和「遅くなっちゃった……」
夏休みのある日、時刻は午後7時。
受験生である私は、最近はずっと予備校の夏期講習通いを続けている。
しかし今日は、遅くとも夕方には家に帰れるはずだったのだが……
和「急な仕事だからって私を呼ばないでほしいわ……」
そう、生徒会から呼び出しがあったのだ。
私は一応は現職の生徒会長。
そういうこともある、と割り切ってはいる。
でも……
和「書類の処理くらいは私抜きでやってもらわないと……来年が思いやられるわね……」
思い起こすのは申し訳なさそうに事情を話す後輩たちの顔。
頼られてるのは悪い気分じゃない。
悪い気分じゃないけど……
和「ちょっと指導してあげないとダメなのかな……」
後輩の指導は先輩の務め。
私自身、先代の生徒会長である曽我部先輩にはいろいろとお世話になったものだ。
よーし……
和「頑張るぞ!」オー!
和「……」
和「……///」カアアッ
和「ち、ちょっと今のは私のキャラじゃなかったわね……」
さっきの行動を振り返ってみる。
…………。
うん、まるで我が愛すべき幼なじみのような言動だ。
和「唯に影響を受けているのかしら……?」
そうだとしたら気をつけないといけない。
私までぼけぼけになってしまうと、とんでもないことになってしまいそうだ。
色々な意味で。
和「ふう……」
辺りを見回すと、人影はほとんどない。
よかった、さっきの私の醜態は誰にも見られていないようだ。
和「さて、早く帰らないと」
再び家に向かって歩みを進める。
ふと空を見上げると、太陽はすでにその姿を隠しており、街には夜の帳が下り始めていた。
……いくら午後7時を回っているとはいえ、今は夏。
少し暗くなるのが早すぎるような……
和「あ……」
ポツ、ポツと。
空を見上げながら考えに耽っていた私の顔に、いくつかの水滴が落ちてきた。
和「雨、ね」
……そういえば、今朝の天気予報で夜から天気が崩れると言っていた気がする。
辺りに人がいなかったのもそのためなのだろう。
和「まったく、いつもは外れてばかりで役に立たないのに。どうして傘を用意してない日に限って当たるのかしら……」
雨粒を落とす雲を、もう一度恨めしげに眺める。
……でも天気予報に文句を言っても仕方ない。
とにかく今は、濡れないうちに早く帰っちゃわないと。
和「あんまり走りたくはないんだけど、ね」
そうも言っていられない。
雨足は少しずつ強まって行き、私の服に斑点模様を作っていく。
ああ、この服けっこう気に入ってるのに……
和「あら……?」
家に向かっている途中、ふと気付いた。
商店街の路地裏、薄暗い道の端。
後ろ姿しか確認できないけど、耳を塞いでしゃがみ込んでしまっているあの子はたぶん……
和「……澪?」
澪「ひいいっ!?」
私の友人であり、唯と同じ軽音部に所属している
秋山澪だった。
こんなところで何をしているのかしら……?
和「どうしたのよ、こんなところで……濡れちゃうわよ?」
澪「の、和……?」
和「何?」
澪「ほ、本当に和……なのか……?」
和「そうだけど……」
澪「……!」プルプル
和「澪?」
澪「う、うわあああ~~~んっ、のどか~~~!」ガバッ
和「きゃあっ!?」
怯えた目でこちらを見上げていた澪は、いきなり立ち上がって私に抱きついて来た。
唯のおかげで抱きつかれるのは慣れているけど、澪は背が高いから少し苦しい。
澪「怖かった……怖かったよ~……」
和「よしよし……」ナデナデ
澪「……」グスッ
必死にしがみついてくる涙目の澪をしっかりと抱きとめ、頭を撫でてやる。
子供扱いをしているようだけど、この効果は唯に留まらず憂でも実証済みだ。
和「……」ナデナデ
澪「……」ギュウッ
……少し落ち着いたかな?
顔は見えないけれど、何となく雰囲気で分かる。
相変わらず抱きつかれてはいるけど、パニック状態は脱したようだ。
和「……落ち着いた?」
澪「……ん」
和「ここは濡れるから……少し移動しましょうか」
澪「うん……」
私の言葉におとなしく頷く澪。
しかし、
和「……」
澪「……」
私に抱きついたまま一向に動く気配がない。
心なしか、抱きつく力が強まったようにも感じる。
……振りほどかれるのを恐れているのだろうか?
