際立った特徴のない住宅街の一角。

 右手で傘を差し、左手で水玉模様の入った小さな紙袋を胸の前で大事に抱え、田井中律は白い息を吐きながら歩いていた。

 街には雪が降っていた。ゆらゆらと風に揺れながら、一枚の羽根のように重さを感じさせない挙動で、それは鉛色の空から地上に向かって舞い降りてくる。

 でも、それがどこへ向かっているのかは律にはわからない。

 なにせ自分がどこへ向かって歩いているのかさえわからないのだから、雪がどこに向かって落ちているかなんて律にはわかるはずがなかった。

 まるでロボットになったかのように、両足が機械的な動きで交互に地を蹴っていく。

 その反復運動は意識的ではなく、殆んど無意識的に行われていて、地面を蹴る感覚さえない。

 視覚によってかろうじて自分が歩いているのだと、地を蹴っているのだと理解することができたが、実感することはできなかった。

 他人の身体に意識だけが乗り移ったかのように、自分の感覚はそこに存在しないようだった。

 それにここは、この世界はやけに現実感がないように律には感じられた。すべてがはっきりしない。

 広げられた右の掌に落ちたひとひらの雪。それを握り締めて開くと、そこにはもうなにも、なにものも存在しない。すべてが薄く、すべてが曖昧だった。

 雪が降っていることから季節は冬であるはずなのに、寒さも感じることがない。

 気温というものも、律にはあるのかないのかわからない。

 視界もぼんやりとしていた。

 けれど、足の裏を通して地面を実感できなくても、雪の降る冬の寒さを感じられなくても、視界が結露が生じているかのようであっても、それらを特に気にかけることはなかった。

 それが当たり前であるかのように。

 依然として降り続ける雪のように、自分がどこを目指して歩いているのかということさえ律は理解していなかったが、それでも歩みに迷いはなかった。

 人気の全く無い道路をなにかに引っ張られるように淡々と進んだ。

 いつしか律は、とある一軒家の玄関の前で立ち止まった。

 車一台分の駐車スペースを有する二階建ての一軒家。

 ここになんの用があって来たのだろうか。

 そんな疑問も、今の律には沸いてはこない。

 思考能力が正常ではないのだ。

 雪はいつの間にか降り止んでいた。

 が、やはりというべきか、律は気づいていなかった。

 突然、今の季節には不似合いなセミの鳴声が聞こえてきた。

 ――セミ?

 声には出さなかったものの、律はセミの鳴声には素早く反応した。その姿を確認しようと、ぐるりと周囲を見回す。

 が、どこにもセミは見当たらない。

 律の目に映った景色は暗色に満ちた冬のそれで、セミの存在など微塵も感じとることができないものだった。

 冬であれば地中にいるはずなのだから、セミがいないのは当然と言える。

 では、今のは錯覚だったのだろうか。

 疑問を深める間もなく全身に強烈な熱気を感じ、右足首には痒みが走った。

 どこか鈍感になっていた律もこれには驚いて、痒みのある足元に視線を落す。

 傍でガチャリと金属音が鳴り、軋んだ音がした。

 扉の開く音だ。

 律の視線が徐々に開かれていく玄関扉をとらえようとする。

 そして、不意に目をつむる。

 次に瞼を上げたとき、玄関扉は真っ白な天井に変わっていた。

 見慣れた天井だった。

 それもそのはず、その天井は自分の部屋のものなのだから見慣れていて当然だった。

 どうやら今まで夢を見ていたらしい。

 既視感のある、どこか懐かしさを感じる夢だった気がする。

 どんな夢か思い出そうとしても、イメージが上手く浮かび上がらないのが律には残念だった。

 窓辺に吊るされた風鈴が涼やかな音色を響かせている。

 だが、それで涼しさを感じとれというのは、今の律にとっては無理難題な話だ。

 部屋のなかはサウナを思わせるほどの熱気で満ちていて、今の状態であれば火に包まれていても気づかないかもしれないぐらいに身体が熱いのだ。

 外からは風と共にセミの不協和音が部屋へ流れ込んできて、風鈴の音を邪魔していた。

 夢の中で聞こえてきたのはこれが原因だな、とため息を吐く。

 ベッドから重たい身体を半身だけ起こして、律はなんとなしに部屋を見回した。

 起きたばかりの所為か、仏像のような半眼の状態だ。

 あれ? あたし、なにしてたんだっけ?

