「え……何?」
「いや、だから今度の日曜日映画行かね?って話」
「あ、うん……」
私は律の言葉に曖昧に頷いた。
律が不思議そうに首を傾げる。
「澪、お前最近変だぞ?何かあったのか?」
その言葉にカアッと頬が熱くなった。数日前のあの出来事が頭に浮かんで。
「バカッ、何もない!」
私は律を押し退け部室の扉を開けた。中にはたった一人、梓がいた。
私の頬がさらに熱くなる。
「あっ、澪先輩……。お疲れ様です」
「う、うん」
お互い目を合わせずに挨拶する。遅れて入ってきた律がまた不思議そうに首を
傾げた。
数日前の昼休み、私は梓に呼び出された。
『昼休み、校舎浦に来て下さい』というメールが送られてきたのはその日の朝。
放課後に会うのに何で昼休みなんだ?と疑問に思いながらも校舎裏に行くと、梓は
真っ赤な顔をして私を待っていた。
「あ、えっと、梓待った?」
「い、いえ」
なんだ、この変な雰囲気。
暫くの間、沈黙が続いた。先にそれを破ったのは梓だった。
「み、澪先輩!」
「はいっ!?」
「あ、あの、澪先輩はお付き合いしてる人、いるんですか?」
「お、お付き合い?……いないけど」
「それならその……。私、澪先輩のこと好きです、良かったら私と付き合ってください!」
え?
私の頭はさっきの沈黙より長く思考停止に陥った。
信じられないくらい、頭や顔が熱くなって、今自分がどんな状況にいるのかさえ
わからなかった。
とりあえず私は、どうすればいいんだ?
口を開いても言葉が出てこない。
梓は俯いたまま私の返事を待っている。
「あの、梓……」
とりあえずそう言ってみたものの、その先に何を言えばいいのかなんて考えてない。
丁度昼休み終了のチャイムが鳴った。梓の肩が小さく震えた。
「突然こんなこと言ってすいませんでした……!返事は今直ぐじゃなくていいです、
失礼します!」
そして梓は私に何も言わせず走り去った。
その日から梓とまともに話せないし、いつもそのことを考えてしまって何をするにも
ボーっとしてしまい力が入らない。律が首を傾げるのも当然のこと。
ほら、今だって。
妙に梓の視線を意識してしまい、カップを落としそうになった。
けど前に居た律が瞬時に反応して身体を前に乗り出させ受け止めた。
「あっぶねー、このカップ高いんだろ、割ったらどうすんだよ」
「ご、ごめ……」
慌てて謝り律からほぼ空になったカップを受取る。
「カップ一つくらい良いのに」
ムギが笑いながら私のカップにお茶を淹れ直してくれる。
唯が律のほうを向いて尋ねた。
「りっちゃん、火傷してない?」
「ん?あぁ、大丈夫だぜ」
ほら、と広げて見せた律の両手は仄かに赤みを帯びている。私は思わず目を伏せた。
「えー、火傷してるよ、りっちゃん!」
「大変、早く手当てしないと……!」
「別にそこまでじゃないし……」
良いって、と首を振る律。でも律が火傷をしたのは私のせい。
痛い話がダメとか言ってるわけにはいかない。
私は耳に添えていた手を律の手に伸ばした。火傷してるだろう掌のあたりを避け手首を
掴むと立ち上がる。
「澪?」
「せめて保健室行かないと……!」
「いや、そんな震える声で言われてもな……。あぁ、わかったわかった!行くって
保健室!だから澪は来なくて良いから!」
「だ、だめ!元はといえば私のせいなんだし、だから……」
私は律の手を引っ張ると「着いて行く!」と言う唯やムギに大丈夫と言って部室を
出る。
そういえば梓は何も言わなかったな……。
多分、あの日からほとんど部室で話す梓を見ていない。
やっぱり……早く返事したほうがいいのかな。
「みおー」
「なんだよ」
