学校に着くと、案の定大騒ぎになった。
「軽音部だ!!」
全員が一斉に、叫んだ少女のほうへ振り向き、次に彼女が指差している場所……私たちの立っている場所を見据えた。
一瞬の間を置いて、砂煙を上げながら少女たちが駆け寄ってきた。
どうかしてる。
律「散開だあっ!」
りっちゃんの号令に従って駆け出そうとした。
その矢先。
梓「はいはい、ちょっと待つです!」ズザー
純「軽音部ならここにもいるよっ!」シュタッ
なんか滑りこんできた。なんか降ってきた。
この学校にはもっと力を入れるべきことがある気がする。
澪「おおっ! 梓ちゃんに純ちゃん!」
紬「澪ちゃん、お知り合い?」
澪「ああ。前に学校来た時も、似た状況になったんだ」
澪「その時にもこうして助けてもらった」
梓「先輩、話は後です!」
純「ここは私たちが止めますから、先輩たちはなんとか音楽室に!」
私たちは頷き合った。
律「澪、行くぞ!」
唯「ついてきてね、紬」スッ
紬「ええ!」パシッ
私はムギちゃんに手を貸して、地を踏みしめると駆け出した。
上履きに履き替えなくてもいいよね、別に。
音楽室は最上階にある。
もとより別名「上るのめんどくさいあそこ」と呼ばれる辺境の地として疎まれていた場所だ。
久々に訪れた私たちとしても、その所以をたっぷり再確認させられているところで。
要するに。
唯「遠い……」ハァ
律「くっそ……こんなに遠かったか!?」ギュギュ
紬「ふむぐ……わ、わかりばせんわ」タラー
澪「でも次の階段を上れば」
律「あっ、バカ澪! それはフラグだっての!」
澪「えっ?」
「キャー! 軽音部だー!」ドドドッ
唯「……律が悪い」
律「そんなっ!?」ガビーン
さて、何はともあれ。
澪「囲まれたな」
いつの間にか背後からも生徒たちが集まって来ていた。
お前らホームルームの時間だぞ。私もだけど。
唯「階段なんて足場の悪いところでもみくちゃにされたら、ケガしちゃうかも」
律「もうちょい焦ろうか、唯」
紬「あらあら、頼りになっていいじゃない」
律「頼りにはなるけど安心すらできないのが唯の惜しいところだよ……」
私たちが身動きをとれないことを分かっているのか、暴徒と化したファン達はゆっくりとにじり寄ってきた。
澪「ケガしたとして、武道館ライブまでに治るか……?」
唯「程度にもよるけど……みんな、両手はしっかり守ってね。それでなるべく律を守るよ」
紬「そのセリフ、私に言って欲しかった……」
律「ま、みんなひどいことはしないだろ。いっそファンサービスに徹するか?」
澪「せっかくのオフだけど、しょうがないか」
澪ちゃんがため息をついた瞬間。
「伏せてっ!」
稲妻が迸るかのように、居合わせた全員を射抜く鋭い声がした。
私たちは即座にかがみ、頭をかばう。
だが、うじゃうじゃと狭い廊下や階段に集まっている生徒たちはそうもいかないようだ。
続けて、ひしめき合い混乱する彼女たちの耳に、乾いた銃声が3つ、届いた。
私には録音したものだと分かったが、澪ちゃんは単純に音の大きさに驚いたのだろう。
りっちゃんに飛びつくと、気絶してしまった。
……いいんだろうか、これ。
まあ、ややこしい是非はともかく、パニックになった生徒たちは散り散りになってどこへともなく消えていった。
唯「……和?」
私が問いかけると、先ほどの声の主は悠然と階段を下りてきた。
和「久しぶりね、唯。大事なかった?」
憂「……」フイッ
その右腕で、予期せぬ人物をがっちりと抱えて。
唯「あ……いや、澪が気絶したみたい。このまま音楽室に連れていって、休ませてあげよ」
和「そうね。手を貸すわ」
和ちゃんは憂を解放して、澪ちゃんのところまで降りてくる。
憂はというと、自由になるやいなや駆け出していた。
唯「憂! ありがとう!」
走り去る背中に、私の声が届いたかどうかは分からなかった。
律「……よいしょっと」
和「助かるわ、田井中さん」
りっちゃんと和ちゃんで、澪ちゃんに肩を貸して音楽室まで連れていくことにした。
ムギちゃんは私を見て、珍しく難しそうな顔をしていた。