 ぼんやりしながらも、寝るまえに自分がなにをしていたのか、眉間にシワを作りながら思い出そうとする。

 そして、欠伸を二度ほどした後にようやく思い出した。

 メールの返信を待っていたのだ。

 そのメールを待っているうちに寝てしまったのだろう、と律は置かれた状況を理解する。

 きょろきょろと目を巡らせて携帯電話を探す。

 携帯は枕元にあった。

 手にとって画面を確認すると、メールを受信していることを知らせるアイコンが画面に表示されていた。

 どうやら寝ている間にメールが届いていたらしい。

 受信フォルダを開き、先頭に来ているメールの差出人の名前を見る。

 差出人は秋山澪

 澪は部活仲間であり、律の一番の親友だ。

 そして、メールの返信を待っていた相手でもある。

 手馴れた指捌きで澪のメールを開いて文面を見る。


「はぁ……」

 メールの内容を見て思わずため息を漏らしてしまった。

 夏休みも終わりに近づいている今日。

 本来なら高校三年生である律は受験を見据えて勉強をしているところであったが、連日の勉強漬けと猛暑のダブルアタックにすっかりやる気が失せていた。

 そこで気分転換に遊ぼうと、澪に誘いの電話をしたものの繋がらず、代わりにメールを送ったのだが、ため息から判るとおり返信のメールは誘いを断る旨のものだった。


「つまんねっー! あっついし……」

 遊び仲間を一人失ったことにがっかりして、ベッド上で独り言つ。

 肩を落としながら携帯で時間を確認すると、現在の時刻は十五時を過ぎていた。

 今から澪以外の人を誘ったとしても、直ぐに日が暮れてしまうだろう。

 それに都合よく暇を持て余してる人がいるとは律には思えなかった。

 が、ふと一人の友人の顔が頭に浮かんだ。

 平沢唯

 秋山澪と同じく律の部活仲間であり友人である。

 いや、今では親友と言っても差し支えないほどの仲になっているはずだ。


 ――唯なら暇そうだな。

 居間でごろごろと寝転がっている唯を思い浮かべて律は思った。

 不真面目な性格とは言わないが、この暑さの中で真面目に机に向かって勉強している図は想像し難い。

 唯は冷房が苦手なのでエアコンもつけられない。

 恐らくは干からびたカエルのように今も伸びているはずだ。

 携帯の画面に電話帳を表示し、唯の電話番号に発信する。

 携帯に耳を当てて唯が出るのを待った。

 しかし、唯は一向に出てこずに留守電音声が流れてきてしまった。

「留守かよ…………ま、いっか」

 律はあっさり遊び仲間を募ることを諦めてベッドから立ち上がる。

 ――大事な用でもないしわざわざ呼び出すこともないか。予想と違って真面目に勉強してたら悪いしな。

 欠伸をしながら伸びをして身体を軽くほぐし、携帯をテーブルに置いて部屋から出た。

 一階へ下りてみると人気がなく、物音一つ聞こえてこない。

 それとは反対に、大量の目覚まし時計が鳴り響くように蝉時雨が家の中まで聞こえてきていた。

 リビングにも家族の姿はなかった。

 喉が渇いていたので、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出してコップへ注いで飲んだ。

 寝起きの胃にひんやりとした刺激が走り、熱を帯びた体が微かに冷めていく感覚。

 もう一度注いで飲み、麦茶を冷蔵庫へ閉まった。

 右足首の痒みが気になったので見てみると、予想通りと言うべきか蚊に刺されていた。

 痒み止めを持ってきて、右足首の患部に何度か塗布する。

「寝ているときに刺すなんて卑怯だよなぁ。刺すなら刺すで正々堂々と真っ向勝負しろっての」

 体格差を考えればあってもいいハンデだったが、文句を言わずにはいられなかった。

 乙女の柔肌の価値は高いのだ。

 このぐらいの文句は言ってもいいだろうと律は思う。

