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憂「……」

 私は居間で転がりながら、梓ちゃんにもらったチケットを蛍光灯にかざして眺めていた。

憂「武道館ライブ、か」ボソ

 まったくもって興味がわかない。

 したがって行きたくない。

 ……だというのに。

純『憂、あんたのお姉さん最高!!』キラッキラッ

梓『テンション上がってきたよ! 二ヶ月後が今から待ち遠しいねっ!!』ビカッビカッ

憂「……はぁ」

 私は一人の人間だけど、一人じゃない。

 付き合いという物がある。

純『いくよねっ、いけるよねっ、憂!』ギンギラギンッ

 あの瞳の輝きを見せられて、行けないなんて言えるものか。

 二ヶ月後ともなると、私もスケジュールを把握していない。

 まあ私に用事と言えば軽音部くらいだから、どうせ空いてるんだろうけど。

 今さら悩んだところでしょうがない。

 もう行くと言ってしまったんだ。じゃあ行こうじゃん。行ってやろうじゃん。

憂「……」ムクッ

憂「……二ヶ月後……?」

唯『あと2ヶ月なのに手つかずの教科があるんだ』フフ

憂「……」ブルッ

 手元のチケットに書かれた日付を確認する。

 緩慢な動作で立ちあがり、階段をふらついた足取りで上る。

 ガチャ

 部屋に入るやいなや、年間カレンダーと睨みあう。

 そして11月につけられた日付と、先程確認したライブの日付を照合。

憂「……っ」ゾワゾワッ

 ああ。

 おわった。

 もうすこしよろしく、平沢邸。

憂「……」ドサッ

憂「……」

 ……いや、その。

 高校のころに出来る友達って、大事だって言うし。

 だから、この刹那の二者択一。間違ってないよね?


