
憂の掛け声に皆は最高の笑顔を見せた。
それが高校生最後の写真だった。
第一部 完
※第二部
卒業式の日を境に唯の記憶の途切れる症状は無くなった。
あれから一年以上経った今では、
そのことも忘れてしまっていた。
日記も、大学生活の楽しさからか、
症状の出ないことを安心してか
何時しか書くことも無くなり
卒業式までの日記だけを思い出として
ダンボール箱の中に仕舞っていた。
唯は入学祝いに両親から贈られたバイオリンを弾いていた。
ギターをやめてしまった訳では無かったし
弾き方を忘れることも無かった。
今までのように一つのことに熱中する性格は変わらないが
ギターだけではなく、弦楽器全般、ひいては音楽全般と幅を広げて
その情熱を注いでいた。
同じアパートの一室に同居する澪と共に
週末には路上で演奏したりもする。
ただ、エレクトリックギターやベースでは電源の問題やアンプを運ぶのも困難だったため
澪はアコースティックギターに切り替え
唯はバイオリンと、今までとは毛色の違う演奏をしていた。
初めのうちは、澪は恥ずかしがって音を奏でるだけだったが
次第に慣れはじめたのか、歌詞を書いて
澪がボーカルとして歌を歌った。
足を止めて聞き入る人も居た。
日によっては閑散とした有様ではあったが
演奏する楽しさで気にならなかった。
また、軽音部の皆と演奏がしてみたい。
そんな思いも唯の中にはあったが
最近は昔の仲間に連絡を取ることも無かった。
和とはメールのやり取りがあったが
律と紬は今、何をしているのか近況すら知らずに居た。
澪に律の様子を聞いたこともあったが
顔を曇らせているのに気づいて以降は律の話をすることをやめた。
夏休みに入り大学が休講になると
唯は実家へと帰省した。
憂「お姉ちゃんお帰り」
唯「ただいま、憂」
久しぶり、といっても毎週唯のアパートに通う憂の顔だ
懐かしいとは思わなかった。
唯は故郷に帰ってきた懐かしさを湛えた感慨に浸りたいと思っていたが
諦めざるを得なかった。
憂は今年地元の大学に進学した。
少し大人びて見える憂に少しだけ寂しさを感じたこともある。
彼氏でもできたのかと本人に聞いた事もあったが
そんな暇は無いと、ばっさりと言い切った。
足しげく2時間掛けて唯のアパートに毎週通っているのだ
確かにそんな暇も無いだろうと思う。
唯「お父さんとお母さんは?」
憂「何時ものことだよ」
この時期両親はお盆休みを取ると
何時も二人で旅行しているのだった。
ふと憂が寂しいのではないかと思ったが
そのために自分が帰省したことを思い出した。
その日は、姉妹水入らずの時を過ごした。
久しぶりに地元の商店街に行くと大分様変わりしていることに
驚きを隠せなかった。
諸行無常などという本人にもよくわからない言葉が頭に浮かぶ。
変わっていくんだなとしみじみと感じた。
唯にとって嬉しいこともあった。
唯の行きつけだったアイス屋は今も変わらず残っている。
一瞬、あの時のことを思い出して
取り乱してしまうのではないかと不安にもなったが、
心が揺れ動くことは無かった。
梓のことはあの学園祭ライブで区切りをつけたのだと
今更ながらに実感した。
憂と肩を並べてベンチに腰を下ろしてアイスを舐める。
憂「お姉ちゃん大学はどう?」
唯「うん、楽しいよ」
憂「路上で演奏してるんだって、澪さんから聞いたよ」
唯「憂も聞きにきてよ」
憂「うん。必ず行くね」
こうしていると高校の時を思い出す。
帰りに食べた変わらぬアイスの味がそうさせるのだろうか。
他の皆は今何をしているのだろう。
唯「憂、りっちゃんが今何してるか知ってる?」
憂は顔に暗い影を落とす。
憂「少し前まではね。たまに遊びに連れてってもらったりしてたよ」
唯「今は?」
憂「連絡取ってない。直接聞いたわけじゃないけど学校も辞めちゃったみたい」
唯「そう・・・」
律の性格からして、今まで唯は特に心配などはしていなかった。
それでも、あの時の澪の顔や今の憂の表情を見ると
唯も不安になってきた。
何があったのか、一度本人と会って話をしなくてはいけないのではないか
もし、自分に出来ることがあるのなら律に手を貸してあげよう。
唯「りっちゃん、今どこにいるかわかる?」
憂は小さく頷くと携帯電話を開いて唯に渡した。
携帯のメモ帳には律の住所が入力されている。
どうやら、自宅ではなくアパート住まいのようで
それほど遠くに住んでいるわけでもなかった。
行ってみよう、唯はそのデータを自分の携帯へ転送すると立ち上がった。
唯「憂、私行ってくるね」
憂は不安そうな目を向けてきたが何も言わなかった。
唯「夕食までには帰ってくるから」
そういい残して唯はバス停へと歩を進めた。