 痒みに顔をしかめながら、患部に爪で十字の痕をつけてみる。

 こうすると痒みが和らぐ気がして、刺されたときはよく痕をつけるのだ。

 洗面所行ってトイレに入り、洗顔もした。

 先ほどの麦茶ほど水は冷たくはなかったが、涼しさを感じるには十分にひんやりとしていて心地良い。

 濡らした顔をフェイスタオルで拭いて、律は鏡に映る自分に意味もなく笑いかけてみる。

 鏡の中の自分が乱れた髪も気にせずに笑い返してくるのを見て思わず苦笑してしまう。

 乱れた髪を手櫛である程度整えて、洗面所を後にした。

 あまりにも家の中が静かなので部屋を回ってみたが、母親と弟の姿は見当たらなかった。

 どこかへ出掛けたのだろう。

 リビングに戻って扇風機の前に座った律は、扇風機のスイッチを入れた。

 人工的な風が律の顔を煽ぎ、短めの髪を揺らす。

 そして、定番でありお約束の行動をとる。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛~~~~」

 だれもがやったことがあるはずだ。

 扇風機に向かって声を発すると、声が震えて聞こえるという科学現象。

「実に面白い! じゃなかった……ワ・レ・ワ・レ・ハ・ウ・チ・ュ・ウ・ジ・ン・ダ」

 もちろん、ここにいるのは探偵ガリレオでも宇宙人でもない。ただの女子高生だ。

 ふくらみのない胸のところまでTシャツをまくって、人気グラビアアイドルの半分にも満たないセクシーさを醸し出しながら声を発し続けた。

 あ行を一通り言い終わって、やっと満足して口を閉ざす。

 体は一連の冷却作業によって随分と涼しさを感じるようになっていた。

 だが、まだ足りないものがあった。

 アイスだ。

 アイスを食べることで、この冷却ミッションはコンプリートされるのだ。

 立ち上がって再び冷蔵庫のもとへ。

 冷蔵庫を開ける。

 が、アイスはどこにも見当たらない。

 この夏の真っ盛りにアイスが置いていないのは一大事だ。

 生命の危機だ。

 アイスがなければ地球温暖化に拍車がかかってしまうぐらい大変だ。

 それは嘘だが大変であることには変わりない。

 しかし、外に買いに出るということは熱波の攻防最前線よろしく、セミの小便爆撃の嵐をかいくぐり、直射日光オン紫外線の無限照射に耐えなければならない。

 果たして、今の自分にこの高難易度なミッションが完遂できるのか。

 頭を抱えながら律は自問する。

 結論。

「無理だな……てか嫌だ」

 アイスよさらば。

「いや……この暑さの中で勝ち取ったアイスは、グランドラインを踏破して手に入れるワンピースと同じようなもんだ! アイスよ、待っていてくれ」

 暑さで頭がやられたわけじゃなく、家に一人残されて寂しいというわけでもなく、ましてや某少年漫画を思い浮かべてハイテンションになったわけでも当然ない。

 そこにアイスがあれば、人は演技せざるを得ないのだ。

 というのは嘘で、家に居ても特にやることがないし、それなら少しでも外で出て暇つぶしの足しにした方が良いと律は思ったのだ。

 部屋に戻って外着に着替えて外出の準備をする。

 愛用のカチューシャを仕上げに装着して準備万端。

 少年漫画の某白バイ警官は愛用バイクに跨ると人格が変化するが、律の場合はカチューシャを装着しても人格はそのままだ。

 だが、カチューシャを着けると太陽拳を繰り出しそうなほど額の露出面積が増える。

 太陽光発電さえできそうな具合にだ。

 人間ソーラーシステムここにあり。


 部屋の窓を閉じてから、テーブルに置いてある携帯を手に取った。

 新着のお知らせはなかった。

 それ自体にさして驚きはない。

 ただ、だれかが暇つぶしに手を貸してくれるんじゃないかという淡い期待はあったので、少し残念ではあった。

 家の戸締りを簡単に確認して玄関へ。

