しかし、遅すぎたのだ。

唯「ごめん。ごめんね、りっちゃん」

唯はただ謝ることしか出来なかった。

律「いいよ」

唯は、律の言葉の意味を求めて顔を見る。
律は、頬を引き攣らせながら歪な笑顔を作っていた。

律「いいからさ。唯、金貸してくんね?」

唯は落胆した。
その金を何に使うのかは明らかだった。
今までどうやってお金を工面していたのかはわからない
それがとうとう昔の友人に金をせびるまでになってしまったのだ。

唯「りっちゃん、だめだよ」

律「何でだよ。ちゃんと返すからさ」

唯「お願いだから・・・」

律「なぁ助けてくれよ。クスリ切らして気分悪いんだよ」

唯は首を振る。

律「そ、そうだ。唯にもやらしてやっからさ」


律「いいだろ?最高にハイな気分になれるんだぜ?」

辛かった、昔のような明るく元気な律の姿はそこには無い。
律は目を見開き焦点の合わない瞳を漂わせる。
唯には、こんな狂人じみた目を向ける律が酷く醜く思えた。

唯は立ち上がる。
もう、ここに居る理由が無い。
唯が玄関へ足を向けると、律は怒鳴り声を上げた。
何を叫んでいるのか内容は聞き取れない。
物が壊れる音もした。
唯は振り向くことはなく、玄関の扉を開くと外へ出た。

──私達友達だろっ!

最後にそれだけは聞き取ることが出来た。
唯はその空虚な残響を部屋に閉じ込めるように扉を閉めた。


夏が終わりを迎えても
律の事が頭から離れることはなかった。

結局唯は警察には連絡しなかった。
酷く罪悪感に悩まされることになったが
友達を警察に突き出すことなど出来ないのだと、
してはいけないのだと都合のいい理由を取り繕った。

紬はどうしているのだろう
律のことを考えると
紬のことも心配になってくる。

皆変わってしまったのだろうか
急に切ない思いが込み上げてきた。

唯は自室のクローゼットからダンボール箱を引き出し
中にある、卒業アルバムを取り出した。
昔の思い出に浸りたくなったのだ。

唯は一度アルバムをダンボール箱に戻して
それを抱えてリビングへ運んだ。
澪と一緒に思い出を語りたいと考えたからだった。

澪「唯、なにそれ?」

リビングでテレビを見ていた澪が
唯の持つダンボール箱に目を止めて言った。


唯「うん、思い出」

ダンボール箱の中には
卒業アルバムの他
合宿の写真
バンドスコア
歌詞のコピー
デモテープ
学際ライブのDVD
そして、唯が付けていた日記が入っている。

澪「懐かしいなぁ、ちゃんと持ってたんだ」

澪は目を輝かせて言った。

唯「ねぇ見て見て。これ」

唯は合宿の写真の中から
澪の寝ている姿を写した写真を取り出した。

澪「な、何で唯が持ってるんだよ」

唯「え?皆持ってるはずだよ」

澪「ほ、本当かっ!律のやつ、誰にも渡すなって言っておいたのに」

唯「澪ちゃん、これ」

唯はまた別の写真を澪に見せる。


澪「あぁ、梓か・・・」

悲しげな表情ではなかった
懐かしそうな、暖かい表情だった。

唯「かわいいね」

澪「本当だな」

それからは澪と二人で思い出話に花を咲かせた。
ライブ映像も繰り返し見た。
懐かしい、あの頃を思い返しながら。

ずいぶんお喋りに夢中になっていたのか
時刻は夜の11時を過ぎていた。

澪「私、お風呂入ってくるよ」

澪はそう言って立ち上がり
リビングを出て行った。

唯はダンボール箱の中を覗く。
日記が目に留まり、取り出してみた。
日記は全部で4冊あった。
普通の大学ノート、30枚60ページ
そのノートに1ページにつき4,5日分の日記を書いていた。
毎日書いてはいても内容はそれほど多くは無いのだろう
3年弱の記録がたったの4冊に収まってしまうのだ。


唯は一番新しいノートを手にする。
何となく、最後のページを開いた。

──今日は卒業式。

初めにそう書いてあった。
そう言えば、この日記を書き始めた理由。
唯は自分が記憶の途切れる症状を持っていたことを思い出した。
この日記の最後に書かれている、卒業式の日を境に症状は無くなったのだ。

日記にもその日の症状が書かれていた。

<部室を眺めていたら、りっちゃんが声をかけてきた。
みんなで写真を撮ろうと言ってくれて、とてもうれしかった。
私が、「うん」と言って頷くと、またあの症状がでた。>

そう、そこで記憶は一度途切れたのだ。

日記を見つめているとあの時の光景がありありと浮かんでくる。
声が聞こえた。


唯が手を振ると、女の子もこちらに手を振り返してきた。

女の子が笑ったような気がした。
唯も笑い返すと、女の子は消えてしまった。

律「お~い。唯~っ」

律の声を聞いて振り返ると
軽音部の皆が、憂が、和が
そこに居た。

律「みんなで写真撮ろうぜ」

唯「うん」

唯が頷いた瞬間に意識が途切れた。


──唯、唯っ。どうかしたのか?

