髪を撫でる風にほんの少しだけ秋の気配を感じる午後

川面に反射する穏やかな陽光

壊れ物を優しく包む様に抱きしめてくれる憂の腕が温かくて…

でも…お願い…これ以上優しくしないで…

私にはそんな資格なんてないよ…

どうしてこんなに弱くなってしまったんだろう…

強かった私は壊れた…もう、戻る事は無いんだ…

憂「我慢しなくていいよ、私が受け止めてあげる」

梓「…優しくしないで…お願い」

涙が溢れる…ダメだよ、こんなの…なのに憂の優しさに甘えようとしている

自分が…嫌いだ


視線が交わる…憂の目には憐れみの影なんて一片も浮かんでいない

ひたむきなまでに真剣なまなざし…そこにあるのは吸い込まれそうな透明さと優しさ

お願いだよ…そんな目で見つめないで

思わず瞳を逸した…

憂「…梓ちゃん」

梓(!?)

戻した視線の先には瞳を閉じた憂だけ

重なる唇から伝わるぬくもり…優しさ…身体の奥深く…凍えてしまった私の心まで溶かすように染みわたっていく

凍った時が動きだす…でも、壊れた夢は戻らないよ、きっと…


きっかけはクラスメートとの他愛も無い会話

「中野さん、今年も学園祭ライブするんでしょ?」

梓「うん、良かったら見に来てね」

「もちろん!楽しみにしてるよ」

これが先輩方との最後のライブになるかも知れない
そんな一抹の不安を胸の奥に抱きつつも、私は張り切っていた

「でもさ、中野さんも色々大変だよね」

「だよね。ほら、さっきの子達だってさ」

「あぁ、あんなのただのやっかみだってば」

梓「え?どうかしたの?」

「さっき廊下で聞いちゃったんだ」

梓「だから、何を?」

「他の組の子達がね、中野さんの事を…」

「よしなよ、そんな事言うの。告げ口するみたいで嫌じゃん」

「でもさ、こういうのって見知らぬ誰かにいきなり聞かされるよりは知ってたほうがよくない?」

梓「ハッキリ言ってくれていいよ。そのほうが私もスッキリするし」

「あのね、中野さんの事を軽音部の先輩達に可愛がって貰ってるからって、いい気になってるんじゃないかって」

梓「…え?」

「ほら、軽音部ってウチでは目立つ存在じゃん」

確かにこれは否定しない。桜ヶ丘の部活の中でも軽音部が目を引く存在なのは薄々承知している

「そのバンドメンバーだからって注目を浴びて、自分はみんなとは違うって感じで、ちょっと勘違いしてるんじゃないかってさ」

正直驚いた…そんな事は考えた事すら無いのに

純「ちょっとあんた達さぁ、さっきから梓に何の恨みがあるって言うのよ!」

呆然としていて気付かなかったが、いつの間にか純がクラスメート達の後ろに立っていた

「わっ私達じゃないわよ!他の組の子達が」

純「だったら、何組の誰よ!ハッキリ言えばいいじゃん」

「その、廊下ですれ違っただけだから。それに私達もよく知らない子達だったし、だよね!」

「う、うん。そうそう」

「うん、うん」

梓「純、私は平気だから。とにかく少し落ち着こう、ね?」

純「でもさぁ、梓」

梓「本当に私は気にしてないから。あの、みんなも教えてくれてありがとうね」

「う、ううん。なんかゴメンね」

「ライブ頑張ってね」

「じゃあ、ね」

純「もう、梓は優しすぎんのよ!私ならあんな事言われた日にゃあ」

梓「ありがとう、純、心配してくれて。でも私は平気だよ」

純「…ホントに?」

梓「本当に本当」