唯は律の住んでいるであろうアパートの前に来ていた。
どこにでもある、マンスリーアパートだ。
部屋は201、唯は外階段を上り
部屋の前までくると少し考える。
何を言えばいいのだろう。
律の現在の様子は何も知らされていない。
突然押しかけたことで気分を害してしまうかもしれない。
もしかしたら、誰かと同棲している可能性もある。
しかし、幸せならそれでいいのかもしれない
唯には邪魔をすることなど出来ないし
本人が望むならそのままでも・・・。
唯は備え付けられたインターホンを押す。
声は聞こえなかったが、中から物音が聞こえてきた。
鍵が外れ、ドアが開いた。
扉から覗かせた顔を見て唯は驚いた。
亜麻色の髪には白いものが雑ざり
顔の皮膚は弛んで皺が目立つ
瞼は赤く、目の下には隈が出来ていた。
しかし、それでも面影はあった。
紛れも無い、律の姿がそこにはある。
唯「り、りっちゃん・・・」
律は、唯の顔を一瞥しただけで
何の表情も見せなかった。
ただ一言、入れよ──とぶっきらぼうに言った。
唯は玄関に足を踏み入れる。
饐えた臭いが鼻を衝いたが
努めて顔には出すまいとした。
ワンルームの室内は荒れ果てていた。
フローリングにはゴミが散らかり放題で
キッチンシンクには食器や残飯が溜まっていた。
律は万年床になっているらしい布団に腰を下ろすと
適当に座れと言って唯を促した。
唯は足の踏み場も無い床の上から
雑誌やペットボトルなどのゴミを退けて
一人分のスペースを確保すると小さく座った。
律「で、なんか用?」
唯は何を口にすべきか迷ったが
率直に聞いてみた。
唯「りっちゃん、何があったの?」
律「はっ、そんなことを聞きにわざわざ来たのかよ」
唯「だ、だって・・・」
律「別になんもねーよ。学校辞めて引きこもってんだよ」
唯はさっきまで律の変わり果てた姿から
目をそらしていて気づかなかったが
よくよく見ると、律の手首には何本もの赤黒い線がある。
リストカットの痕だ、自殺でもする気だったのだろうか
律は唯の視線に気づくと、
手首の傷を唯に見せて言った。
律「そんなに珍しいか?」
律「普通に生きてる奴にはわかんねぇだろうな」
投げやりだった。
律は自棄になっているのだ。
唯が黙っていると律は自分から語りだした。
律「バンド組んでたんだよ。学校の友達が紹介してくれてさ」
律「その友達の知り合いがライブハウス経営しててそこで、何度か演奏もさせてもらったよ」
律「私が組んでたバンドなんだけどな」
律「最高だったよ。最高にクレイジーだ」
律「馬鹿みたいにギターじゃんじゃん鳴らして、馬鹿みたいに絶叫して」
律「何でそんな演奏が出来るんだよって聞いた」
律「お前もやるか?って言われて──」
唯「りっちゃんまさかっ!」
律は袖を肩まで捲り上げると唯に見せた。
赤い斑点、ところどころ鬱血して青くなっている。
小さな瘡蓋。
さらには、爪で引っかいた痕もあった。
傷だらけになった腕。
きっと心も傷だらけなのだろう。
唯「ねぇ・・・病院、行こう?」
律「はぁ?何いってんだよっ馬鹿かお前はっ! んなとこ行ったら警察に連絡されるに決まってんだろうがっ!」
律「それとも何か?お前は私が警察に捕まってもいいと思ってんの?」
唯「違うよっそんなことない・・・でも・・・クスリなんて・・・駄目だよ」
律「いい子ちゃんぶりやがって、お前はいいよな」
律「知ってるぜ、澪と一緒に路上演奏やってんだってな」
律「そんなんで満足してるんだから幸せだよなっ」
唯「私と澪ちゃんはそれで満足してるって訳じゃ──」
律「じゃあなんだよっ!プロでも目指してるって?笑わせんな」
律「バンドも組まずにデュオでプロデビューかお目出度いねぇ」
唯「私だってずっとバンド組みたいって思ってたよっ 今だって、あの頃のメンバーで・・・」
律「だったらっ!だったら何で私を誘わなかったんだよっ!!」
律は怒りを顕にした。
唯には返す言葉も無かった。
路上で演奏するのにドラムセットを運ぶことは出来ない。
同じような理由で、澪はアコースティックギターに
唯はバイオリンを選んだのだ。
ライブハウスでの演奏も頭にはあった。
ただ、最近ではチケットの売り上げが
ライブハウスの使用料を下回ることの方がざらだと聞いて
澪は路上での演奏でファンを増やしてから
本格的なバンド活動を始めようと言っていた。
クラシックな演奏からバンド演奏に切り替えたとき
ファンが付いてくるだろうかとの不安もあった。
それでも、澪は自信を持って答えたのだ。
──私達の音楽を好きで聞いてくれるんだ。大丈夫だよ。
そして、その時には──律と紬に声を掛けようと。
最終更新:2010年01月22日 22:40