 家から一歩踏み出したら、そこはもう戦場だ。

「準備はいいか? 律隊員」

 その問いに頬を緩めながら首肯する。

 ドアノブを掴んで、回す。そして押し開く。

 律は扉の向こうに広がる夏の住宅街へと飛び出した


 外に出てすぐに、突き刺さるような陽射しを浴びた。

 これぞ日光浴、と暢気には言っていられないほど力強い陽射しが容赦なしに肌に照りつける。

 海に行けば多くの人間が、この太陽にありがたがって肌を焼いているところを見られることだろう。

 けれど、今の律にとっての太陽は敵以外のなにものでもなかった。

 海を目指しているわけではないのだ。

 目指すは都会のオアシスであるコンビニ。

 ミッションその一の直射日光は、我慢して耐えるしかない。

 ではミッションその二はどうか。

 セミの小便爆撃を切り抜ける。

 これは問題なかった。

 路上に覆い被さるような木がないので、直撃する可能性は零に等しい。

 棒アイスの当たりが出る確率より低そうだ。

 万が一直撃なんてことがあったら、己の不運を嘆くしかないだろう。

 律は路脇を歩きながら、限りなく広がる夏空を仰ぎ見る。

 空の色は力強い青で、大きくて雄大な雲がその中を気持ちよさそうに泳いでいた。

 家を出てから、どれだけ時間が経っただろうか。

 首の裏や背中に汗が噴き出してきて、シャツが背中にぴたっと張りついてくる。

 真昼間の気温と比べれば、現在の気温は少しは下がっているはずだが、この暑さでは一度、二度下がったところじゃ違いを体感できないみたいだ。

 風も吹いてはいるものの、生温いとあっては用を成さない。

 アスファルトの照り返しも厳しい。

 まるで地球全体がサウナになって、その中にいるようだった。

「生き地獄ってこんななのかな」律はぼそりと呟いた。

 蜃気楼にまみれた道を、おぼつかない足どりで律は進みつづける。

 オアシスはまだ遠い。

 砂漠で遭難者がやっとの思いでオアシスを見つけたとき、どのような気持ちで眼前の光景を眺めるのだろうか。

 コンビニの看板を目でとらえたとき、律はそんなことを考えてしまった。

 やっとのことで辿り着いた国内大手のコンビニチェーン『ハイソン』。

 これまでにこのコンビニは現代の遭難者をどれだけ救ってきただろう。

 この国に住んでいるだれもがハイソンを利用し、「ハイソンバンザーイ!」とコンビニユーザーに言わしめるほどのコンビニなのだ。

 その数は尋常ではないはずだ。

 今の律は大声で「ハイソンバンザーイ!」と叫びたい気分だった。

 もちろん、実行には移さないが。

 コンビニの駐車場に足を踏み入れ、入り口へ向って歩く。

 そのとき、たまたまよく知った人物を発見してしまった。

 雑誌の陳列棚の前で澪が立ち読みをしていたのだ。

 しかし、ここで一つの疑問が出てくる。

 澪は用事があったはずなのだ。

 どうしてこんなところにいるのだろう。

 律は首を傾げながら自動ドアを開ける。


 店内は冷房がよく効いていて、汗が急速に冷やされる感じがした。

 律は気づかれないように注意しながら澪の背後へと忍び寄る。

 さて、どうやって驚かせようかと一瞬思案し即決。

 ここはベタに抱きついて脅かすことにした。

「なーに読んでんの?」と言いながら、澪の肉付きの良さそうなお腹回りに両手を回す。

「っ!?」澪は驚いたのか驚いていないのか曖昧な反応で、背筋をぴんと張っただけだった。

「澪?」

 全く反応しないのでもう一度声をかけてみたものの、それにも反応はない。

 お腹に回していた両手をほどいて、横に立って表情を窺うと、目と口を開けたまま澪は固まっていた。

「おーい、生きてるかー?」


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最終更新:2010年09月02日 23:35