目の前に律の顔があった。


律「どうした?唯?」

唯を心配して律が顔を覗き込んでいた。

唯「なんでもない。撮ろうよ写真」

律「ああ、そうだな」

律は憂にカメラを渡して
軽音部の部室が見える校舎を後ろに
軽音部のみんなと和を交えて並んで立つ。

憂「みなさ~ん。笑ってくださ~い」

憂の掛け声に皆は最高の笑顔を見せた。



はっとして辺りを見回す。
壁、テーブル、テレビ、さっきと変わらない
アパートの一室、リビングに唯は居る。

では今の光景はなんだったのだろうか。
夢?
夢ならそれでもいい。
昔の律に会いたいと思う気持ちが唯の心の中で膨らむ。
もう一度、さっきの──あの時の律の笑顔を見れるのなら。

唯は日記に視線を落とす。
目を凝らすと文字が蠢いている。
次第に周囲の風景が歪み始め
日記に吸い込まれるような感覚がした。

一瞬、眩い光が唯を包み込んだ。


唯が手を振ると、女の子もこちらに手を振り返してきた。

女の子が笑ったような気がした。
唯も笑い返すと、女の子は消えてしまった。

律「お~い。唯~っ」

律の声を聞いて振り返ると
軽音部の皆が、憂が、和が
そこに居た。

律「みんなで写真撮ろうぜ」

唯「うん」


唯の目の前に広がる光景は
忘れもしない、あの卒業式の日。
カメラを携えた律が──あの時の律が目の前に居た。

律「唯?どうしたんだ?」

律の笑顔を、律の声を聞いて
唯の心の中には様々な思いが去来した。

──何か言わなきゃ。

──何か伝えたいことがあったはずだ。

──そうだっ!

唯「りっちゃん」

律「ん?なんだよ、唯」

唯「卒業しても、一緒にやろうよっ。バンドっ!」

律は笑って大きく頷く。

律「ああっ。やってやるさっ!」

──ありがとう。

声に出したつもりだったが、届かなかったようだ。
唯は再度光に呑まれた。



唯は日記から顔を上げる。
一時の幸せな夢だったのだろうか。
日記を仕舞い、先ほどの律の笑顔を頭に思い描く。
自然に笑みが零れた。

暫くして玄関の扉が開く音が聞こえた。
唯は不思議に思って玄関へ向かう。
澪は先ほど浴室へ行ったはずだ。
ここへ訪ねてくるのは、あとは憂ぐらいしかいない。

唯が廊下の角から玄関を覗くと
澪が居た。

唯「あれ?澪ちゃんさっきお風呂って・・・」

澪「ん?なんのことだ?私は今帰ってきたところだけど」

澪「それよりさ。ライブのチケット完売したってさ」

突如、唯の頭の中を鈍い痛みが奔った。
それは一瞬の事だったが
次の瞬間には唯の知らない光景が頭を駆け巡る。
──これは・・・記憶?
唯は理解した。
一瞬のうちに頭の中に詰め込まれた記憶。
その記憶は唯があの日律に掛けた言葉によって生まれた記憶だ。
変わったのだ。あの日からの未来が、そして現在が、世界が。


夢ではなかった。
事実、唯は過去に遡っていたのだった。
卒業式の日に律に掛けた言葉。
一緒にバンドをしよう、その言葉が未来への道筋を変えた。

卒業してからは頻繁に律と連絡を取り合った。
澪は音楽スタジオを借りてのバンド練習を提案した。
律は友達の知り合いが経営するライブハウスでバイトをしてスタジオ代を稼ぎ
唯と澪もそれぞれ空いた時間をバイトに費やした。

ある日、律は店長に無理を言って
一度だけ只でライブハウスの舞台を貸してくれるように頼んだ。
しつこく懇願する律に折れた店長は、
特別、定休日に演奏することを許可した。

本来定休日ということもあり人は疎らだったが
3人は最高の演奏を披露した。
これが切っ掛けとなり何人かのファンが付き
その後のライブのチケットの売り上げも好調で思わぬ収益にも繋がった。

3人はそのお金を貯めて
いつか自作のCDを作ろうなどと夢を抱いていた。

澪「唯、鼻血・・・」

澪は青ざめた表情で唯を見ていた。
唯は自分の鼻の下に手をやり指先で触れる。
触れた指を見ると赤い血が付着していた。


唯「ご、ごめんごめん。大丈夫だから」

唯は急いでリビングへと向かうとティッシュで鼻を拭いた。
洗面所へ行って鏡で顔を確認してリビングへ戻ると
澪は座ってテレビを見ていた。

唯「何とも無いから。安心して」

澪「そうか、なんかあったのかと思ってびっくりしたぞ」

唯「それで、さっきの話」

澪「ああ、ライブのチケットな。 律が友達やバイト先の客に頼んでさ、完売したってさっき連絡があったんだ」

唯「りっちゃん、やるねぇ」

澪「ホント、律のお陰だよな」

唯は記憶の中にある律の顔を思い浮かべる。
ライブハウスでバイトしていた律。
そこの舞台で勢いよくドラムを叩く律の顔を。

澪「唯は和と憂ちゃんにチケット渡したのか?」

唯「うん。二人とも来れるってさ」

紬は、何をしているのだろうか。
唯は記憶の中を探るが紬に関する記憶は浮かんでこなかった。


唯「ねぇ澪ちゃん。むぎちゃん、今何してるのかな?」

澪「さあな、連絡も取れないしな」

唯「やっぱり駄目なのかな」

高校の頃の軽音部のメンバーが揃うことはもう叶わないのだろうか
唯はダンボール箱を抱えて自室へ入って行った。

唯は、ベッドの上に腰掛けて日記の項を捲る。
変えられたんだ。
そう、未来を、現在を変えられるんだ。
唯はもう一度あの頃に戻って今度は紬を今のバンドへ誘おうと考えていた。

──今日はむぎちゃんと一緒に

その文が目に飛び込んできた。
この時ならと、唯は日記を見つめる。

暫く見つめていたが、先ほどのような感覚は得られなかった。
さっきのは夢ではなかったはずだ。
唯はもう一度意識を集中させて文字を見る。
しかし、幾ら見つめていても何も起こらなかった。

唯は諦めた様に日記を閉じると
ダンボール箱の中に仕舞った。


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最終更新:2010年01月22日 22:56