憂「……」グデー

憂「……ああ、お風呂入らないと」ムクッ

 昨日もそうだった。

 お風呂は翌朝でいいと思って布団に潜ったものの、少し眠ると体が気持ち悪くて目が覚めてしまった。

 入浴は重要である。危険を伴っても欠かすわけにはいかない。

憂「ふんふーん♪」トン トン……

 ほぼ生まれたままの姿の、確執ある姉に遭遇するとか、

憂「ふーふふーん♪」スルル パサッ

 濡れたタイルでお姉ちゃんが滑って転ぶとか、

憂「ふーふふんふーふーん♪」カララ

 その結果として母を殺し、父にその罪をなすりつけることになるとか。

 そういう危険を伴っても、入浴は欠かすわけにはいかない。


 私の罪は、誰も知らない。

 姉にこの罪を告白した時、姉はしばらく押し黙った後、

唯「うい、ドリルかってにつかったこと、ほかの人のだーれにも言っちゃだめだよ?」

憂「? うん……」

唯「おねえちゃんと、やくそく」

 私とそんな約束を交わした。

 それから数日して。お父さんは朝早くに、口をぎゅっと結びながら家を出て行った。

憂「おるすばん?」

 私は姉にそう尋ねた。

唯「うん。長い長いおるすばんだよ」

 それはどれくらい長いのか。

 本当におるすばんなのか。

 訊きたいことが子供心に溢れたけれど、それを言葉にすることはなかった。


憂「……」サアアア……

 それからもずっと、私は姉との約束を守っていた。

 時が経つにつれて、自分のやったことの重みが私を苦しめるようになり。

 ときどき私は、本当のことを言いたいと姉に相談した。

唯「だめ」

 しかし姉はその一点張りだった。

唯「……憂は優しいね。でも、それは憂が苦しむことじゃないの」

唯「お姉ちゃんがそうさせちゃったの。だから憂は悪くない」ギュ

 私を抱きしめて、そんな風にささやく。

 そうすると、だんだん私はまどろみはじめて、苦しんでいたことをちょっとだけ忘れる。

 しばらくすると、また辛くなる。

 そしてまた、本当のことを言いたいと相談する。

 そしてまた、姉が私を抱きしめる。私から辛苦がぬけていく。



 ある夏の夜のことだった。

 姉は珍しく、テレビ番組を熱中して見ていた。

 私も姉の横に座り、一緒に眺めてみる。

 有名なギタリストの半生を描いたドキュメンタリーらしい。

 インタビューのシーンで、姉は大きく息を呑んだ。

 彼がどんな言葉を言ったのか覚えていないが、姉の様子がおかしくなったのはそれからだった。

憂「お姉ちゃん、これ食べたい!」

唯「だーめ。もっとちっちゃいのにして」

憂「……じゃあじゃあ、これやろうよ!」

唯「憂のお小遣いいっぱい減っちゃうよ? いい?」

憂「……出し合ってくれないの?」

 一緒にチョコレートをぱくついたりとか。

 ボードゲームで競い合ったりとか。

 そういうことを拒否するようになった。

 秋の終わりになって、私は真相を知った。

唯「じゃーん!」

憂「お姉ちゃん、これって……?」

唯「コンニチワ ギータダヨ ウイチャンヨロシクネ!」クイクイ

憂「……でも、高かったんじゃない?」

唯「だいじょぶだいじょぶ、頑張って節約したお金で買ったんだ!」

憂「……そっかぁ!」ホッ

 姉はただ、ギターを買うために節制していただけだったのだ。

 よくよく思えば、食材の買い物は私の好きなものにしてくれたし、料理も二人で一緒に作っていた。

 姉が私を嫌っている、というところまで考えが行っていた私は、そう言われてずいぶん安心していた。

唯「ぎゅいーん!」

憂「かっこいいよ、お姉ちゃん!」

 安心できたのは、その一日きりだったけれど。


 姉の倹約はそれからも続いた。

 おまけに、ギターにかかりっきりで、家事も自分の分担だけこなすと部屋に戻ってギターを鳴らす。

 それは別に間違っていることじゃない。そうできるように、当番制にしていたのだから。

 けれど、今まではどっちが当番とか関係なしに、一緒に家事をやったじゃないか。

 料理は料理の中で分担。姉が野菜を切り、私が肉を炒めた。

 掃除は掃除の中で分担。姉が窓を拭き、私が掃除機をかけた。

 洗濯は洗濯の中で分担。姉が洗濯物を持ってきて、私がハンガーにかけた。

 そういう風にやっていたのに、どうして。

 頼めば姉は働いてくれた。当番もきっちり守った。だけど自分から動くことは決してなかった。

 それからはもう、「一緒にやろう?」という言葉は聞いていない。

 私はギターのシャンシャンという音がするたびに、胸が締め付けられる思いだった。

 それでも、姉はギターが好きなのだから、じっと耐えていた。

 私は姉にどうこう言っていい立場ではないのだ。

 私は昔からよく、「両親がいなくて寂しくないの?」と訊かれていた。

 そのたびに私は、「お姉ちゃんがいるから寂しくない」と答えていた。

 けれども、姉がアンプを買い、家じゅうにギターの音を響かせたその日。

憂「……うう」グス

 私はけたたましい爆音の中、胸を震わす寂しさに泣いた。

 泣きながら、タマネギを刻んでいた。

憂「おね、ちゃ……うわあああああああぁぁぁん……」

 ベタなオチだったら良かったけれど、慟哭まであげてしまって。

 それでも姉は、台所に来てはくれなかった。

 それきり、「お姉ちゃん」という言葉は発していない。

 「一緒にやろう?」に対するちょっとした仕返しである。

