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風呂場のくもった鏡を見つめる。
ぼやけた上に、髪をおろしている私の裸身は、姉と見分けがつかない。
私はこの家が嫌いだ。
そして私の姉も嫌いだ。
なのにどうして、私は姉の後を追いかけているんだろう。
桜ケ丘高校に入り。ギターを買い。軽音部に入り。姉の武道館ライブに赴くことも、今決めた。
その前は、高認を受けて人より早く大学に。というより、東京に行く事を考えていた。
東京には、姉の住んでいるマンションがある。
そこに居候させてもらえばいいやと、平然と考えていた。
今一度問おう、ぼやけた私よ。まったくもってぼやけている私よ。
なぜ私は、大嫌いな姉の後を追いかけているんだ?
翌日、軽音部にて。
純「やっぱ憂はいい感じだねー」
憂「そ、そうかな?」
梓「唯先輩に練習つきあってもらったりしてるの?」
何がいいんだ。
憂「へへ……でも私、お姉ちゃんに教わったことはないよ?」
梓「えっ、そうなの? もったいない……」
純「うん。そういえば憂、せっかく昨日唯先輩が指導してくれたのに、頑なに授業受けてたしね」
純「なになに、不仲説?」
憂「うーん、まあそうなんじゃないかな?」
憂「とりあえず私はお姉ちゃんのこと嫌いだし、お姉ちゃんも私のこと嫌いだと思うよ?」
私が微笑みながら言うと、枯れ葉を乗せた一陣の風が吹いた。
純「ねーよ」
純「ねーよ」
二回も言われた。
梓「ないね。うん、ない」
だからなぜ二回言う。
憂「いや、あるよ。あるって」
純「ないっす。ダブルないっす」
梓「憂が唯先輩のこと嫌いも、唯先輩が憂のこと嫌いも、ダブルないっす」
それで二回言ったのか。息ぴったりだね。
憂「あるある」
梓「ないない」
憂「あるある」
純「ないない」
10往復くらいやったところで、私が「あるありゅ」と言ってしまい、梓・純チームの先攻となった。
純「憂、中学の時に家に泊まったの、覚えてる?」
憂「うん、覚えてるよ」
純「憂さ、唯先輩に連絡しないで、家出みたいな感じになったでしょ」
純「あの時の唯先輩、本当に町内ぜんぶ駆けずりまわって憂のこと探したんだと思う」
純「だって、住所と苗字だけで家の場所がわかるんだよ?」
純「そうでもなきゃ、あんな芸当はできないと思うんだよね」
憂「……声も枯れてたしね」
純「そうそう。きっと憂の名前、ずっと呼んでたんだと思うよ」
憂「そうかもね。……でも、もう3年前のことだよ」
梓「じゃあ昨日の話、していい?」
憂「……昨日の?」
梓「昨日、先輩方が学校に来たのはさすがに覚えてるよね」
憂「バカにしてる?」
梓「よかった、覚えてたね。……で、憂がいないからさ、憂も軽音部に入ってるって言ったら」
梓「唯先輩、すごく憂のことに食いついてたよ。いろいろ話してくれたし」
梓「憂のこと、唯先輩はちゃんと見てるよ。だから嫌われてるわけない」
憂「そう……なのかな」
さて、私のターンなわけだけど。
憂「わかんないや……」
ターンエンド以外に手がない。
自動的に梓・純チームの攻勢に戻る。
純「それに、憂が唯先輩のこと嫌いとか言っても全く説得力無い」
梓「うん。どっからどう見ても大好きだよね」
憂「そんなはずは……」
梓「たっかいのに唯先輩とおんなじギター買って」
憂「そ、それは、何にしたらいいかわからなかったから……」
純「子供のころ一緒にやったツインビーの話が大好きだよねー? 4回は聞いてるよ」
憂「そうそう、ボムばっかり投げて困っちゃうの……はっ!」
純「大好きなんでしょ」
憂「そ、そうなのかな?」
梓「うわー、すっごいニヤニヤしてる」
誰か止めに来ようよ。私のライフポイントはもう0だよ?