音楽準備室
唯「なんか、懐かしいね……」
律「そうだなー。ちょっと前までは、ここで部活をやってたんだよな……よっと」
りっちゃんは澪ちゃんを固いソファーに横たえると、ぐるぐる肩を回した。
少し遅れて、梓ちゃんと純ちゃんも音楽室にやってきた。
純「お、お初にお目にかかります……」ハァハァ
梓「中野梓です、よろしくおねがいします」ハァハァ
紬「梓ちゃんに純ちゃん。お疲れ様」ニコッ
和「生徒会と軽音部は、唯たちがいつでも気軽に学校に来れるよう、常に警戒をしているの」
和「私たちがいる限りは、学校で危険な目には遭わせないわよ」
唯「それは頼もしいね」
唯「でも、軽音楽部って二人だけなの?」
紬「そうね。二人で練習できるの?」
梓「いえ、部員はあと一人いるんです。私と、ここにはいませんが憂がギターを、純がベースをやっています」
梓「私はギター一筋だったんですけど……憂がどうしてもギターをやりたいというので、こういう形になりました」
りっちゃんがニヤニヤしてるのを感じた。
純「はい、ゆ、ゆゆ唯先輩の、妹です」
唯「そう。憂がね……」
紬「ねえ梓ちゃん、憂ちゃんはどうしてギターを?」
梓「それは言えないって言ってましたけど……」
純「きっとお姉さんに憧れてるんですよ!」
憂が私に憧れている。
そんなはずはないと思った。
唯「ねえ二人とも。憂の夢って知ってる?」
梓「え? ……聞いたことないです」
純「私も……なんとなく唯先輩の後を追っかけたいんだなーと思ってたんですけど」
純「……違うんですか?」
唯「……本人が言うには、違うらしいけどね」フー
どうなっているんだ。
律「かわいいなぁ、憂ちゃん」プークスクス
紬「ふふ……唯ちゃんの方がかわいいわよ?」
高卒認定試験に合格し、同年度にどこかの大学に入学し、家を出る。
憂が私に語った夢といえば、これのことなんだけれど。
唯「みんなはどのくらい練習しているの?」
梓「純はアルバイトをやっているのでたまに休みますが、私と憂は毎日練習してます!」フンス
大学と言っても千差万別。しかし、高卒認定試験はそう簡単に合格できるものでもないだろう。
毎日放課後に残ってギターを練習して。
ずば抜けた学才もないのに、それで弱冠15歳が合格できるのか?
なおかつ、その目標を私以外の誰にも宣言していない。
たった二人の部活仲間にすら。もしかしたら、来年には共に部活をできない間柄になるかもしれないのに。
あと、16歳で大学合格なんて、ちょっとカッコいいのに。
――ねえ。
唯「やる気はあるんだね」
やる気なんかないんじゃないの、憂。
私はカバンを開くと、中から三枚の紙片を取りだす。
唯「はい。みんなで仲良く分けあってね」
それを受け取った二人の目が、らんらんと輝いた。
梓「これ……二ヶ月後の武道館ライブのチケットじゃないですか!」
純「しかもっ、さ、最前列!? い、いただいていいんですか!?」
唯「よかったら、聞きに来て」
梓純「絶対行きますっ!!」フンヌ
その後。
私は他愛のない話題を選んで梓ちゃんたちと話をしたり、一緒に演奏をしたりした。
授業を受けることはできなかったし、ギターなんていつも弾いているけれど、なんだか有意義な時間だった。
しかし頭の片隅で、憂のことがぐるぐると回る。
あの子はいったい何を考えていらっしゃるの。
平沢家
唯「ただいま」ガチャ
シーン……
唯「……って、いない」バタン
私は明日の仕事に備え、遅くならないうちに帰ってきた。
とはいえ、授業はとうに終わっている時間。
どうやら、憂が毎日練習に行っているというのは本当らしい。
昨日も帰りは遅かったはずだ。
唯「……」
憂が何時頃帰ってくるか想像をつけてみる。
あと1時間くらいだろうか。昨日はそのくらいだったはずだ。
唯「やるか……」
私は部屋にギターを置き、無地のシャツに着替える。
久々に入る、憂の部屋。
かれこれ5年ほど立ち入っていないだろうか。
唯「……」ガチャ
ノックをせず、ドアを開けた。
