放課後、2年教室
ポイッ
梓「憂にリクエストされた通りに書いたから、設定とかは深く考えないでね」
梓「うわっ、逃げ道作った……」
憂「まあ、いいんじゃないかな。純ちゃんも批判とか怖いんだね」
梓「それより何で廊下に行ったの、あいつ」
憂「さあ……ま、とにかくよもよもっ!」
梓「なんか釈然としない……」
梓「というか、これ読んだらまた唯先輩が増えるんじゃ」
憂「大丈夫だよ。うじゃうじゃしてるお姉ちゃん、かわいいもん」
梓「まあ、憂がそれでいいならいいけど……」
ポイッ
梓「憂がタイトルコールですぜ」
梓「これもいらない気がするけどなぁ……」
憂「まあ、一つの儀式みたいなもんじゃないかな」
憂「やんないとダメな気がするよ」
梓「まあ、大した手間ではないからいいんだけど」
憂「オホン! じゃあいくね」
憂「『お姉ちゃん大好き!』」
梓「いや違うだろ」
憂「だって言いたくなったんだもん」ブーブー
梓「どんどん唯先輩に似てきたね」
憂「『お姉ちゃんって呼んでいい?』」キランッ
梓「なんでこの一言で機嫌をよくするんだろう」
憂「お姉ちゃんって呼んでいい?」
憂「……」ガチャ
私は自分の家が嫌いだ。
憂「……」バタン
だから、「いってきます」も「ただいま」も言わない。
そこが私の家であってほしくないから。
けれど、居間につづくドアを開くと、雑誌を読みふけっていた彼女は顔を上げて、私の方をちらりと見た。
唯「おかえり」
そして、気だるそうな声で、ここはおまえの家だと主張した。
憂「……ただいま」
気圧されたように、私の声が居間の空気を震わす。
それきり、時が刻まれる音と雑誌のページをめくる音以外はしなくなった。
――やっぱり、この家は嫌いだ。
憂「……」カリカリ
私は今、無謀な勝負を挑んでいる。
だがこの勝負に勝たなければ、私はまたこの家でフラストレーションを溜めていかなければいけない。
憂「……っ」ゴシゴシ
また間違いが見つかる。
半ページほど並んだ数式をごっそり消していく。そもそものやり方から間違っていた。
このペースでは間に合わない。年間カレンダーに印しつけられた試験の日を見つめ、溜め息を吐く。
コンコン
再び机に向かおうとした私の襟首を、ノックの音が引っ張り上げた。
唯「晩ご飯作ったけど」
憂「そう」
簡潔に、返答になっていない言葉を返すと、問題集を閉じる。
面倒だ。
居間
憂「……」カチャ
食器と箸のぶつかる音がやけに大きいけれど、それもこの家ではごく一般的なことだ。
わざわざ気にかける必要もない。
だけれど、今日はいくらかその音が大きい気がして、私は顔を上げた。
憂「ねぇ」
姉が大きめのコロッケを一口に頬張っていた。
唯「……あに、憂」モッシャモッシャ
憂「なんで今日は家にいるの?」
唯「ほりゃあ」ゴクンッ
唯「たんに恣意だよ」
憂「……そう」
唯「憂、わかってないでしょ」
憂「悪い?」
唯「高認受けるんじゃないの? この程度知らなきゃまずいよ」
憂「……今やってるの、数学だから」
唯「あと2ヶ月なのに手つかずの教科があるんだ」フフ
唯「まあ、期待してるから。勉強頑張って」
茶碗にまだご飯が残っていたけれど、
私はそっと箸を置いて、自分の部屋に戻った。
居心地が悪いなんてものではなかった。
憂の部屋
憂「……っ!」ゴン
壁に打ち付けた拳骨に、衝撃が返ってくる。
憂「くっそ……っ!」
悔しさがぶくぶくと膨れてくる。やり場のない怒りでもあったのかもしれない。
私は姉のことを、学の無い人間だと完全に見下していた。
なのに、その姉に小馬鹿にされた。
さらに事実、姉が口にした言葉は私の知らない言葉だった。
憂「……やる気でない」
口に出してみると、それが正当な理由として評価された気がした。
お風呂は朝入ることに決めて、私はベッドに飛び込んだ。
――――
『ドンッ……』
唯「ぷっ」クス
唯「そうやって、鬱屈するものを溜めこむばかりで」
唯「昇華させることができないから、憂はだめなんだよ」
唯「……」フー
唯「ま、別にそのままでいいけどね……」
唯「……風呂入るっかなー」ノビノビ
スック
スタスタ ガチャ
唯「やっぱオフは気楽でいいね」スルッ
唯「毎日オフならいいのに……はは、それじゃ困っちゃうか」パサッ
浴室
唯「はぁー」チャポン
唯「すぅー……ふっ!」ザブン
唯「……」ブクブク
唯「……」シーン……
お湯を張ったお風呂に頭まで浸かって、静寂が来るまで身をたゆたえる。
母親の胎内を思い出す。記憶には無いけど、確かに私のいた場所。
今となっては、存在しない場所。
唯「……」
唯「……」ユラッ
お風呂場には、ひとつトラウマがある。
ここから全部が狂ったんだ。……私の不注意で、この家は瓦解した。
唯(お母さん、私の懺悔を聞いてくれる?)
