始まりは秋の終わりが近付く、ある日の昼休み

憂「そう言えば、もうすぐ梓ちゃんのお誕生日だね」

私の誕生日は11月11日

梓「えっと、再来週かな?」

純「ふーん、それじゃ梓、ドーナツ一口食べる?」

…ドーナツ一口
思わずお弁当を食べる箸を休めて、純の顔をジト目で見てしまう

梓「あんた、それで終わりにするつもりでしょ?」

私の視線を感じても一向に動じる様子もない純が真顔で一言

純「バレたか」

梓「おい!」


純「冗談じゃん!」

梓「純が言うと、冗談に聞こえないんだよ」

相変わらず私と純の息はピッタリだ
まるで漫才コンビだよ、まったく

そんな私達を、いつもの穏やかな微笑みで見守る憂

その微笑みを見るだけで、私も幸せになってくるよ

実は…私は憂と3回キスを交わした事があったりする

最初は夏の終わりのある日
ほんの些細な出来事から、壊れそうになった私を憂が救ってくれたあの日
あの時のキスは憂からの「素直になれるおまじない」

2回目は、まだほんの少し前の秋の日
小さな教会の礼拝堂で、続くはずの無い永遠を誓った私からの少し切ないキス

3回目は同じ秋の日
「人の幸せの数え方」を聞いた私に「大好きな人と交わしたキスの回数」と答えた憂からの私の幸せを増やしてくれたキス

そんな素敵すぎる光景を思い出しながら、思わず憂に見とれてしまう私

純「ねぇ、梓?あんたさっきからなんで憂の顔をよだれを垂らしそうな勢いで見つめてる訳?」

梓「え?」

…思わず本当によだれが出てないか確かめてしまったじゃないか

純「まさかあんた、お弁当だけじゃ足りなくて憂を食べる気?」

…おい!

憂「私、梓ちゃんに食べられちゃうの?」

…こらこら、憂まで

純「まっ、梓の気持ちも分かるけどね。憂って美味しそうだもんねぇ」

…ニヤニヤ笑いを浮かべながら、なんて事を言い出すのかな、純?
いやらしい意味で言ってるのなら、いくら親友でも容赦しないぞ!

憂「そうなの?でも、純ちゃんには食べさせてあげない」

それは…可愛すぎるよ、憂

純「フラれたっ!でも、梓になら食べられちゃってもいい訳?」

まだ言うか、この子は…

憂「梓ちゃんは私の事、食べたいの?」

瞳うるうるの儚い表情、切ない声音
って、なにその技?そんな技をいつの間に…

あまりの憂の可愛さに思わず硬直

そんな私を見て、ちょっぴり満足げな雰囲気を称えた憂が、いつもの優しい微笑みに戻って告げる

憂「エヘヘ、冗談はこれくらいにしておいて」

…はい、もうこれ以上は限界
よだれどころか、鼻血が出て無いか心配だよ

憂「梓ちゃんは何か欲しいお誕生日プレゼントはあるかな?」

梓「そんなの考えるまでもないよ。私が欲しいのは憂だけ…今の私は他には何にもいらない」

なーんて乙女な願いが言えたら苦労はしないよ、まったく

ふむ、あまり高価な物をおねだりするのも悪いし、どうしようかな?

…おや?ドーナツをくわえた状態で純が固まってる
喉でも詰まったか、親友?

純「…梓、あんたって大胆」

梓「え?何が?」

そんな私の疑問は、ちょっぴり苦笑いを浮かべた憂の一言で解明する

憂「また声に出てたよ、梓ちゃん」

…まっ、またやってしまったのね、私っ!

この悪い癖だけはなんとかならないのかな、まったく

取り敢えず…ごまかそう、私っ!

梓「じょ、冗談だよ、冗談。ほら、よく少女漫画なんかであるじゃん『お前が欲しいぜ、キリッ!』みたいな」

純「…なんか冗談には聞こえなかったんだけど」

うっ!純のジト目が痛い…

梓「あ、あるよね、憂?」

憂「え?」

流石の憂でも動揺を隠せないムチャ振り
…ごめん、憂

憂「そ、そうだね、あるよね。もう、梓ちゃんてば、冗談がすぎるよ」

手で軽く、いわゆる「なんでやねん!」な仕草をする憂

…そんな仕草すら可愛いなんて、どこまで可愛ければ気が済むんだろう

純「…まぁ、そういう事にしといてあげるわ」

なんとかごまかせたような、ダメなような
覆水盆に返らず、忘れよう…

純「ホント、梓を見てると飽きないわ。さってと、そろそろ午後の授業の準備でもしますかね」

自分の席へと戻って行く純を見て、お弁当箱を片付け終わった憂が私にこっそり耳打ちする

憂「いいよ…梓ちゃんなら」

ちょっぴり頬を赤く染めて、はにかむ憂

かっ、可愛すぎるっ!