少し口調がきつくなってしまった。
「あ、いや、手……痛いなと」
「へ?あ、ごめん」
慌てて手の力を緩める。それと同時に肩の力が抜けた。
梓といるときは変に緊張して力を入れてしまう。
これじゃダメだとわかっているのに身体は言うことを聞いてくれない。
そういえば小学校や中学校の頃もこんなことあったっけ。
あんな風に告白されて、どうすればいいかわからなくなってしまったこと。
あの時は……、あぁ、そうだ。律に言ったんだ。
「あのさ、律」
保健室の扉に手をかけると律の名前を呼んだ。
「ん?」
無防備な表情で私を見る律。
その顔にいつか見た律の寂しそうな、悲しそうな表情が重なって私が言葉をつぐんだ。
律にこのことを言ったらまたあんな顔をさせてしまう。
それでも律は私のことを一番に考えて助けてくれる。けど今回は律に迷惑を
かけたくなかった。もうすぐ冬休みという頃で、受験勉強にも支障が出る。
何より律にはずっと笑顔でいてほしかった。
「ううん、何でもない」
今回は自分で何とかするしかない。
保健室の扉を開けると誰もいなかった。
「あれー?いないのかな、保健の先生」
「みたいだな……」
「とりあえず水道で冷やすか。澪、氷探しといて」
「う、うん……」
薄暗い保健室は気味が悪い。遮光カーテンが閉められ妙に肌寒い。
どこかでカシャンッと何かが落ちる音がして、私は小さく悲鳴を上げ、
ぎゅっと目を閉じて座り込んだ。
「なーに怖がってんだよ、澪」
優しい律の声が聞こえおずおずと顔を上げると、律がおかしそうに笑いながら
私に手を差し出していた。
「ほら、澪。大丈夫だよ、さっきのは私が間違えてハサミ落としちゃった音だし。
氷も見つけたしもう出よ」
「……うん」
小さく頷くと律の手をとる。律の手はほんのり冷たくて気持ちよかった。
「たっだいまー」
元気良く部室の扉を開く律。「こら、うるさい」と律の頭を叩くと律はなぜか
安心したように笑った。
「何だよ」
「なーんにも」
律は首を振ると定位置に座った。
そして唯に「冷たい攻撃!」とか言って氷を唯の首筋に当てたりしてる。
「うひゃっ!?ぬう、やったなりっちゃん隊員!ていっ!」
「うお!ぬぬぬ、それならこれでどうだー!」
律と唯のバカ騒ぎを見ながら私も定位置に座った。ムギが話しかけてくる。
「澪ちゃん、大丈夫だった?」
「ん?何が?」
「りっちゃんのこと」
「え?」
「ほら、最近澪ちゃんの様子変だったからりっちゃんと何かあった
のかなって……」
「あ……ううん、大丈夫!」
そっか、ムギはそんな風に思ってたのか。
私が首を振ると、ムギは「何かあったら言ってね」とだけ言って後は何も
聞かないでいてくれた。
「あ、あの、私ちょっとトイレ行って来ますね!」
突然梓が立ち上がった。私は思わずびくりと反応した。
梓は意識的に私のほうを見ずに扉へと歩いていく。
「あ、梓、待って、私も行く」
反射的に梓を呼び止めた。
早く何とかしなきゃ、という気持ちが私の身体を動かした。けど呼び止めたのは
いいが、やっぱり何も考えていない。
自分がどうしたいのかさえわからない。梓の気持ちを受取るのか、拒否するのか。
そのどっちかなのにずっと迷ってる。
「は……はい」
梓と一緒に部室を出て、少し離れたところで向き合った。
しかし、その次に出るはずの言葉が出てこない。
梓のことは嫌いじゃない。寧ろ好きだ。けれどそれが一人の人間として好きなのかと
問われればわからない。それなら振ってしまえば良い。けどその後のことを考えると
出来ない。一体どうすれば良いんだ。
「先輩」
「え、あ、うん」