小学校2年生の夏。
このお風呂場で、転倒事故が起こった。
単なる転倒事故で済めばよかった。そんな些細なことだったら、覚えてもいないだろう。
当時の私は、よく転ぶドジだったらしいし。
ただ、すっ転んだ私が落ちて行った先に、まずいものがあった。
水色の、プラスチックのコップだ。
そのコップは、ハブラシとかの小物をまとめて立てておくために、そこに置かれていた。
お父さんのヒゲソリと、お母さんのカミソリも、一緒に立てられていた。
お父さんは几帳面だから、T字のヒゲソリにもきちんとキャップをつけていた。
けれどお母さんのカミソリは刃がむきだしのまま置いてあって。
私のお尻は、ちょうどお母さんのカミソリのもとに、一直線に落ちてった。
……その後はもう、阿鼻叫喚だったのをぼんやり覚えている。
私の大事なところにカミソリが突き刺さって、けっこう深く切れちゃって、
縫合処置を施された、という話を起きてからお母さんに聞いた。
それを聞いて、私はまた気を失って。
……それが最後に見た、お母さんの生きた姿だったね。
その夜、病院で寝ていた私は、救急車に付き添ってきた憂にその事件を聞かされた。
憂「おかあさんがね、ころされたの」
憂は、今日のテレビアニメのあらすじを語るみたいに、目をキラキラさせていた。
まだ子供だから、事を理解できていないんだ。
最初はそう思っただけだったけど、話を聞いているうちにおかしくなってきた。
憂「あの、ギュイーンってやつでね」
唯「ドリル?」
憂「そうそう。それで、おかあさんはここをギュイーンってされたの」パフパフ
唯「ねえ、うい」
憂「それから、ここもギュイーンってされたんだよ」ポンポン
唯「うい、それってお父さんから聞いたの?」
憂「ううん。おとうさんのこーぐばこからもってったのバレたら、おこられちゃうもん」
微妙に話が噛みあってなかったけれど、知りたいことは知ることができた。
唯「ういはなんで、ドリルを持っていったの?」
憂「かたきうちだよ!」
唯「だれのかたきうち?」
憂「おねえちゃんだよ。おかあさんのせいでケガしたじゃん!」
唯「……そっか。うい、ありがと」ナデ
憂「えへへ……がんばりました」
その日から、私の行動はすべて憂に基づくようになった。
警察の人に対して、お父さんが一度だけお母さんに暴力を振るった日のことをあげつらい、
さもお父さんが、日ごろからお母さんに暴力を振るっているかのように脚色した。
その時のケガの痕がお母さんの顔に残っていたことも、私が気付かせた。
やがて、お父さんは犯行を自供した。
この場合自供と言うのかはわからない。そもそも犯行すらなかったのだ。
とにかく、お父さんは憂の罪をかぶって、しばらくした後刑務所に入れられた。
きっとお父さんも、誰がお母さんを殺したのか知っていたんだと思う。
というか、多分その状況を目撃してたんだ。
……そのうち、会ったことのない親戚のおばさんが、私たちを引き取りたいと申し出てきた。
だけれど、私はその申し出を頑なに断った。
もしも、それでもう一度私に何かあったら、今度はこのおばさんが殺される。
その時にはもう、かばってくれるお父さんはいない。
となると、いずれ憂が人を殺したことが周辺に認知されることになる。
だったら、多少辛くてもこの親戚のおばさんの家に行くわけにはいかない。
私が必死に頑として断り続けると、やがておばさんは、引き取ることは諦めてくれた。
その代わり、毎月まとまったお金が届くようになった。
私たちは、その一部を幼馴染の和ちゃんの家に送る代わりに、
食事など、生活に必要なことを和ちゃんの親に手伝ってもらった。
もちろん、いつまでも甘えている訳にもいかないから、自分たちでこなせる家事は率先して覚えていった。
そうして私たちは、他の子たちよりも早く、自分たちで家事をこなせるようになっていった。
私も憂も、家の事はなんでも出来るようになった小学6年生の夏。
私は突発的にギターに興味を持った。