純「うーっ、それでもなんかイライラするぅ!絶対許せないっていうかさぁ」

私の為に本気で怒ってくれる、これが純の良い所でもあるけど、今は事を余り荒立てたくない

憂「ほら、純ちゃん落ち着いて。それじゃ返って梓ちゃんを困らせちゃうよ?」

こんな時にすかさずフォローに入ってくれるのが憂だ。どうやら憂も一連の会話を聞いていたらしい

純「…まぁ、梓が気にしないって言うんなら」

梓「全然。朝日のように爽やかに、だよ」

純「おやおや、ジャズ研にはそんな洒落たナンバーを会話に混ぜる小粋な子はいないわ。だから梓って大好きなのよね」

さっきまでのお怒りモードはどこへやら。満面の笑みを称えて大好き、なんて恥ずかしい台詞を平気で言っちゃうのも、これまた純の良い所だ

純「さってと、それじゃ私は部活に行くわ。梓もお茶ばっかり飲んでないで練習頑張りなさいよ」

梓「大きなお世話ですぅ」

純「まっ、軽音部はライクアローリングストーンよね」

梓「…純。あんた本当にジャズ研?」

純「…未だにもって、ジャズとは何なのか分かんないわ」

憂「SMOKE GETS in The EYEsだね、純ちゃん」

梓「憂のほうがよっぽどスイングしてるわ」

純「…これ以上いたら目どころか、心までやられるわ。では、サラバじゃー」

なんと言うか、純は平和だ。それもまたよし

梓「ふぅ」

憂「梓ちゃん」

優しく微笑みながら、机の上の私の手に温かな掌を重ねる。余計な言葉で飾らない優しさ、これが憂だ

梓「ありがとう、憂」

重なる掌が心地よい。こんな時いつも思う、憂にはかなわないって

憂「ううん、私はなんにもしてないよ。それにしても純ちゃんは優しいよね」

梓「だね」

重なった互いの掌を見つめる。これが…って、私まで恥ずかしい台詞を口にしそうになって思わず笑みがこぼれた

梓「純なら言いそうだよね。これが青春だぁ!なーんて」

憂「アハハ、きっと言っちゃうよね」

梓「だよね」

この時の私はまだ笑えていたんだ…


それは突然だった

帰宅する憂と別れ、いつものように音楽室へ続く階段に向かう廊下。不意にその声は聞こえた

「いい気になってんじゃないわよ」

思わず声のした方向を見る…でも、そこには誰もいない

梓「気のせい、だよね」

気を取り直して階段を昇る。楽しそうに会話をする二人の生徒達とすれ違う。背後で彼女達の笑い声が響いた

梓「…別に私を笑った訳じゃないし。感じすぎだよ、私」

降り積もり始めた心の澱に、まだ気付いていなかった…


音楽準備室、いつもの賑やかで楽しい軽音部への扉を開く

梓「こんにちはー」

穏やかな陽光の降り注ぐ室内。しかし、先輩方の姿は無い

梓「まだ誰も来てないんだ…」

特別意識する事も無く、自然と足が部屋の片隅に向かう

梓「トンちゃん、今日も元気かな」

水槽の中でゆらゆらと泳ぐトンちゃんと目が合う。軽く水槽を指で弾く

梓「ねぇ、トンちゃん。私って嫌な子なのかな…」

勿論トンちゃんは答えてくれない

梓「アハハ、何を考えてるんだろう、私」

誰もいない部室、ふと胸の奥が軽く痛んだ…

梓「…遅いな、先輩方」

長椅子に腰掛けて、室内を見渡してみる


いつもの見慣れた室内。ホワイトボードに描かれた他愛の無い落書き

梓「唯先輩の絵って、結局進歩しなかったなぁ」

少し驚いた…進歩しなかった…なんで過去形なの、私?