「無理ならはっきり無理って言ってください。そのほうが私もすっきりしますから」
「梓……」
はっきりとそう言う梓の瞳は濡れていた。それだけであの言葉が本気だったということ
がわかった。こんなに誰かが自分のことを想ってくれているんだ。
「梓、無理じゃないよ」
私は迷いを振り切り、梓の小さな身体を引き寄せた。自分の腕の中で梓が小さく
息を呑んだ。
「澪先輩……」
「これから改めて宜しくな」
「……はい……っ」
これでいいんだ、これで。
まだ何か胸に引っ掛かるのにそれに気付かないふりをする。
だって、これが私や梓の為、軽音部の為なんだから。
「戻ろうか」
暫くして、梓が落ち着くと私は梓の手を引いて今来た道を引き返そうと歩き出した。
廊下の角を曲がったとき、座り込んで俯いている律がいた。
私は無意識のうちに梓の手を離していた。
「……律。こんなとこで何やってるんだ?」
さっきの話、全部聞かれてたかな。
必死に平静を装い訊ねる。どうしてか鼓動がひどく早くなった。
律はあぁ、と声を発し立ち上がった。
「ちょっと購買行こうとしたら立ち眩みが……」
「そう、なんだ」
「大丈夫ですか、律先輩?」
「大丈夫大丈夫、澪たちは部室戻れよ、二人とも遅いって唯たちが心配してたぞ」
律はそう言うと、逃げるように購買のほうへ走って行った。
立ち眩みした後に走れる奴いないだろ、バカ。
聞かれてた、んだ。
「澪先輩、行きましょう」
「……うん」
部室に戻ると唯があれ?と首を傾げた。
「澪ちゃん、あずにゃん、りっちゃんと一緒じゃないの?」
「え?うん」
「律先輩は購買に行きましたけど……」
「そうなんだ。てっきりりっちゃんは澪ちゃんたちの様子見に行ってるんじゃ
ないかなって」
「澪ちゃんたちが出て行った後、すぐに心配そうな顔して部室飛び出して行った
から……」
ムギはそう言うと、私と梓を交互に見て訊ねた。
「本当にそれで良いのね?」
突然問われ、私たちは訳がわからずに顔を見合わせた。何のことだと視線を送るけど
ムギは答えてくれなかった。私は何もわからないのに頷くことは出来なくて
梓を見ると、梓は一瞬だけ私を見てそれからムギに向き直り頷いた。
「そっか、梓ちゃんは良いのね」
「はい」
今度は梓は声に出してはっきり頷いた。ムギはどこか切なそうな顔をすると
「お茶、淹れましょうか」と立ち上がった。
「え、ムギちゃん、お茶ならまだ皆残ってるよ?」
「うん、けどりっちゃんの分がないから」
「あ、そっかあ」
二人の会話を余所に、梓は私の服の袖を少し引っ張った。
「澪先輩、座りましょう」
「うん」
言われてから気が付いた。そういえば私と梓は立ったままだった。
どうしてか苦しかった。座ったら治ると思ったのに、椅子に座ってもそれは治ら
なかった。正面の席は空っぽ。ただ律の姿が見えないだけで、治るどころかもっと
苦しくなった。
結局その日、律は部室に戻ってこなかった。
「澪先輩、一緒に帰っていいですか?」
帰り道。
一人帰路につこうとすると、梓が走り寄ってきた。
「え、でも梓、方向違う……」
「良いんです、私が律先輩と帰りたいだけですから」
私の言葉を遮り、梓は言うと不安そうに「ダメですか?」と訊ねた。
そんなふうに聞かれると謝れなくなってしまう。
「ううん、梓が良いんなら一緒に帰ろっか」
「はいっ」
隣に並んで歩き始める。梓は見慣れない道を歩いているせいかいつもより
テンションが高くて、小さな子供みたいにはしゃいでいる。
そんな梓と同じようにはしゃげなくて、私はただ俯いて歩いた。
「それでですね、唯先輩が……。澪先輩?」
「……あ、うん、それで?」
