憂のことを軽視するわけではないけれど、ここまで見えてきたならばやり遂げた方がいい。
それに、生活費を送ってくれる親戚のおばさんのこともある。
高校生にもなったのだから、少しくらい恩を返してみてもいいんじゃないか。
CDが売れたら、今までもらってきたお金の少しでも返したい。
そんな風に考えていた。
それだけじゃない。
私の稼ぎで、憂を養ってあげられるかもしれない。
そしたら、私は憂に恩返しできるんだろうか。
あ、でもお母さん、私は恩義を感じてるわけじゃないよ。
憂が私を大事に思ってくれたから、私もそれに応えられるくらい愛するわけであって。
お母さんが死んだことが嬉しいなんて話ではないからね。
そうなんです。
私は憂に勧められた通り、今のキャラに合うように髪形を変えてみた。
和「……誰?」
10年来の親友に言われるときつい。
和「ええ、知らないわ」
和「……でも、似合ってるわね」
唯「ありがと」
和「人に向ける態度じゃないわね」
唯「そうかな。じゃあ和に対してはやめる」
和「やめれてないって」
唯「ごめんね。これは崩せないから」
唯「でも、あんまりそっけない態度をとらないように気をつけるよ」
和「ええ、そうして」
数日後、斎藤さんが私の歌をチェックしに来た。
まだ期日ではなかったが、中間報告ということだろう。
斎藤「その髪型、カッコいいよ」
唯「そうですか。そう言ってもらえると嬉しいです」
斎藤「デビューしてもその髪型はキープしてほしいね」
斎藤「それじゃ、歌ってもらおうか」
唯「はい」
私は一番上手く唄える歌を選んだ。
それでもまだ、まったく十分ではないだろうと踏んでいたのだけれど、斎藤さんの答えは違った。
斎藤「ほとんど完成されているね。それでいて秋山くんになかった堂々とした姿勢や遊び心もある」
斎藤「期待以上だ。……まだ早いと思っていたが、作曲家を急がせないといけないな」
斎藤さんはそう笑った。この人に任せて大丈夫なんだろうか。
斎藤「あー、ところで平沢くん、少し2人で話がしたいんだが」
律「なにぃ! 枕営業といったら澪だろ!」
澪「違うから黙ってろ!」ゴッ
律「冗談が過ぎたか……」スリスリ
唯「はい、いいですよ」
紬「ふふ、でも唯ちゃん。危なかったら大きな声を出していいのよ?」
唯「ありがと、紬。信頼してるよ」
紬「うふっ」ピュッ
斎藤「では、音楽室を出ようか。話はそこでいい」
ガチャ
斎藤「率直に聞くが……君の家で過去にあった事件、あれを君の仲間たちは知っているか?」
唯「……なぜあなたは知ってるんですか?」
斎藤「すまないが、商売相手の経歴は調べさせてもらう。それで、どうなんだ?」
唯「付き合いがありますから。家に彼女たちを呼んだとき、自然と家庭環境の話になりました」
斎藤「そうか。……君には妹がいるな?」
唯「はい。……憂、ですけど……」ギュ
斎藤「……どうかしたか?」
唯「いえ、なんでも……それがどうかしたんですか?」
斎藤「言うまでもなく、君には分かっていることだと思うが……」
唯「っ」グッ
斎藤「……君はこれから恐ろしいほど忙しくなると思う。実家に帰れる機会なんて、ほとんどないだろう」
斎藤「そのとき、君の妹は一人で大丈夫かい?」
唯「……え」
唯「あ、ああ、はい。家事に関しては、ずっと分担してやってましたので、家のことは一人でやれるでしょう」
唯「それに多分、一人だからと言って寂しがるような妹ではないです」
斎藤「そうか……それなら、都心にとる部屋は一人部屋で大丈夫だな」
唯「……はい」
斎藤「わかった、ありがとう……」カキカキ
斎藤「じゃあ、次に会う時は君たちのデビュー曲を持ってくるからな」
唯「あ、帰るんですか? それではまた」
斎藤「うむ……」
斎藤さんは何か言いたそうにしてから、やっぱり何も言わずに階段を下りて行った。
唯「ふー」ガチャ
律「あれ、唯。斎藤さん帰っちゃったのか?」
澪「律がたちの悪い冗談言ったからだな」
律「いやー、斎藤さんは大人だから大丈夫だって」ヒラヒラ
澪「まったくもう……今度会ったとき、いちおうでも謝っておけよ」
紬「唯ちゃん、話ってなんだったの?」
唯「大したことじゃなかった。ほら、私たち東京が本拠地になるわけだけど」
唯「一緒に憂も連れていくか……っていう話」
律「ああ、そういえば唯の家って……それで、連れてくんだよな?」
唯「ううん。置いてくよ」
律「そりゃそうだよなー! たった一人の家族だもんな!」バシバシ
唯「痛い、律」
律「……あれ?」
唯「うん、置いてくよ」
律「……マジ?」
唯「置いてく」
律「え、なんで……」
唯「なんで?」
そんなこと考えてなかった。
唯「どうしてだろう……なんであんな風に答えたんだろう」
澪「おい……今からでも遅くない、斎藤さんに言って撤回してもらえ」
唯「ううん、答えが間違ってたんじゃない。どうしてこの答えが出たのかわからないだけ」
紬「……唯ちゃん」
唯「ごめん、ちょっと考える」
私は憂に報いるんじゃないの?