 さてさて、私も中学生になると、自分がちょっと大きくなったような気がしていた。

純「おはよー、憂」

憂「あ、おはよう純ちゃん」

 ある冬の日、私は学校に行く途中の道で、友達の純ちゃんからわくわくするような話を聞いた。

純「ねえ憂、今日から土日、うちに泊らない?」

 楽しげに吐いた息が白く踊る。

純「月曜まで両親いなくて暇なんだ! うちで遊びつくそうよ!」

憂「ほんとに!?」

純「ほんとだよ!」

 私は心底うれしくて、すぐに承諾していた。

 今日は料理の当番だったけれど、作り置きしておけば問題ないだろう。

 姉が食べたいのは一緒に作る料理ではなく、ただの食事なのだから。

憂「行く行く! 私、そういうの夢だったんだ!」


 放課後、私は家に帰ると、簡単な料理を作ってラップをかけた。

 そして、「夕ご飯はこれを温めて」と書き置きすると、スポーツバックに衣服と生活用品を詰めて家を出た。

憂「純ちゃん!」ハッハッ

純「お、いらしたね憂!」

 私は純ちゃんとゲームに没頭したり、一緒に料理をしたり、

 ベッドでふざけあったりしながら、楽しい時間を過ごした。

 次の日の朝は私が先に起きて、まず携帯を開いた。

 着信5件、メール3件。

 なんだか現実に引き戻された気がした。私は携帯を閉じ、バッグの底にしまう。

純「んー? なにしてんの憂?」ムクッ

憂「えっと……ハブラシ出してた。ほら」

純「それは、カミソリですよっ!」クワッ

憂「チェンバル語講座はやらなくていいの」


 その日はごろごろしながら漫画を読んだり、純ちゃんお気に入りのバンドのライブビデオを見て、

 真似してエアギターに興じたりしていると、勝手に一日が終わっていた。

 私たちは疲れ果てて、お風呂に入って汗を落とすと、近くのコンビニで晩御飯を買った。

 純ちゃんは汗をかいたからと、1Lのスポーツドリンクを飲んでいた。

 そして帰ってコンビニ弁当を食べ、すぐに就寝。前日のようにふざけあうこともなく、互いにぐっすり眠った……と思った。

 夜中。やはり1Lは飲みすぎだったのだろう。

 トイレに起き出した純ちゃんが、私のバッグが光を発しているのに気付いたらしい。

 音はサイレントにしているから気付かれなかったけれど、着信時のランプがバッグを抜けて外まで漏れていたのだ。

 ひとまずトイレに行った後、純ちゃんはランプが気になるから、という理由で私の携帯を引っ張り出した。

 着信やメールを全て確認すれば、ランプは消える。内容を読むつもりではなかったらしい。

 そんな軽い気持ちで私の携帯を開いた純ちゃんは、さぞかしびっくりしたことだろう。

 着信38件、メール7件。発信元は全て「姉」。

 自分で開いたとしてもぞっとする。




 そして、タイミングよく39件目の着信。

 純ちゃんは心配になったらしくて、そっと通話ボタンを押して、こそこそと廊下に出た。

 話によると。

 姉は息切れしていて、最初30秒は口をきかなかった。

 それでも、枯れた声で「憂?」と尋ねた。

 純ちゃんは、自分が妹の友人である鈴木だと明かし、

 慎重に言葉を選びつつ、私が純ちゃんの家に泊っていることを説明した。

 姉はすぐに迎えに行くといって、純ちゃんの家の場所を訊いた。

 住所を言うと、「三丁目の鈴木ね、わかった」とだけ言って電話を切ったという。

 純ちゃんに叩き起こされた私は、そりゃあもうガンガンに叱られた。

 純ちゃんに常識を説かれたのは後にも先にもこれ一回だけだけれど、その剣幕と言ったら、今でも覚えている。

 「暇なんだ」と純ちゃんは言っていたけれど、本当は家族がいなくてさびしかったんだと思う。

 それなのに、たった一人しかいない家族を軽んじた私が許せなかったんだろう。

 とにかく私はペコペコと謝った。もうしない、と。

 迎えに来たお姉ちゃんはひどく憔悴していた。

 声は枯れ、髪はボサボサ。なんとなく頬も痩せていた。

 純ちゃんに促され、それ以上居つくわけにもいかず、私は姉と帰ることになった。

唯「ねえ、憂」

憂「……なに?」

唯「どうして、家出なんてしたの?」

 なるほど、家出か。これは家出だったんだ。

 私はこみあげてきた笑いを、ただの息にして吐きだした。

 家出とわかっていて、それなのに姉には理由がわかっていない。

 問答するのもくだらなくて、私は口をつぐんだ。

 黙り合ったまま家に着く。

 見慣れた家だ。だけれど、もう見ていたくない家。

 私はさっさと歩いて、玄関を開けた。


 冬の夜中。暖房もかからない玄関は、しかしなんだか暖かかった。

 後ろでお姉ちゃんは、身ぶるいしながらドアを閉める。

 私は砂をけるかのごとく靴を脱ぎ捨て、階段を上がった。

憂「……あのさ」

 その途中で私は思い直して、ちょっと階段を下ると、私の靴を直している姉に声をかけた。

憂「迎えに来てくれて、ありがと」

唯「……ううん。帰って来てくれてありがとう」

 姉がそう答えると、私の心にあたたかさがしみわたった。

 一緒にいてくれてありがとう、と姉は言ったのだ。

 もう少しお世話になります、平沢邸。

 シャンシャン

 と思ったのはつかの間で。

 姉の部屋からギターの音色が聞こえてきたときにはもう、私はなんとかして家を出る手段を練り始めていた。


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最終更新:2010年09月15日 23:54