「今の話題、つまらなかったですか?」
「ううん、そんなことないよ。ほんと唯って不思議な奴だよなあ」
「……はい。それじゃあムギ先輩は?」
「ムギ?」
「ムギ先輩のことはどう思いますか?」
「どうって……。優しいし、一緒にいるとほっとする、かな」
「じゃあ――律先輩、は」
「……律は、……いつもうるさいくらい元気で、勝手に突っ走るトラブルメーカー」
けどちゃんと皆のことを人一倍考えてて、どんなときも傍に居てくれて笑って
くれている幼馴染。
「そうですか」
「うん、……梓?」
突然、梓の顔が曇った。
けど梓はそれを悟られまいとしてか私から顔を逸らした。
ぎゅっと左手を握られる。
「良いですよね、誰も見てないんですし」
「……、う、うん」
困惑気味に頷くと梓はさらに強く手を握ってきた。
そして私を少し不安げな瞳で見上げて言った。
「先輩、さっきみたいに抱き締めて下さい。抱き締めて、私のこと好きだって言ってください」
『抱き締めて、私のこと好きだって言ってください』
告白されたときみたいに、私の頭は真っ白になった。
「梓、何言って……、ここ外だし……、落ち着こう、な、梓?」
「落ち着くのは先輩の方です。私は冷静ですよ」
「うぅ……」
「私まだ、澪先輩に好きって言ってもらってません」
「え……」
「無理じゃないよ、ってことは付き合ってくださるんですよね?けど……
ちゃんと好きって言われて無いです。だから言ってください、私のこと好きって」
私は戸惑い、狼狽えた。確かに無理じゃないよと言ったし、「これから宜しくな」
と言った。私自身、梓と付き合うつもりだった。けどこう言われて詰め寄られれば
動けない。梓はそんな私を見て、すっと背を向けた。
「やっぱり、澪先輩、私のこと好きじゃないんですね」
「そんなこと……」
ないよ、とは続けられなかった。振り向いた梓は泣いていた。いつもの梓からは
考えられないくらい小さな子供のように。
梓は私に凭れ掛ると「ほら、やっぱり」と言った。
私は人を傷つけてばかりいる。誰も自分の所為で涙を流して欲しくなかった。
「好きだよ」
梓をぎゅっと抱き締めて、私は言った。少しだけ、少しだけ胸に鈍い痛みが走った。
けどやっぱり私はそれに気付かないふりをした。
次の日、学校に行くと下駄箱の前に律がいた。
「おはよ、澪」
「……お、おはよ」
「昨日何も言わないで帰ってごめんなー、なんかしんどくてさ」
あくまでいつもどおりに振舞う律。
だから私もいつもどおりに律と接する。
「大丈夫か?また風邪じゃないだろうな。もうすぐ受験だぞ」
「あぁ、うん。その受験のことで話があるんだ」
突然の律の言葉に私はえ?と聞き返した。
「あのな、第一志望、やっぱF大にするわ。私の学力じゃ到底あそこ、無理そうだしなー」
「何言って……、みんなで一緒のとこ受けるって……」
「うん、まあそうなんだけどさ」
「じゃあ何で!」
私が詰め寄ると、律は一瞬泣きそうな顔をしてから怒ったように言った。
「だから言っただろ!勉強できる澪やムギ、天才肌な唯と違って私はバカなんだ
よ!だから同じ大学には行けないの!」
「律……」
「唯たちには自分で言うから。……先教室行くわ」
律は言い終えると私に背を向け、早足で教室へと歩いて行ってしまった。
私は暫くその場から動けそうに無かった。
「澪、律とケンカでもしたのー?」
「りっちゃんがあんなふうに怒鳴るの初めて見たー。澪ちゃん大丈夫?」
近くにいたクラスの子が次々に声をかけてきては慰めてくれる。
けど私の足は動いてくれなかった。
最終更新:2010年10月05日 21:36