“助けてくれ、私はこの女に閉じこめられている”
その奇妙なメッセージを
山中さわ子教諭が発見したのは、授業のない水曜日の二時限目のことだった。
生徒の提出した課題のノートをチェックしていたら、ふと目についたのだ。
ノートの持ち主は、3年2組の
平沢憂という生徒だ。
去年までさわ子が顧問をつとめる軽音楽部にいた
平沢唯の、妹である。
さわ子の知るかぎりの憂は、真面目で成績も良く、高校生ながら家事も完璧にこなす、優等生といえるべき生徒だった。
この課題ノートだって、女の子らしい少し丸い文字が様々な色のペンで彩られていたり、時々可愛らしい動物の絵の落書きがあったりと、
他の生徒のものとそう変わりはない。
少し変わったところがあるとすれば、さわ子が授業中に言ったのであろう言葉や、はたまた彼女の挙動が、かなり詳しく書かれていることくらいだ。
そのため、憂のノートは他の生徒の倍以上ページが進んでいた。
しかしそれは単に勉強熱心で真面目な性格ゆえなのだろうとさわ子は思っていた。
自分の言動を書き残しておくことに意味があるのかはわからないが、一生懸命でいい生徒だと。
しかしこの一文は、明らかに異質だった。
第一に、いつもの憂の筆跡と全然違う。流れるような憂の文字とは反対に、力強くカクカクとした文字が紙に刺さるように書かれている。
それに、どうやら相当濃い鉛筆で書かれたようで、周りの白い部分を汚して文字が滲んでいた。
隣の席の生徒か誰かがイタズラ書きでもしたのかもしれないとも思ったが、ふつう提出する前に本人が気づくだろうし、
なにより書かれいている内容の、意味がわからない。
そこでさわ子は、返事を書いてみることにした。
“君は誰? この女というのは憂ちゃん?”
次の3年2組の授業のとき、さわ子は教科書を読みながら、さりげなく憂のいる列の脇を通ってノートを覗いてみた。
するとなんと、さわ子の返事の下に、新しいメッセージが書かれているではないか。
“私は私だ、女はこのノートの持ち主だ、早く助けてくれ”
その授業の終わりに、本当は出す予定ではなかった課題を出してみた。
憂のノートに早く返事が書きたかった。
“助けてくれって、君はどこにいるの。憂ちゃんはなぜ君を閉じこめるの?”
“なぜって、私の存在に気がついていないからさ、私はこの女の中にいる”
一体どういう意味だろう。なにが言いたいのだろう。
そもそも憂はどういうつもりでこんなことをしているのだろう。
「さわ子先生ー?」
「どうしたんですかぁ」
生徒たちに怪訝な顔で声をかけられ、さわ子は今が授業中であることを思い出した。
「ごめんなさい、じゃあ、ここもう一度……」
再びさりげなく覗いた憂のノートに書かれていたメッセージ。
こんなに何度も落書きされたら、さすがに気づかないはずはない。
なにより自分の悪口に近いことが書かれているのだ、それを放置している憂は絶対にこのメッセージに気づいている。
しかし、授業中にさしても、廊下で会っても、憂はいたってふつうの反応しかしなかったし、そんな憂をさわ子が不思議に思って見つめていも、首を傾げて笑うだけだった。
“中ってなに? まさか、にんしん、”
書きかけてさわ子は手を止めた。
それに気づいてほしくて憂がさわ子にメッセージを送っている?
まさか。
自分は出産経験もないし、既婚者でもないので、その手のことにそう詳しくはない。
そんな重大なことを相談されるほどの間柄ではない。
それはない、と思って、さわ子は【にんしん】の文字にバッテンをした。
“中ってなに? まさか、二重人格とか”
“……。妊娠などありえない!
二重人格……そういう言い方もあるかもしれない”
ありえない、の部分がいつもよりいっそう強く濃く書かれていたのを見て、さわ子は小さく吹き出した。
なんにせよ、安心した。
そんなことを打ち明けられても、さわ子には対処のしようがない。力になってやりたいとは思っても、役不足だ。
今日の授業でも憂の様子を注意深く見守っていたが、これといっておかしなところはなかった。
ただいつものように、真面目な顔をしてノートを黙々ととったり、時々近くの席の生徒と小声で談笑するだけだ。
“二重人格ねえ……私はそういうことに詳しくはないんだけど、具体的にどうすればいい?”
“私にもわからない、この女が心を開かないことには”
“心を開くというのは、君に対して? 憂ちゃんが君に対して心を開けばいいの?”