梓「…練習しようかな」

ギターケースを開き、ムスタングを取り出す。なぜだろう…少し違和感を感じてしまう

梓「なんかシックリこない…ネックがモタレたかな?」

軽くフィンガーボードを押さえて、水平に構えてみる。

指が…手が…震えていた

梓「集中、集中しよう、私」

目を閉じて意識を指先に集中…出来ない

不意に誰かの視線を感じた気がして、慌てて目を開き周囲を見渡す

梓「…誰…もいない」

不快なノイズが響く…震える指先が弦を擦る音だと気付くまでに数秒を要する程に動揺していた

梓「どうしよう…震えが止まらないよ」

指先から全身へ伝播する震え…決して暑くない室内で前髪が額に張り付く程に汗を浮かべていた

梓「…気持ち…悪いよ」

降り積もる澱が心を、身体を浸食していた…

耐え難い不快感…駄目だ…今日はもう帰ろう

梓「先輩方にメールしないと」

震える手を励まし、携帯のメールキーを押す…空白の画面を見つめた途端、思考が停止する

梓「なんて…書けばいいの」

嘲るような声が耳の奥に響いた

「あんたなんて必要無いんじゃないの?」

そうだ…元々軽音部は先輩方4人だった
私がいなくても…

虚ろな意識の片隅に、様々な記憶の欠片が浮かんでは消える

やめて…今は思い出したくないよ

真っ白だった…

気がつけばギターケースを抱えて、部室を飛び出していた

梓「こんなの…嫌だよ」

すれ違う人々が私に嘲りの視線を向けているようで…怯えた子犬のように家路を急ぐ

自宅の玄関に飛び込む…息苦しさは消えない

静まり返った家…靴を脱ぐのももどかしく、階段を駆け上がって自分の部屋に入る

制服のままでベットに潜り込み…身体を丸めて全身の震えを止めようとした

何も見たくないよ…聞きたくないよ…考えたく…ないよ

降り積もる澱は、小さな私から溢れようとしていた…

まどろみの中で先輩方の姿が浮かぶ

見知らぬ校舎…桜が咲き誇る道を私服姿の4人が並んで歩いている

「しっかしまさか、軽音部どころかサークルすらないなんてなぁ」

「ここって結構お嬢様学校だしな。バンドよりクラシックて感じだろ」

「なければ作ればいいんだよっ!」

「そうよね。高校の時だって、私達4人で始めたんだから」

「だな。よっしゃー、いっちょやるかぁー!」

「相変わらず私の参加は決定事項なのか?」

「当ったり前じゃん!大学でもファンクラブが出来るくらい大活躍してやれぇい」

「それだけは絶対に嫌だっ!」

「んー、でもそうなりそうな気がする」

「嫌だっ!」

「まぁまぁ、人気者の宿命ってやつだな」

「嫌だっ!」

「先ずは部室を確保しないと、ティーセットも運び込めないわ」

「いや、それは微妙に間違えている気がするぞ」

「えー、お茶とお菓子の無い軽音部なんて軽音部じゃないよっ!」

「いや、それは絶対に間違えているぞ」

「あら、それじゃティーセットは無しにする?」

「いやーん、イケズゥ。分かってる癖にぃ」

やっぱり私は要らない子なんだ…

頬を伝う涙の感触に意識がまどろみの中から引き戻される…

梓「…嫌な夢」

鉛が入ったかのように重たい身体…なんとか両腕で支えて上半身を起こす

暗闇の中で携帯の着信を示すランプが明滅している、確認することも無く電源を切る…

壁掛け時計の蛍光に彩られた長針と短針が深夜3時を報せていた

梓「酷い寝汗…最悪だ」

シワクチャになった制服を脱ぎ捨て、着替えもそこそこにバスルームへ向かう

着替えたばかりの服を脱衣所で脱ぎ捨てる

鏡に映る姿…泣き腫らした目、涙の筋がついた頬

自分でも嫌になるくらい未成熟な身体に視線を移す

華奢な肩と薄い膨らみしかない胸、緩やかなラインの腰

身体が心を写すのなら、私は全てにおいて子供だと実感させられる

鏡に映る誰かが呟く

「大嫌い」

その醜悪な表情に恐れを感じて、慌てて鏡から視線を逸してバスルームに飛び込む