和「ふう……」
まったく、しょうがないわね。
和「ほら、行くわよ」
澪「あ……」
澪に抱きつかれたまま歩き出す。
はた目から見るとかなりおかしな光景だろうけど、昔から唯に抱きつかれながら過ごしてきた私にとっては何ということはない。
何だか私って、妙なスキルばっかり磨かれてるわね……
和「ほら、ここに座って」
澪「うん……ありがとう」
都合良く濡れない場所に設置されたベンチを発見した。
未だに私に抱きつく澪をエスコートし、座らせてあげる。
もちろん予めベンチの汚れは払っておく。
和「もう、こんなに濡れちゃって……」
澪「んん……」
ハンカチを取り出し、澪の顔や服を拭う。
髪が一番濡れちゃってるけど、この小さいハンカチじゃ全部は無理ね……
和「はい、終わり」
澪「あ、ありがと……」
和「いいわよ、別に。でも髪はまだまだ濡れたままだし、早めにお風呂に入って乾かさなきゃダメね」
澪「うん……」
和「それで……一体どうしたの?」
澪「……」ウルウル
澪は潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。
うう……そんな目で見ないでよ。
澪「実は……律が……」
和「律が?」
……
律「いや~、遊んだ遊んだ!」
澪「まったく……受験生なのに何やってるんだ」
律「何だよ~、澪も楽しそうだったじゃん」
澪「う……」
日も傾きかけた夕方。
私――秋山澪は、幼なじみの
田井中律に誘われて街に買い物に来ていた。
最初は確か、律のために参考書を選んでやるはずだった。
だけど……
澪「ゲーセン、楽器屋、ブティック、雑貨店、ファミレス、駄菓子屋……何をやっているんだ私は」ズーン
律「はっはっは、息抜きも大切だよ?澪君」
澪「律は息抜きばっかじゃないか。いつ勉強してるんだお前は」
律「失礼なー!ちゃんとやってるぞー!?」
澪「全然そうは見えない。同じ大学行くんだろ?律はもっと頑張らないと」
律「ガンバンべ!踊れミツバチ♪Hey!」
澪「ふざけてる場合か!」ゴンッ
律「いたっ!?か、軽いジョークなのに……」
澪「はあ……」
何で律は真面目に勉強しようとしないのだろうか。
律が私と一緒の大学を目指すことにしたって聞いた時は、すごく嬉しかったのに……
律「みおー?」
澪「……」
律「……ちぇ、ムギは最後まですごく楽しそうだったのに……何で澪は……」ブツブツ
澪「何か言ったか?」
律「いんや~、何も~?」
澪「……ふん」
律「……」
澪「……」
律と二人、無言で歩く。
空を見上げるとまるで私の心を示すかのように曇っており、辺りの光を奪っていく。
……はあ、何をやっているんだろう。
私は律と気まずくなんてなりたくないのに……
律「……」
澪「……」
チラッと隣を歩く律の横顔を覗き見る。
当たり前のことかもしれないけど、律はいつものような明るい笑顔を浮かべておらず……何か考え込んでいるようだ。
……うん、謝ろう。
今日は本当に楽しかった、と。
分からないところは教えてあげるから一緒に勉強しよう、と。
澪「律、あのさ……」
クルっと再び律のほうを向く。
律「ふふふ、澪~?」
すると律は、先ほどの思案顔はすでにやめており。
何だか、意地の悪い笑みを浮かべていて……
律「こういう話が最近流行っているんだけど、知ってるか……?」
……
和「……で、律に怖い話をいっぱい聞かされて走って逃げだした、と」
澪「う、うん」
和「はあ……」
何をやってるのかしらね、二人とも。
澪も律もお互いのことをしっかりと考えてるのに、イマイチ噛み合ってない。
和「それにしても、何であんな路地裏で蹲ってたの?」
澪「必死に走ってたら道分かんなくなっちゃって……それに疲れて動けなくなっちゃったんだ」
和「……」
どれだけ走り回ったのかしらね、この子は。
澪「それに律の話にあった、通り魔がいるとか路地裏お化けの話が頭をよぎって……」
和「それこそ早く移動したほうがいいんじゃ……」
澪「こ、怖くて腰が抜けちゃって……」
和「……」
顔を赤らめながらポツポツと経緯を話してくれる澪。
知ってはいたけど……相当な怖がりね、澪って。
こういう話を聞くと改めてよく分かる。
澪「の、和が話しかけてきた時も、心臓が飛び出るかと思ったよ……」
和「それで私だと分かったから……」
澪「安心して抱きついちゃったんだ……何か、ごめん」
和「いいわよ、気にしないで」
澪「和ぁ……」ギュー
和「ふう……」
またもや抱きついてくる澪。
辺りは大分暗くなってきているけど、もうしばらくこのままにしてあげよう。
……
和「……澪、そろそろ帰らないと」
澪「……ふぇ?」
あれから30分。
どうやら澪は私に抱きついたままウトウトしていたらしい。
寝ぼけ眼で私を見つめてくる子供っぽい姿を見ていると、普段のイメージが瓦解しそうね……
和「えっと……一人で帰れる?」
澪「……」
和「無理?」
「無理……かも。それに……」
和「それに?」
澪「今日はうち、誰もいなくて……」
和「……」
私を見つめる澪の瞳に、心なしか何かを期待する色が混ざっている気がする。
……ふう。
いつもは律がこういう立場なんだろうけど、ね。
和「それじゃあ私の家に来なさい。今日は私以外は出かけてるはずだし」
澪「え……いいの?」
和「ええ。困ってる友人を放っておくことは出来ないわ」
澪「……っ!」
和「澪?」
澪「和~~~っ!ありがと~~~!」ガバッ
和「ひゃっ!?ち、ちょっと澪……」
……お持ち帰り決定。
……
澪「ここが……和の家」
和「ええ。さ、上がって」
澪「お、お邪魔しまーす……」
澪を伴っての帰宅。
すっかり遅くなっちゃったな……
和「澪、私は今から夕飯作るから居間でくつろいでて。あっ、濡れてるから先にお風呂に入っちゃったほうがいいか」
澪「えっ!?いやいや、私も手伝うよ!和にはすっかりお世話になっちゃってるし……」
和「ダメよ。風邪引いたら良くないし、澪はお客様なんだから」
澪「で、でも」
和「ほらほら、すぐ入れるから」
グイグイと澪の背中を押してお風呂場へ。
頭の中ではすでに夕飯のメニューを何にするか、と考え込んでいる。
澪「あ、あのっ!」
和「ん、どうしたの?遠慮しなくていいから……」
澪「い、一緒に入ってくれないかな!?」
和「……えっ?」
澪の口から、あまり良くない提案が飛び出してきた気がする。
え、っと……
澪「ひ、一人でお風呂入るの怖い……」ウルウル
和「……」
この子、日常生活に支障はきたさないのかしら……?
素朴な疑問が浮かんだけど、すぐに頭から振り払う。
乗りかかった船だ、最後まできっちりやらないと私としても好ましくない。
最終更新:2010年09月05日 20:49