“いや、あんたに対してだ”
「平沢さん、ちょっといいかしら」
授業が終わってから、さわ子は憂を呼び出した。
さっきが4時限目だったので、今は昼休みだ。
長くなったら悪いかなと思ったが、憂は弁当持参でついてきた。
「食べながらでもいいわよ」
「あ……はい。でも先生は」
「私は大丈夫」
生徒指導室は薄暗かった。
蛍光灯をつけるかどうか迷ったが、とりあえずさわ子はそのままにして椅子に座った。
向かい合って弁当の包みをそろそろと開く憂は、やはりごくふつうの女子生徒に見えた。
「やっぱり自分で作っているの?」
「はい」
「そっか、偉いわねー」
「い、いえ」
口数が少なく、表情もどこか不安そうだ。
なぜ呼び出されたのかわからない、ということはないだろうが、生徒指導室という場所が生徒を萎縮させるのか。
「あの、ノートのことだけど」
「……はい」
「一生懸命考えたんだけど、どうしてもわからないの」
「……」
「私は、どうしたらいい? 憂ちゃんの心を開くにはどうしたらいのか、わからない」
憂がさわ子になにか伝えたいことがあるのだろうということはわかる。
それをあんな遠回しな方法で仕掛けてくるのは、直接口で言うのではなく、察してほしいからなのだろう。
憂は思ったことをすぐ口にする姉とは違って、よく考えてから適切な言葉を選んで言うタイプだとさわ子は感じている。
唯たちが卒業し、梓一人になったけいおん部のサポートによく来る憂を見て、そう思った。
よくできる子だが、だからこそ本音を漏らすことに慣れていないのかもしれない。
だからさわ子も考えた。
ノートのメッセージを何度も見返したり、憂のことを他の生徒以上に気にかけてみたり。
直接訊いたのでは意味はないのかもしれない。
憂に失望されてしまって、それこそ心を閉ざしてしまうかもしれない。
それでもさわ子は訊きたかった。
憂なにを考えているのか、さわ子になにを伝えたいのか。
「相手の心を開かせるにはな、まず自分が相手を好きになるんだ」
「え?」
「あんたに、こいつのことを好きになってもらう。それが私の役割だ」
今までか細い声で返事しかしなかった憂が、突然はっきりと喋った。
それにいつもの口調ではない。
自分のこと、“こいつ”と言った。
「だからこいつを……私を好きになって」
後半は、いつもの憂だった。
さわ子は一瞬ほんとうに二重人格なのかと思って目を見開いたが、憂が首を横に振ったので、違うのだとわかった。
「すみません」
「え、」
「変なことして、すみません」
完全に開き直った様子で、憂は頭を下げた。
「じゃ、じゃあ、大丈夫なのね?」
「ええ、全然なにもかも大丈夫です。心配することはひとつもありません」
「二重人格とか、“閉じこめられてる”とかは……」
「ほんとすみません、私が書いたんです。筆跡も変えて」
すみません、と憂はもう一度謝った。
「しかし本当、どうしてあんな……」
「それも、さっき言ったとおりです。意味なかったですけど」
「さっき?」
「私を、」
好きになって。
ささやくような声は、切なさを含んでいた。
俯いた顔は、諦めたような、苦しいような、そんな表情をしていた。
さわ子に、平沢憂を好きになってほしかった。そのためにこんなことをした。
なんて遠回りだろう。でも、案外思春期の女の子のアプローチなんてそんなものかもしれない。
しかし、今のさわ子には、わからない。歳を取ってしまったのかもしれない。
けれど、
意味がなかったと憂は言った。だが、はたして本当にそうなのか?
さわ子は膝に置いていた拳をぎゅっと握った。
「最近、私が2組でなんて言われてるか知ってる?」
「え?」
「課題、魔よ。授業のあと、毎回課題を出すって」
「あ……そういえば」
「本当なら音楽の課題なんて、一学期に一度あるかないかでしょ?
しかも2組だけだってことがバレたらしくて、学年主任の先生に叱られたの」
「……」
「はじめはただ気になっただけだった。生徒の悩みを解決したい、なんて。でも、なんだろう。いつの間にか……」
なんだろう、この気持ちは。
――少しでも気にかけてほしいだけだった。ちょっとしたいたずらのつもりだった。でも反応してくれたから嬉しくて。
小さな声で打ち明ける憂に、さわ子も自分の気持ちを素直に話した。
――メッセージについて考えながら、いつも見ていた。
最初は意味を説き明かすための観察だったのが、見ること自体が楽しくなっていた。自然に目が追っていた。
友達の前で笑っているのを見て、なぜ自分の前ではああじゃないのだろうと考えて、変な気持ちになった。
メッセージの意味がわかれば、あの笑顔を向けてくれるのか、なんて考えた。
どんどん、目的が変わっていった。
全部話してから、たとえ本心であろうと、生徒相手に言うべきことではなかったとさわ子は少し後悔した。
憂だって、打ち明けられても困るかもしれない。
自分の気持ちはちょっとしたあこがれのような片思いであって、そんなつもりじゃなかったと言われるかもしれない。
しかし憂は、信じられないような夢見心地の瞳をしながらさわ子に言ったのだ。
「私、幸せすぎて、ああ、死んでもいいです」
「えっ?」
「ど、どうしよう本当に死んじゃいそうです」
「い、いや、死なないで!」
だって、生まれて初めての恋で、それも絶対無理だと思っていた恋で、両思いになれたから。
そう言いながら、憂は笑った。
いつも遠くからこっそり見ていた笑顔よりも、ずっとずっと可愛いと、さわ子は思った。
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おしまい
最終更新:2010年09月08日 21:58