あるギタリストのドキュメンタリーを見た影響だったんだと思う。
「いいかげん家族に迷惑かけたくなかったから。だから唯一自信のあるギターで食っていくことにしたんです」
彼の語ったその言葉が、心に響いて。
翌日から、私は自分のための生活費を切り崩し始めた。
アイスもお菓子も新作のゲームも我慢すると、お金はおもしろいほど貯まっていった。
秋が終わるころには、ちょっと背伸びしたギターも買えそうなほどの貯金ができていた。
私は一人、楽器屋に赴き、欲しいギターを探しまわった。
そしてその日、私はレスポールに一目惚れをした。
家に駆け戻ってお金をとると、また店に舞い戻って即、購入。
小学生の感性としか言いようがないけど、そのギターに「ギー太」と名前を与え、抱きしめて帰った。
……はい、アンプとかのことすっかり忘れてました。
もともとこれだけお金を貯めたのは、いっぺんに充実した設備を整えたかったからであって、高いギターを買うためではなかったのに。
さて、私がアンプに繋いだギターの音を聞くのはそれから少し後になるけれど、それから私は毎日ギターを弾いていた。
少しずつ上達していくのが嬉しくて、独学で勉強しながら、毎日練習をした。
そして、私が中学生になってしばらくすると、憂の様子がおかしくなりはじめた。
いや、気付いたのがその頃であって、本当はもっと昔から歪んでいたのかもしれない。
鈍い私を歪みに気付かせる、大きな出来事があった。
憂が2日間、家出をした。
「ごめんなさい、お姉さん」
「そういう事情だったとは知らなくて……」
憂を匿っていた友達の女の子は、深々と頭を下げた。
謝られても困る。そもそも私は腹を立てていない。
「ほら憂、今日はもう帰んなって」
憂「……そだね」
憂も迷惑をかけてしまったという自覚があったのか、素直に友達の言うことを聞いて、家に帰った。
唯「ねえ、憂」
憂「……なに?」
唯「どうして、家出なんてしたの?」
憂はふっと息を吐いた。冬の深まったころである。憂の吐いた息の形に、白い霧が立ちのぼった。
そして、それきり憂の口は言葉を紡がなかった。
家出をした理由、問い詰めた方がよかったんだろうか。
未だに分からない。
肩にかけたバッグのベルトがギシギシと軋んでいた。
一体、何日泊るつもりだったんだろうか。
その疑問は浮かびあがり、ふわふわと空中をさまよったあと、また私の頭の中に戻ってきた。
結局私は憂に何一つ尋ねられないまま、何の言葉もかけられないまま、家に到着してしまった。
憂「……あのさ」
自分の部屋に戻る前、憂はぽつりと言った。
憂「迎えに来てくれて、ありがと」
唯「……ううん。帰って来てくれてありがとう」
私がそう答えると、憂はくすぐったそうにはにかんだ。
それからしばらくは、憂はおとなしくしていた。
夕食の席で共通の話題を出して笑い合う、なんてこともあった。
それでも、私がギターの話題を出すと、途端に食卓の空気は冷たくなった。
私はそんな憂の態度に困り果てながらも、ギターの練習だけはやめられないでいた。
高校に行ったら軽音楽部に入ることも、すでに決意していた。
ギターと憂と、どっちが大事なのか、って訊きたいと思う。
当時の私なら、それを真剣に考えたかもしれない。
だが今の私なら、とんだ的外れだと鼻で笑うだろう。
ギターは手段。憂は目的。大事ということの方向性が違う。
明確な回答を持たない疑問を抱えながら、私は日々を憂と過ごして。
そして私は中学を卒業し、高校に入った。
私立桜ケ丘女子高校。少し前から、音楽家たちの間では有名になった名前だ。
というのも、この学校の軽音楽部はかなり高いレベルを持っているらしい。
現在は解散しているが、数年前にもメジャーデビューするバンドが生まれている。
多少偏差値が高い名門校ではあるが、そのくらいは勉強をすればどうとでもなった。
勝負はここからなのだ。私はなじみのギターを背負い、軽音楽部の戸を叩いた。
最終更新:2010年09月15日 23:48