憂「でも……なんか納得いかない」
純「ま、憂が唯先輩を避ける態度をとることもよくあるけどね」
梓「過去になんかあったんじゃない?」
憂「過去……か」
私はよく思い返してみた。
どうして私は姉を避けるようになったのだろうか。
憂「ギターを買った日……」
純「えっ?」
憂「あの人がギターを買ってきた日だよ」
梓「あの人って……唯先輩?」
私は頷いた。
憂「あの人にとっての私の位置が、ギターと入れ替わった、あの日」
憂「それから私は、あの人を避けるようになった」
数学の解法が見えた時のような快感が、私を包んでいた。
口から言葉がするすると紡ぎ出される。
憂「それまで私たちはずっと、何をするにも二人で協力してきた」
憂「ゲームだって、家事だって、二人でこなしてきた」
憂「チョコを食べるのだって、アイスを食べるのだって、二人ではんぶんこしてきた」
憂「いつも一緒にいたんだ、私たち」
憂「だけどギー太がうちに来てからはそうじゃなくなった」
憂「家事もゲームもチョコもアイスも、ぜんぶ一人だった」
憂「一緒にやることなんて、一個もなくなってた」
憂「あの人はギー太に首ったけで、私のことなんてどうでもよくなってた」
憂「うい、より、ギー太ぁ」
憂「それで私、家出まがいのことなんてしたがったんだ。見てほしかったから。一緒がよかったから」
憂「でも帰るなりあの人はまたギターの練習を始めた」
憂「もう私のことは見てくれない。一緒になにかやったりしてくれない」
憂「だったらもう、私も姉離れしなきゃ」
憂「そんなふうに思った」
憂「……なのに、私ずっと、あの人のこと好きだったんだ」
憂「ぜんぜん思い出から離れられない。まだまだずっとあの人と一緒にいたい」
憂「一緒にやりたいことがある」
憂「どんどんあの人の背中は離れていくのに、まだまだ追いかけたくて」
憂「一緒にギターを持って歌えば、私のことを見てくれるんじゃないかって思った」
憂「素直にならなかったのは、そういう関係が当たり前すぎたから」
憂「望んで求めても、虚しいような気がして……」
梓「そういう姿勢が、唯先輩をも億劫にさせちゃったのかもしれないね」
憂「……私、謝らなきゃ」
私は携帯を取り出し、電話帳から「姉」を選んで発信する。
しかし、コール音が鳴る前に、純ちゃんがそれを取り上げて通話を切った。
純「おおっと、それよりいいこと考えたんだよね!」
梓「ちょっと純!?」ピッシィン
梓ちゃんが憤慨した。ツインテールが重力に完全に逆らっている。
いや、そんなことより。
憂「いいっていいって、梓ちゃん」
今のは純の気づかいだ。さっきの私はまた興奮していた。
姉がギターを買ってきて、これからは一緒にアイスを食べられると勘違いしてしまったあの日のように。
もしこのタイミングで、姉が電話に出ていなかったら、私は意味なくショックを受けていたかもしれない。
それこそ、立ち直れなかった可能性もある。
私がギャップというか、落差に弱いことを純ちゃんはよく知っている。
それを咄嗟の迅速な判断で回避してのけた。
和さんもだけど、昔馴染みの友人は頼りになる。
憂「それで、いいことって?」
純「いいこともいいこと。心して聞きなさい!」フフン
梓「……」
梓ちゃんが両耳に指を突っ込んだ。
しかし純ちゃんが胸を張ったまま、私のほうをずっと見ているので、やがて黙って指を外した。
ツッコミ待ちだったんだ。
純「いい、憂はこれから2ヶ月、お姉さんに電話するの禁止! 電話を取るのも禁止!」
憂「ええっ!?」
まあ、もともと普段から電話なんてしないんだけど。
それでも、このもやもやした気持ちを抱えていろというのはつらい。
しかし、いざとなれば――
純「もちろん会いに行くのも禁止!」
憂「くっ!」
最後の手段、潰える。
純「会いに来られるのも禁止!」
それはよく分かんない。
梓「それで、結局どうするの?」
純「二カ月したら……先輩たちの武道館ライブがあるでしょ」
梓「ま、まさか……そういうこと?」
純「そういうこと! 唯先輩、感動するよ!」
どういうことだ。
まあ多分、楽屋に押し掛けていえーい武道館ライブおめでとーって感じだろう。
純ちゃん、軽音部の先輩方に会いたいだけでしょ。
純「うへへ……今からわっくわくしちゃうなぁ~」
ほら、あの顔。絶対そうだ。
憂「どうせ楽屋に押し掛けていえーい武道館ライブおめでとーって感じじゃないの?」
純「え? ああ、へへー。まあそうなんだけどさぁ」
めんどくさいけどしかし、ここは付き合いだ。
憂「まあそういうことなら……わかった、電話も会うのも我慢するよ!」
梓「憂、がんばって!」
純「純様が完璧にセッティングしてあげるからな! 期待しておれよ!」
憂「うん、ありがとう!」
さて、どうなるやら。
とりあえず楽しみにしているだけでもあれなので、私たちは学園祭に向けて練習を始めることにした。
武道館ライブまで、残り一カ月半。
憂「……」サアアア……
憂「ふー……」
シャワーを高いところにかけて、お湯を背中とか肩に当てて
憂「打たせ湯きもちいー」ホワァ
とかやってるの、私だけじゃないよね?
武道館ライブまで残り一カ月。
憂「じゃあ次の曲、『私の恋はホッチキス』!」
和「ワン、ツー!」カンカン
梓(ピンチヒッターなのに和先輩やたら完璧なんだよなぁ……)
梓(ドラムができるってだけでびっくりだったのに……)
純(おっ、憂……出だしのリフ難しいのに完璧になって……)
純「……って憂! 歌!」
憂「はっ!?」
憂(歌詞忘れた!!)
和「なん でな~んだろ~♪」
梓(うっそぉーん!?)ガビーン
武道館ライブまで残り20日。
憂「純ちゃん、ライブの件大丈夫?」
純「もう一カ月半くらいおんなじこと訊いてるよね。だいじょうぶだいじょうぶ」
梓「そうそう、純さまが完璧にやってくれるんだもんね」
愛の無い言い方だ。
純「愛のない言い方だねオイ!」
あっ、弦切れた。
武道館ライブまで残り10日。
唯「打たせ湯きもちいー」ホワァ
紬「いつもそんなことやってるの、唯ちゃん?」
唯「!? いや……幻覚とは話さない主義だから」
紬「幻ってことにしてもらえるとこっちとしても都合がいいわ」ボチャボチャ
唯「ちゃんと湯船の外に鼻血を落としてよ、紬」
武道館ライブ前日。
いや、もう当日か。
憂「……」ムクッ
まったく眠れない。
ライブは昼過ぎからだから、今眠れなくても大きな問題は無いんだけれど。
なんだか「眠れない」っていう事柄自体が、やけに不安をかきたてる。
本来感じるはず以上の不安に支配されている。
姉と会うだけでここまで緊張するというのもおかしい。
生き別れの姉妹かと。
徳光泣くぞ。
あれっ、何で徳光の泣き顔を思い出してるんだろう私。
憂「……」ボフッ
不愉快だ。寝ちゃおう。
憂「……すー」
最終更新:2010年09月15日 23:55