シャワーを全開にして叩き付けるような水の奔流に身を委ねる

梓「…汗と一緒に全部流れちゃえばいいのに」


翌朝、ドアをノックする音に目覚める

「梓、もう起きないと遅刻するわよ」

時計は7時30分を報せていた

相変わらず重たい身体を引摺り起こし、母に答える

梓「起きてるから大丈夫だよ」

大丈夫…嘘だ。ちっとも大丈夫なんかじゃない

「時間が無くても朝食はちゃんと取りなさいよ。あなた昨日は夕食も取らずに寝ちゃったんだから」

いつもなら優しい母の声も今日は違って聞こえるのは…きっと私自身のせい

思わず苛立ちをぶつけそうになる自分をなんとか律する

梓「はーい。分かってるよ」

嘘で固めた自分…降り積もる澱はもう私を押し潰そうとしていた

ダイニングテーブルで母と他愛の無い会話を交わしながら食事を取り、学校へ向かうべく玄関を出る

「いってらっしゃい、梓」

梓「行って来まーす」

母の姿がドアの向こう側に消えた途端、なんとか体裁を繕っていた空元気も消え失せた…

背負ったギターケースがまるで罪人の枷の如く、私を戒める

梓「…こんなに重かったんだ」

分かってる、重いのはギターじゃない

我侭で臆病な自分自身

結局昨晩の着信やメールは確認することなく全て消去してしまった

梓「…もう先輩方に会わせる顔もないよ」

いつもと違う道を選んで学校へと向かう

遅刻ギリギリのタイミングで校門をくぐり、教室に入った

純「おっはよー、梓。珍しいじゃん、遅刻寸前なんて」

今朝も元気な純だ。今の私には眩しいくらいに…

梓「おはよー、純。昨日はちょっと夜更かししちゃってさぁ」

純「ふーん、どうせまたネットで怪しげなグッズを探してたんでしょ」

梓「そんな事言っていいのかなぁ。折角安くて効きそうな縮毛矯正コンディショナーを見つけたのに」

純「なっ!マジで?」

大丈夫…こんな嫌な私を誰にも知られたくない…笑うんだ、例えそれが偽りの笑顔でも

憂「おはよう、梓ちゃん」

梓「お、おはよう、憂」

ヤバい…今一瞬声が震えそうになった
唯先輩から昨日部活をサボった事、きっと聞いてると思うとつい…

憂「…少し寝不足みたいだね。目の下が少しクマってるよ」

梓「ちょっとネットに熱中しちゃってさぁ」

始業を告げるチャイムが鳴る…助かった

憂「それじゃまた後でね」

梓「うん」

自分の席に戻るべく振り返った憂から、なんだかいい香りがした
なんだったかな…花の香りだよね

私の不安をよそに、時間は流れた

休み時間の他愛もないおしゃべり

憂と純と食べる昼食

いつもと変わらない穏やかな学校生活

…嘘。いつもと変わらないフリをしているだけ

まるでもう一人の自分を見るように、心は少し離れた位置にある

本当は泣き出したかった…お願いだよ、誰か偽りの私に気付いて…

誰か…助けてよぉ

そんな心の叫びとは裏腹に、もう一人の私はいつもと変わらない笑顔を浮かべている…

降り積もった澱は、もう私を壊してしまったのかな…


最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴る

純「んーっ、今日も勉学に勤しんだぁ」

梓「うむ、偉いぞ、純くん」

純「ははぁ、有り難き幸せです、梓大先生!って、誰?」

梓「私が知る訳ないじゃん」

純「アハハ、そりゃそうだ。さってと勉学の後は、音楽に勤しみますか」

ギターケースを背負う純の姿を見て、なんとか押さえていた胸の痛みが甦る…

純「途中まで一緒に行く?」

梓「先に行っていいよ。私はちょっと用事を済ませてから行くわ」

純「ほいほーい。じゃあまた明日ー」

梓「うん、ばいばい」

…嘘つき。用事なんてない癖に


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最終更新:2010年09月09日 23:37