憂のために生きているんじゃなかったの?
家事をすべて憂に押し付けたら、憂の負担が増えるじゃないか。
それなら憂と一緒に暮らしているほうが家事を分担できる。そのほうが楽にきまっている。
それが分かっているのに、何故私は憂を置いていくことにしたのか?
きっとそれが憂の幸せにつながるからであって……。
唯「……なるほど」
思考を進めていくと、すぐに掴めた。
唯「わかった。憂が私のこと嫌いだからだよ」
唯「だから私は憂から離れなきゃいけなかったんだ」
唯「私はそのことを深層心理で知っていた。そうだったんだよ」
誰も、私の出した答えを正解だとは言わなかった。
りっちゃんのくせに。
それからしばらくして、私たちは斎藤さんからデビュー曲になる「No,Thank you!」の楽譜をもらった。
澪ちゃんに似合う、クールでかっこいい卒業ソングだ。実際、ジャケット写真は澪ちゃんと私を前面に映す予定だという。
カップリング曲の「ぴゅあぴゅあはーと」は対して少女の恋心をつづった甘いラブソングだ。
まあ、「ギー太に首ったけ」を作詞作曲してしまった私には、何も言えない。
律「ギャップがあっていいと思うけどなー、私」
澪「すごくいいよ……この歌詞」
りっちゃんと澪ちゃんはぴゅあぴゅあはーとを気に入ったらしく、暇さえあれば口ずさんでいる。
紬「私はこっちの曲のほうがいいかしら」
律「ムギはほんとイメチェンした唯大好きだな……」
紬「ええ! 唯ちゃん大好き!」ンー
唯「ありがと、私も好きだよ。でもキスするのはやめてほしいな」
紬「あーらら、私ったら……」ブシュッ
ある程度の紆余曲折はあったけれど、無事予定までに曲を演奏できるようになり。
レコーディング、ジャケット撮影。プロモーションビデオも撮る。
発売日が近づくと各地のイベントに顔を出して回る。
なるほど、斎藤さんの言ったように恐ろしいほど忙しかった。
高校もろくに行けなかったが、私立だけあって、こうやって名を広めたりすると授業なんて受けなくても特例扱いで進級できたりする。
桜高軽音部の名前をもういちど知らしめられるとあって、学校の方も力を入れているらしい。
私たちのバンド名も、桜ケ丘高校軽音楽部、ということになっている。
学校にどんな影響が出るのか分からないが、私たちは必死に走り回り、ついにCD発売の日を迎えた。
と、同時。憂が桜ケ丘高校に合格した。
唯「……どうして、桜高に?」
憂『ちょうどレベルが合っただけ』
憂『別に、馬鹿な高校に行ったわけじゃないんだからいいじゃん』
そうだ。
私は憂の進む道に口を出す権利を持たない。
唯「まあ……いいんだけどさ」
憂『そうでしょ。じゃあ、切るよ』
まだ言いたいことがあったのに、憂はさっさと電話を切ってしまった。
唯「……憂、ちゃんとご飯食べてるんだろうか」
……
澪「……」ソワソワ
律「……」ウロウロ
紬「ねえ唯ちゃん」
唯「なに、紬?」
紬「唯ちゃんは私たちのCD、何位だと思う?」
唯「そうだね……みんなはどう思うの?」
紬「私は……やっぱり1位がいいかしら」
唯「律は?」
律「1位に決まってるって!」
唯「澪はどう?」
澪「私は……な、7位くらいじゃないのか?」
律「そんなこと言って、心の中では1位を期待してるよな?」
澪「なっ……うるさいな、もう……」グイ
律「うべ」
澪「それで、唯はどうなんだ?」
唯「……斎藤さんが他の大物アーティストとかぶらないよう、うまく調整してくれた」
唯「他の有象無象に、私たちの音楽が負けるとは思えない。営業も販促もいっぱい頑張った……」
唯「……1位以外、取ると思う?」
紬「ふふっ、ありえないわね」
律「そうだ! なんたって私たちは現役女子高生バンドなんだからな!」
澪「そんな色物でいいのかお前は……」
順位?
