その声に反応してか、ホラー映画の中で西洋人形がひとりでに首をかくかくと回してカメラ目線になるように、澪もゆっくりと、きわめてゆっくりと首を回して律に顔を向けた。
よく見ると目は笑っていないのに、口元は薄っすらと笑みを浮かべていた。
ホラー顔のまま、口がわずかに形を変える。
「おは、よう」
「うっ……もうすぐ夕方なんだけど」
澪の声のトーンがいつもより低くて、律はちょっとたじろいでしまう。
「そ、そっか」
硬かった澪の表情にようやく動きが出てくる。それでもまだ別のことを考えているような顔ではあった。
「んで、用事は終わったの?」
「よ、用事ってなんのことだ? わたしはなにもしてないぞ」
なにに動揺しているのかわからなかったが、澪の視線が泳ぎに泳ぐ。
「メールで言ってただろ。今日は用事があって遊べないって」
「え、あ、ああ、あれね。た、たまたま用事が早く済んだんだよ」
「ならさ、いまから家に来ない? 一人だと暇でさぁ」
「いま、から……だ、駄目。行けない」
「はあ? もう用事ないんだろ。だったらいいじゃーん」
律の軽い口調に対して、澪は俯いて目を逸らした。
さっきから澪の喋りはどこかぎこちない。
いつもなら気だるそうに相手をしてくるか、少しでもボケればツッコミが飛んでくるのに、それも今は期待できそうにない。
「今日は駄目」
「なんで? まだなんかやることあんの? 別に澪の家でもいいよ」
「とにかく今日は駄目。そのかわり……」
「そのかわり?」
澪は手に持っていた雑誌をラックに戻し、身体ごと律に向き直る。
そして、胸の前で両手をグーにし、声を身体の内側から絞り出すように澪は言い放つ。
「明日! 明日は絶対に律の家に行くからっ!」
「え、あ、うん……」
先ほどまでとは打って変わって、はっきりとした口調だった。おそらく店中に聞こえただろう。
その声音に思わず驚いて、相槌を打つだけになってしまう。
「だから明日は必ず家に居てくれ!」
「わ、わかった……」
「大事なことだから……さ」
大声を出したと思ったら、今度もまた伏し目がちになる澪。
床を観察する趣味なんてないはずだし、ピカピカに磨き上げられた床には汚れだって見当たらない。
つまり声をかけてからの一連の妙な仕草にはなんらかの意味があるはずだ。それは予想するに、
「もしかして……澪さぁ」
「へっ?」
律はいまや「謎は解けたよワトソンくん」とでも言い出しそうな、悟った顔をしている。
それを見てなにを思ったのか、澪が顔面を引きつらせる。
「か――」
「うわあわあああああああああ!」
「なんだよ、まだなにも言ってないだろ」
「い、言わなくていいんだよっ」
「かっぶぶぶっ!」
「だから言うなあああっ」
二度目の発言も、澪によって律の口が塞がれ阻止される。
だが、律もこのままでは終われない。
口を塞ぐ澪の両手をどうにか剥がそうと必死に抵抗しながら、無理矢理にでも声をあげようともがく。
「かっぶぶぶぶっばっかっばぶっぶぶぶっばっ!」
「やあああああめえええええろおおおおおっ!」
女子高生二人組みによる一進一退の謎の争いに終止符を打ったのは、見ず知らずのおばさんだった。
「お客様ぁっっ!!! お! し! ず! か! に! おねがいしますぅ~」
店員の証である制服に身を包んだそのおばさんは、最後に極上の接客スマイルを浮かべてみせる。
その笑顔には次やったら容赦しねえぞという警告の意味合いが、多分に含まれている気がしてならない。
これが俗に言うプロアルバイト!?