神様、あなたはなんて存在をこの世に遣わしてしまったんだっ!!

もう気分はKnockin'on The Heaven's Door!!

私はノンストップ高速弾き状態
もし本当に弾いてたら、ワンコーラスでは無くワンフレーズ!でムスタングの弦を全て消耗しきる勢いです

乙女の妄想は天井知らずだ

秋と言えば温泉!
紅葉の綺麗な山間の、露天風呂のあるどこかひなびた感じの雰囲気のある温泉なんかいいんじゃないかな?

二人っきりのバースデー温泉旅行…うーっ、いいっ!いいよっ!

誕生日まではまだ少し時間はあるし、今夜から毎晩弾き語りに回ってお財布を元気にしてだね…

梓「やってやるですっ!」@青春の握り拳っ

…あ、あれ?今度は憂がさっきの純状態?ま、まさか

梓「マ、マタヤッチャッタノカナ、ワタシ?」

形の良い眉を少しハの字にして、苦笑しながら憂が告げる

憂「え、えっとね『やってやるです』だけ、かな」

取り敢えずバースデー温泉旅行計画はバレてないみたいだ

良かった…って、待て待て待てっ!
今の一連の流れの言葉だけを並べると…

「欲しいのは憂だけ」
「いいよ…梓ちゃんなら」
「やってやるです!」

…げっ、下品っ!下品だよ、私っ!?

慌てて釈明しようとする私だけど…

梓「あ、あのね、憂?」

しかしながら、そんな私の心を知ってか知らずか

憂「わ、私もそろそろ授業の準備をしないと。まっ、また後でね、梓ちゃん」

そそくさと私の前から立ち去ろうとする憂

にゃあああああああっ、ひっ、一人にしないでぇ

…終わった、何もかも終わった
わがままなのに臆病な私が、それでもほんの少しの勇気を振り絞って積み上げてきた全てが…

机に突っ伏した私…しかし、すぐ側には小さく笑いを噛み殺す気配と、あの甘い香り…憂の香り

恐る恐る顔を上げると、そこには立ち去っていなかった憂が悪戯な微笑みを浮かべていたりする…イジワル

複雑な表情を浮かべる私を見て、いつもの柔らかい微笑みに戻った憂は

憂「温泉、楽しみだね」

そう囁いて、今度こそ本当に自分の席に戻って行った

予鈴が鳴る中で、大きな安堵感と、それ以上の疑問に駆られる私

梓「ホントはどこまで口に出してたの、私?」

もし憂に私の心の声が本当に聞こえるのなら…伝えたい言葉は一つだけ

「大好きだよ」

ねぇ、聞こえたかな…憂?


『この一週間というもの、我が愛しの娘は忙しい』

学校から帰って食事を終えると、ギターを抱えて慌ただしくて家を飛び出して行く日々

今日も今日とて

梓「母さん、行ってくるよー」

娘が夜な夜な街の盛り場を流すのが、気にならないのかって?

特別心配はしてない、何故なら私も梓の年の頃には、同じようにギターを抱えて毎夜ジャズクラブを流していたものだ

それに娘大好き過保護な父親が、いつも一緒なのもお見通し

母「田楽クンも本望よね、うん」

梓「…田楽クンはやめてくれないかな。テンションが下がるよ」

因みに田楽クンとは、梓の背負っているアコースティックギターの愛称

命名は私、元々は私の相棒だったものを、今は梓が受け継いでいる
なかなか筋の良い名器の部類に入る逸品

しかし、普通ジャズでギターと言えばウッドベースを除けば、歌い手が爪弾く程度に持つものだけど…

残念なから私の歌い手としての才能は、我が愛しの娘には伝わらなかったみたい

それでもストリングスのみでステージを保たせる腕は素直に感心したりもする

いや、我が愛しのハズにして、無類のジャズ馬鹿が黙って見てる訳がないか

母「で、我が愛しのハズは今日も勝手にトラかしら?」

トラとは助っ人の事ね

梓「うん、アルトサックスじゃなくて、トロンボーンだけどね」

…新境地開拓か、旦那様?

