そしてまた、冷房が動き出す。
唯がリモコンを静かに置いて、「今日はほんと暑いねえ」と言った。
さきほどより冷たい人工の風がシャツごしに喉を撫でる。
寒い、と梓は思う。
* * *
『これからはそうそう一緒にもいられないかもね』
高校に入って二度目の夏休み。
きっと今年も楽しい思い出ができるな、なんて呑気に思っていた梓に唯が突き刺した言葉。
合宿から帰る電車の中でのことだった。
梓は、向かい合っている唯の顔をまじまじと見た。
疲れて眠る律は、梓の腰にもたれかかっている。
澪と紬は、ふたつ離れた座席に二人で座っていた。
『みんな、べんきょーしなくちゃだもんね』
みんな、とはいってもこれは唯の意見なのだと、梓にはわかった。
さらに言えば、夏休みだとか受験だとかは関係ない。
ちょうど良い時期なので、そろそろ諦めろということなのだと。
梓の唯に対する特別な感情は、唯にも伝わっていたと思う。
もしかしたら唯だけではなく、律や澪、紬にも。
『なかなかあずにゃんとも会えないや』
受験勉強のために部活動を控えなければならない、という意味に受け取れるほど、暗い声ではなかった。
むしろ唯は笑っていた。
わざとらしさが、わざとらしいくらいに。
『寂しいね~』
てへへ、と頭をかく唯に、梓は何も返せなかった。
喉が詰まって、苦しくて苦しくて目眩がした。
* * *
ここへ来て、10数分が経つ。
唯の肩が退屈そうに少し揺れている。
8月半ばの校舎は静かで、ことにこの音楽準備室は、他の教室から離れていることもあって、なんの音も聞こえない。
長い沈黙を訝しく思われていることを、梓はよくわかっていた。
これでも二年間、側に居続けた仲なのだ。
けれど、なぜだろう。今まではなにも考えずに出てきた話題が、ひとつも出てこない。
こうしてギターの練習と称して呼び出しでもしなければ会う理由もない。
「あの、あのですね……」
「うん?」
以前は毎日一緒にいても話すことがらは絶えなかった。
律がいて、澪がいて、紬がいて、色々と話が弾む。それがたとえ二人きりだとしても、状況は変わらないはずだった。
二人が一緒に居ることに理由も約束もいらなかった。そしてそれはこれからも変わらないのだと、梓はそう思っていた。
本当に、数週間前の、あの合宿の帰りまでは。
「二人でいるのも久しぶりだね」
これ以上待っていても「あのですね」の続きは出てこないと判断したのか、唯がため息をつくように言った。
「……あ、はい」
ぎこちなく返事をしてこくんと頷く梓に、唯は少し笑う。
きっとこんな顔ももうあまり見ることができなくなるのだと思うと変に感傷的な気分になって、梓はごまかすように咳払いした。
「あれ、風邪? クーラー止めようか?」
「いえ、違います、平気です」
梓の言いたいことは、言えないことなのだ。
それは唯にもわかっている。だからなにも訊いてこない。
けれど、こんな時間を過ごすことは不毛だ。
唯だけではなく、梓にとっても。
「実はですね、寒いんです」
ぽつりと呟く。
「そっか」と呟きリモコンに伸ばされた唯の腕がスローモーションに見えた。
ああ、掴まなくては。
たとえ拒まれる未来が見えたとしても。
唯の手を掴まなくてはいけない。
「あずにゃん、違うよ」
なにがです、と訊く前に涙があふれていて、なにも言うことができない。
「違ったんだよ」
手を払われたまま、なぜだか梓は動けなかった。
涙を流す機能だけに身体のはたらきが集中してしまっているようだ。
「一緒にいすぎたんだね」
気軽に抱きついたりしてごめんね。思春期だもんね。あずにゃんは、純粋な子だから。
「でも、それは違うんだよ。恋じゃない」
よしよしと幼い子どもを慰めるように背中を撫でられて、はじめてライブで失敗してしまったときのことを思い出す。
あのときも、こんなふうに優しく背中を撫でてくれた。
いつもは頼りない唯の手が、信じられないほど頼もしく、温かかった。
あのころから好きだった。
嬉しいことも悲しいことも全てが彼女と一緒で、それが当たり前になっているのだと気づいたとき、自分は彼女のことを好きなのだと実感したのだ。
「勘違い、しちゃったんだね。私のせい……でもある、よ」
勘違いでずっと想っていられるものか。そばにいられるものなのだろうか。
こんな気持ちになんて、なるのだろうか。
それでも梓は唯の言うことを黙って聞いていた。
喪失感でいっぱいになりながらも、言葉はすらすらと身体のなかに入ってくる。
「けどね、青春はこれからなんだから」
「はい」
それだけ言うのが精一杯だった。
唯は困ったように笑った。
「唯先輩はわかっていないです、ぜんぜん、わかってないです」
唯が去って暗く冷えた音楽準備室に、きぃんと梓の呟きが響く。
唯のことは尊敬している。
勉強はできないが、意外にも他人の気持ちを読み取るのが上手く、そういう意味では頭のいい人だと思っている。
でも、そんな唯にもわからないのだ。
今の梓の気持ちが、勘違いなのかホンモノなのかなんて。
そればっかりは、唯は間違っている。完全に間違っている。
「はあ」
ずず、と洟をすする。
これ以上寒くなんてなるはずがないのに、どんどん寒くなっていくのは何故だろう。冷房のせいだろうか。
「あ、」
そういえば唯は冷房が苦手だったはずだと、梓はハッと思い出した。
「そう、か……」
息を漏らす。
ため息よりも嗚咽に近い。
次に梓が恋をする相手は、男かもしれないし、女かもしれない。
それでもそのとき思うことはきっと変わらない。
「ああ、やはりあれは恋だった」と自分は思うのだろうと考えながら、梓はシャツで涙を拭った。
濡れた部分に風が当たって、やけに冷たかった。
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おしまい
最終更新:2010年09月08日 21:56