「す、すみません!」
突如として現れたプロ店員に、先に反応して謝ったのは澪だった。
満足そうな顔をしてレジへ戻っていくプロ店員を、澪は首だけ振り返りながら見送る。
そのとき生まれた僅かな隙。口を塞いでいた手の力が緩んだのだ。
油断大敵とは正にこのことを言うのだろう。
敵の隙を突くのは戦いの基本だ。
間違っても自分は卑怯ではない、と自分を納得させた律が隙を突いて口を開く。
「澪さん、なにか隠し事をしてますわねえ。おほほほー」と冗談めかした口調で律は言ってやった。
瞬時に顔を向ける澪。
その顔は再び硬直している。
口を塞いでいた両手は、ゾンビのように宙に漂ったまま一歩遠のく。
そう澪はなにか隠し事をしているのだ。
そう考えれば、今までの不自然な言動にも説明がつく。
隠し事の内容までは見当がつかないものの、すぐに暴いてみせる。
したり顔でこの先の勝利までも確信しながら、律は目の前の澪の反応を待つ。
そして澪の口から零れたのは、
「しまっ…………」ポカーンと口を開けた間抜け面から、決定的ともとれる一言。
「ん~、なになにぃ? しまった? 今しまったって聞こえた気がするな~」
「ち、違う! そんなこと言うわけないだろ」
「じゃあなに言おうとしたんだよ」
「えっとそれは…………そ、そう! シマウマが外を歩いているなって、ははは」
「んなわけあるかっ」
旗色が悪いと感じたのか、一歩二歩と後ずさる澪は、
「じゃ、じゃあ、わたしはそろそろ帰らないと。また明日な」
いきなり別れの挨拶をすると、踵を返して外へと駆け出した。
いや、逃げ出したと言うべきか。
「あっ! おい、澪!」
律も慌てて後を追いかけて外に出る。
猛烈な熱気が身体を瞬時に覆っていき、コンビニまでの苦しい道程を想起させる。
澪は既にコンビニの敷地外へ達していた。
「澪ーっ! 待てよーっ!」
声をかけるものの澪が足を止める気配はない。
一度だけ嘆息して覚悟を決めると、真夏の追走劇を開始した。
陽は大分傾いてきていた。
「ハァ……ハァ……ハァ……ハ、ハハ…………死ぬ……」
律の姿は歩道にあった。
膝に手をついて肩で息をするのが精一杯と見苦しい姿で。
残念ながら真夏の追走劇は五分と経たずに終了した。
というのも、澪の走りは半端ではなかったのだ。
尻に火でも点けられたかのように走るは走る。
あんなに足が速かったかなと、過去の体育での走りなどを思い出そうとしたぐらいなのである(熱さで頭が働かないので断念した)。
走り負けた原因は他にもある。
蓄積疲労という奴だ。
この猛暑の中を往復するなんて(しかも片道はダッシュだし)無茶というもの。
今日の暑さの中で寝てしまった時点で勝負はついていたのかもしれない。
結局、澪を途中で見失ってこの有様だ。
いや、家に直接行くという手段もあったが、もう限界だった。
そんな気力なんて出るはずがない。
「帰ろう……」
そう力なく呟いたとき、頭に悪夢のような事実がこだました。
――アイス買ってねえ。
「なにしにコンビニ行ったんだよ……あたし」
夕方のお散歩なのか、リールで繋がれた犬が傍を通ると、まるで律を励ますように吠えた。
ここで諦めて良いのか! 諦めんなよ! おまえならできるって! そんなもんじゃないだろ!
テレビで活躍する元テニスプレイヤーの熱血指導の如き声で犬は鳴く。
だが、しかし、今の律にそんな激励は必要なかった。
なぜなら律の足はとっくに家に向かって動き出していたからだ。
「……泣きたい気分だ……」
空は夜へ向かって、様々な色が融け合いつつあった。
家に着いたときには、母親も弟の聡も帰ってきていた。
冷房の効いたリビングにぐでんとうつ伏せに転がると、ゲームをしていた聡が声をかけてくる。
「姉ちゃん、どこ行ってたの?」
それを訊くか! アイスを買いに行ったと思ったら、気がつくとアイスを買わずにコンビニを後にしていたというだれもが呆れる醜態を訊くのか!
しばしどのように答えようか思案し、最終的に決まった答えは。
「修行……かな」
「なにそれ?」
ああ、そんな哀れみの目であたしを見ないで。
突き刺さる聡の視線を両手でシャットアウト。
「なにしてんの?」
「なにもしてない」
「……暇ならこれやらない」
「はあ?」
聡の指差す先にあるテレビ画面に映っていたのは、銃を持った筋肉隆々のアメリカンな感じの白人、黒人の方々。
聡からコントローラーを突き出されては仕方ない。
律は渋々起き上がって、コントローラーを受け取る。
「なにすんの?」
「ストーリモードを二人で協力して進めるのでいい?」
「なんでもいいけどさあ。やり方わかんないんだけど、あたし」
「やってれば自然と覚えるよ」
聡がボタンを押すと、画面がぱっぱっとテンポよく切り替わっていく。
武器の選択とかなんとかは聡に任せて、いざゲーム開始。
上下に分かれた1Pと2Pのプレイ画面。
その2P側に律の操るキャラクター、マイケルとか言うマッチョな白人さんが映っている。
「敵が出てきたら撃つだけだから」とぞんざいに言う聡。
そう言われても操作方法がなかなか理解できず、カメラの視点がグルグル回ってしまう。
2Pの画面には様々な角度から映し出されるマイケルの筋肉、筋肉、筋肉、そして笑顔。