まず目に付いたのは、ギタースタンド。次に、本棚に敷き詰められた参考書と問題集。
枕を軽く叩いてみると、石鹸の香りが溢れ出た。
昨日は部屋に逃げ込んでしまったが、私が寝た後きちんとお風呂に入ったらしい。
唯「……」
机の上には、消しカスの散らばったノートと、数学の問題集。
問題集を拾い上げてみると、表紙には数学ⅡBとあった。
しおりに挟まれていたページを開くと、ちょうど解きかけになっている問題が目に付いた。
私でも解ける程度の、基本的な問題だった。
さて、ノートに書かれた計算式は途中で消されている。つまりはミスをした、ということになるのだけれど。
私は目を凝らして、どんな間違いをしたのか確かめることにした。
唯「……」クス
これは。
唯「……あはっ」
思わず笑ってしまう。
憂のした間違いが特別に可笑しいわけではない。
心があたたまって、ほんわかして笑ってしまう。
だって、本気で勉強をしているとしたら、こんなミスはいくらなんでも起こり得ない。
憂が勉強に没頭なんてしていなくて、私の手の届かないところに行くことはないんだとわかって。
私は胸の奥があたたかく、落ち着いていくのを感じた。
私は傍らにあった憂のペンを取った。
数学の問題を解くのは久しぶりだ。
憂の進んでいった方向とまるで違う道筋で、点Aの座標を求めていく。
数学は発想力とは言うけれども、それは応用的な問題の話だよ、憂くん。
これはただひたすらに解法のテンプレートをあてはめ続ける問題なのだから。
唯「……うん、余裕」
答えを確認し、席を立つ。
今夜中には東京に戻らないといけない。
私は自分の部屋に戻ると、ハンチング帽を被り、伊達眼鏡をかけて、一枚、これも目立たないシャツを羽織り、ギターを背負う。
外に出ると、この時間帯は少しばかり冷え込むようだった。肌寒い風が懐を抜ける。
私は長袖のシャツに替えようかと思ったが、戻っている時間が惜しく感じた。
そして、その判断は正しかった。私が門を抜けていってからしばらくして、憂の部屋から明かりが漏れるようになった。
唯「じゃ、またね」
「うふ」
電車で向かい合う形となった少女が、目が合うたびに笑いかけてくる。
紬「ふふ」
まあ、ムギちゃんなんだけど。
私は携帯をいじるのにも飽きて、耐えきれずに席を立った。
そしてムギちゃんの座っている前に立ちはだかると、吊り革を持ってへたれる。
唯「紬も明日は仕事?」
紬「ううん。けど、唯ちゃんの顔が見たかったの」
唯「そうなんだ。紬は全部気付いてるんだね」
唯「……いや、気付いてなかったのは私だけなのかな」
紬「うふふ。そういう意味で言ったんじゃないのに。唯ちゃんたら」
唯「分かってたよ。真意をくみとりたくなかっただけ」
紬「あらあら」
唯「隠すようなことじゃないしさ。私の家族のことだし」
唯「で? 私の顔、昨日よりよくなった?」
紬「ええ、とっても。見惚れちゃうわ」
紬「吹っ切れたのか、解決したのかはわからないけど……いい顔」
唯「そ。ありがと」ニコ
紬「ふふっ」ブバッ
急いで家を出てきたのは、電車の時間だったからでも、憂を避けていたからでもない。
今回のことは憂自身に考えてほしかった。
私に会ったら、憂はきっと武道館のチケットを突っ返してしまう。
そしてチケットは憂の手元からなくなり、憂は何も考えず、また「高認を目指して勉強する平沢憂」に戻る。
それではだめだ。
私のチケットと向き合って、そして私と向き合って。
自分の本当の気持ちに気付いてほしい。
私でも解ける問題を解けないくらい、勉強をしてこなかったことを知って。
自分が本当にしたいことに気付いてほしい。
そして、できればそれを、恥ずかしがらずにお姉ちゃんに教えてほしい。
唯「紬、いまティッシュ出すから待ってて」ゴソゴソ
紬「ごべんね唯ちゃん」ボタボタ
唯「よいしょ……はい」ギュギュ
紬「んふふ」ポワー
ムギちゃんを見ていると思う。
私もりっちゃんみたく、ボックスティッシュを持ち歩くことにしよう、って。
最終更新:2010年09月15日 23:52