母「ボントロ?まともに吹けてるのかしら」

梓「素直に答えようか?」

母「そうね、少しだけ甘めに採点して上げて。武士の情けよ」

私の言葉に笑顔を浮かべる梓…いい顔をするようになったものだわ

梓「贔屓目抜きにしても、我が父ながら惚れ惚れする演奏振りだよ」

それは素晴らしい

梓「母さんのお目の高さには太鼓判を押してあげるよ」

母「それは光栄の至りね。でも、それ程なら小さなジャズバーには勿体ないわね」

梓「それなら問題ないよ。今日はバ@ランドだし」

…キャパ100オーバーのこの辺りでは最大級のジャズクラブじゃない
私を除け者にしてこの父娘は…

梓「因みに今日は特別。私のツアー最終日というお題目で、ウッドベースとピアノとドラムのお供付きだからね」

母「…それってまさか?」

私の疑問に苦笑いを浮かべる梓

梓「想像通りかな?母さんのバンドメンバー勢揃い」

母「男共は年増女より、若い娘って訳か…」

梓「中野梓クインテットかな」

苦笑いもいい顔をするようになったわ
娘なんてほっといても勝手に大人になるのよね

母「…あなたも随分大人になったわね」

梓「そうかな?」

正に輝くような笑顔
ふむ、我が男共がメロメロになる訳だわ

母「もっとも、あまり成長してない部分もあるみたいだけどね」

主に胸の辺り、ね

梓「…夫婦揃って全く同じ事を言うなんて」

こうして膨れっ面をすると、まだまだあどけなさの残る女の子に戻ってしまうけど

因みにこの夜のステージは大成功だったらしい
あぁ悔しい


『私には、特別な人が二人いる』

好きと言う言葉で表すなら、私は私に関わる全ての人が好き

だから、特別な人

一人はもちろんお姉ちゃん、私が生まれた時からずっと一緒の特別な人

そして今、私はいつもの待合わせ場所で、もう一人の特別な人を待っている

土曜の午後の幸せ時間

梓「ごめーん、お待たせ」

小さな身体にギターケースを背負って駆けてくる姿が愛しくて、思わず抱き締めたくなっちゃう

憂「今日は時間通りだよ、梓ちゃん」

梓「『今日は』の所に少し毒を感じるんだけど…」

このちょっぴりホッペを膨らませる表情が可愛くて、つい意地悪をしてしまう

もしかして、性格悪い子なのかな私って?

梓「えーっと」

いきなり挙動不信な梓ちゃん
周囲を見渡す姿が小動物みたいで…可愛すぎるよ

憂「どうしたの、梓ちゃん?」

梓「あ、何でもないの。気にしないで」

ふむ、どうやら誰にも知られたくないナイショのお話があるのかな?

憂「変な梓ちゃん」

ホントはもう大体梓ちゃんの考えてる事が分かっちゃったけど、ここは知らないフリをしてあげよう

梓「あのさ、この間ちょっと素敵な喫茶店を見つけたんだよ。良かったら行ってみない?」

憂「うん、いいよ」

いつものファーストフード店では無く、少し離れた喫茶店に移動

いつものお店じゃ、誰が来るか分からないから落ち着かないんだね

…でも、いくら要件が分かっちゃってるとはいえ、そこまで緊張されるとなんだか私もドキドキだよ

梓「ここだよ」

憂「へぇー、この辺りにこんな素敵なお店があったんだ」

…実は知ってたりするのはナイショ

お店に入ると梓ちゃんは迷わず一番奥のテーブルへ一直線

そこまで警戒しなくて大丈夫じゃないかな?少し苦笑い

梓「ここって珍しいコーヒー豆も取り揃えてるから、良かったらおススメを教えようか?」

テーブルに着いた梓ちゃんは、メニューを手にしてやっと落ち着いた雰囲気

ふふっ、そんな梓ちゃんを見てるとなんだか悪戯心が沸いてきちゃうから不思議
やっぱり私はちょっぴり悪い子だね

憂「ねぇ、梓ちゃん。良かったら私に注文させてもらえないかな?」

梓「え?別にいいけど…」

では「女の子の魔法」を披露しましょう

憂「すいません。グァテマラ・ジェニュイン・アンティグアを二つお願いします」

カウンターの中のマスターが了解を告げて、コーヒーを抽出する作業に入る

そして梓ちゃんは、いつもの唖然とした表情

正解でしょ?

梓「…ねぇ、憂?」

憂「ん?なにかな」

唖然とした表情から一転して、真剣なまなざしの梓ちゃん

うん、そんな表情も凛々しくて素敵だよ

梓「前から思ってたんだけど…もしかして、憂には私の心の声が聞こえるの?」

憂「そうだね、それは半分正解で半分ハズレ、かな」

今度は驚きと困惑が入り交じった表情

梓「えっと、つまりどういう事なのかな?」

憂「ナ・イ・シ・ョ」

梓「…憂のイジワル」

憂「エヘヘ、いつか教えてあげるよ。でも今はまだダメ」

梓「いつならいいの?」

憂「…梓ちゃんが私を本当の特別に想ってくれた日、かな」


『本当の特別』

憂のその言葉の重さは、以前の私には分からなかった、と思う

でも、今の私になら理解出来る気がする

私の「大好き」では、憂には足りないんだね…

もちろん私にだって反論したい気持ちはある

それでも、その言葉に憂の私への想いが込められている気がして…安い反駁はしたくない

だから、私に言える言葉は一つだけ

梓「…ごめん、憂」

少し情けないけど、他にこの想いを表す言葉が見つからないから

ねぇ、憂。半分でもいいから、今の私の心の声が聞こえてるかな?


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最終更新:2010年09月25日 21:09