いやまあ、それはいいじゃん。
とにかく私たち桜高軽音部は鮮烈なデビューを飾って、世間に広く認知された。
セカンドシングルも売れに売れて、今度は1位を獲得した。
それからの新曲もベスト10上位を取り続け、世間では「桜高軽音部」が流行しだしていた。
デビューから1年近く経った今、それはまさにピークに達しているといえるだろう。
二ヶ月後。私たちの武道館ライブが控えている。
唯「ぷはぁっ!」ザバァ
唯「はーっ、はーっ……」ポタポタ
唯「……ふぃー」
私は防水のデジタル時計に目をやる。
11時32分。だいたい3分経っていた。
まだまだかな、と耳の中に入った水を振り落とす。
私は湯船から上がると、ぬるめのシャワーを高いホルダーに掛け、背中から浴びた。
唯「ふー……」
目を閉じたまま、私は明日の予定はどうだったっけ、と考え始めた。
唯「……あれ? まさかオフ?」
これといった仕事が入っていた記憶はない。2連続オフとは。
いや、そもそもだからこそ家に帰ってきたのではなかったか?
唯「あーもー、疲れてるな」
私はうなじのあたりを掻いてからシャワーを止めると、水をボタボタ垂らしながら浴室を出た。
唯「さっさと寝よ……」
バスタオルでごしごし体を拭き、髪を乾かすと、私は下着だけ履いて自分の部屋に向かった。
ガチャ
唯「ん」
憂「あっ」
バタン
唯「まだ起きてたんだ、憂」
憂『起きてたら何? そっちと違って寝てる余裕なんかないから』
唯「そ。おやすみなさい」ガチャ
バタン
憂『……』ガチャ バタン
スタスタ
憂『ちゃんと服着てよ』
トン トン トン……
翌日。
たっぷり眠ったと思って、寝ぼけ眼をこすってみれば、朝の7時。
拍子抜けして、なんだか目が覚めてしまった。
唯「……そうだ、学校行ってみよ」
私は独りごちると、洗面所に降りて顔を洗い、髪を整えた。
ある層のファンの間では、イメチェン前の私、通称「白唯」のほうがかわいいという勢力と、
イメチェン後の私「黒唯」のほうがかわいいという勢力が争っているらしい。
私は黒唯派だ。今日はヘアピンをつけず、髪はアイロンで真っ直ぐにする。
部屋に戻ると、私はしばらくぶりの制服に袖を通した。
いや、仕事で制服はよく着るんだけれど、私の制服を着るのは久しぶりだ。
長いこと着ていなかったからか、ずいぶんくたくたになっている。
唯「よいしょっと」ピシッ
ブレザーの襟を引っ張ると、くたびれた制服でも少しはしゃんとして見えた。
軽いカバンを持ち、ギターケースを背負って家を出る。
唯「あっ、朝ごはん……」
習慣がないのですっかり忘れていた。
昔は欠かさなかったが、忙しい日々が続く今は摂る日のほうが少ない。
とはいえ、可能な限りは欠かさないようにしているのも事実。
唯「途中でコンビニ寄ろうっと」
普通の高校生みたいで、なんだかウキウキする。
私は遅刻でもないのに駆け出して、懐かしい通学路をきょろきょろ見回した。
コンビニでジャムパンといちごオレを購入。
ストローを差してちゅーちゅー飲みながら歩いていると、見慣れた後姿に出会った。
唯「律、澪」ツンツン
澪「わふっ」ビクッ
律「たあっ!?」ピョン
律「ゆ! ゆゆゅゅぃ……なんだ唯か……気付かれたかと思ったぞ」
唯「誰もこんなヘナヘナの制服で律や澪が歩いてるなんて思わないよ」
澪「確かに。でも唯もひどいな、制服」
唯「アイロンかける時間はあったけどね……二人も学校?」
律「ああ、今日は久しぶりにオフなんだ。もしかして唯も?」
唯「そうだね。多分オフだったかも。マネージャーから電話が入らないことを祈るよ」
澪「もうちょっとしっかりしようか、唯……」
唯「……あれ?」
ジャムパンをかじりながら歩いていると、目の前にまさかの人影現る。
紬「唯ちゃんじゃない! それにりっちゃん澪ちゃんも!」
ムギちゃんだった。軽音部がこんな道端で集合してしまった。
澪「ちょっ、ムギ声大きい……」
紬「あっ……ごめんなさい」ヒソッ
唯「大丈夫だよ紬。ばれてない」キョロキョロ
紬「そう、よかった」ダクダク
律「淡々と鼻血を出すなムギ……目立つだろ」シュボ ギュギュ
唯「律はどうして箱ティッシュを常備してるの?」
澪「まあどっちにしろ、学校に着いたらさすがに隠し通せないぞ」
律「またもみくちゃか……澪、パンツ取られないように気をつけろよ」
澪「取られないから」
最終更新:2010年09月15日 23:51