なんでこいつずっとスマイル全開なんだよ、というつっこみを律は内心入れつつコントローラーと格闘し続ける。
スタート地点から抜け出せない律を尻目に、聡は迫り来る敵を派手な発砲音を放ちながら押し退けていた。
やり慣れているのか、そのキャラクター(ちなみに名前はマイケルジュニア。でも黒人)の動きに迷いはない。
律がスタート地点からやっとのことで進み始めたころには、聡があらかた敵を倒したせいで敵と全く遭遇することがなかった。
敵(ゾンビと獣が混じったようなクリーチャー)の死体を眺めるだけのハイキングゲーム状態だ。
とうとうマイケルジュニアに追いつくことなく、画面にチェックポイント到達という文字が表示されてゲームセット。
「お、終わり?」
「もう一回やる? 今度はゆっくり進むから」
「……もういいや、なんか疲れたし」
コントローラーを投げ出して、仰向けに寝転がる。
大きくゆったりと呼吸をして、ため息一度。
「そういえば」
「総入れ歯?」
「明日どうすんの?」
さりげないボケを華麗にスルーされた。
明日? 明日なんかあったっけ? 律は眉間にシワを寄せて考える。
「どうするって、なんかあったっけ?」
「忘れてんのかよ」
「はぁ? 忘れてるってなにをだよ?」
「明日は姉ちゃんの誕生日だろ」
律の顔が未知の事柄に初めて触れたように、目を見開いて驚きの表情になる。
誕生日? なにそれ美味しいの? などと思ってるわけではもちろんない。
忘れていた。
本当に忘れていたのだ。
自分の誕生日を。
律は驚きのあまり腹筋をフルに使って起き上がってしまう。
「そういや、そうだっけ……え、ってことは今日は二十日か……」
「もう夏休み終わるからね……」
これが噂に聞く老化現象というものか。
脳細胞がプチップチッと不吉な音を立てて死んでいってる気がして、律は頭を抱える。
「今年はケーキ無しかなあ」
聡が残念そうに言った。
「明日も暇だろうし、ケーキぐらいあたし……が……」
「どうかした?」
そうか。そういうことか。
律は右拳をグッと握って、口元をニヤリと大きく歪める。
「謎は解けたよ、ワトソンくん」
「ホームズ……?」
腕組みをしながら、しばし考え込む。
――謎が解けた今、このままサプライズを黙って待つのは面白くないな。ここはそう、裏を掻いて相手を驚かそう。そうなると味方が欲しい。
律はテーブルに置かれた携帯を手に取って、電話帳を表示する。
画面には一人の軽音部員の名前。
「作戦開始っ」
こうして通話ボタンのプッシュと同時に、律の逆サプライズ作戦が始まった。
***
スタンドミラーの前で、
秋山澪は身だしなみを確認していた。
色々な角度から自らの姿を見ようと身体を捻ったりする度に、その腰まで届きそうな長さの黒髪がさらさらと揺れる。
本日、八月二十一日は親友である律の誕生日だ。
そのためにここ数日かけて、律には秘密で軽音部の仲間たちとプレゼントを買いに行ったりした。
すべては律の脅く顔を見るために、そして喜ぶ顔を見るために、サプライズで誕生日会を開くのだ。
誕生日を祝うだけなら、わざわざこんな回りくどいことをせずとも祝えるが、高校生最後の誕生日をありきたりな形で終わらせるのは勿体ない。
澪がこの思いつきを話すと、軽音部の面々も快く賛同して、今日まで秘密を共有しながら隠し通してきた。
それだけに昨日の出来事に澪は肝を冷やした。
唯の家で作戦会議をした帰りに寄ったコンビニで、突然背後から律に抱きつかれたときは心臓が止まるかと思ったものだ。
あげくの果てには隠し事があると指摘までされてしまった。
でも隠し事の中身まではわかっていないだろうと澪は思う。
サプライズなのだから、秘密は秘密でなければいけない。
一通り身だしなみのチェックを終えて、鏡に向かって笑いかけてみた。
鏡に映る澪はどこか眠たげな顔をしている。
昨夜は熱帯夜で熟睡とはいかなかった。
お休みタイマー設定のエアコンと扇風機を併用して寝たものの、結局は暑さに耐えかねて予定より早く起きてしまったのだ。
おかげで澪はあまり寝た気がせず、今もすこし眠かった。
その一方で浅い眠りのなか見た夢がとても心地よいものだった。
目が覚めたときにはもっと見ていたかったと澪は思ったくらいだ。
どんな夢だったかはもう思い出せないのだが。
「ふぁ~~~~」
カバのように大きな欠伸が鏡に映る。
「眠い……」
眠気を振り払うように首を左右に振ってみるが、当然のように眠気は取れない。
眠気と戦うことは諦めて、自分の部屋に荷物を取りに行く。
律へのプレゼントが入っているトートバッグを肩にかけて準備万端。
一階に下りて、台所にいる母親に、
「ママ、ちょっと律の家に行ってくる」と行き先を告げて家を出た。
八月も終わりに近づいてきたというのに、外は相も変わらず脳天を灼くような直射日光と蒸した熱気が健在だ。
そのことが、まだ夏の真っ只中であるということを強く実感させる。
誕生日会の参加者である唯、紬、梓の三人からは既に家を出たという連絡があった。
あとは律の家の近くで合流して、乗り込むだけだ。
澪が家を出てから五分ほど経ったころだった。
最終更新:2010年09月02日 23:37