「澪?そんなところに突っ立ってどうしたの?」
「和……」
「おはよう……って、澪?」

私はなんだか和の優しい声に安心して、
突然足から崩れ落ちるように座り込んだ。

涙が止まらなかった。

「ちょっと、どうしたのよ澪!?」
「律に……、嫌われちゃった」

律が第一志望を変えると言った理由は嘘だ。律は絶対私たちと一緒に行くんだって
必死に勉強していたから。このままいけば余裕で受かるくらいのはずだった。
律はきっと、昨日の話を聞いたから。
女同士で付き合う私と梓を、律は気持ち悪いと思ったのかな。
何にせよ、律はもう私の傍に居てくれない。

そのことがこんなにも苦しいなんて。

「澪、とりあえず落ち着いて。ほら、立てる?」
「ん……」

和に手を貸してもらい、立ち上がる。その時、昨日の保健室で律と重ねた手を
思い出してまた私は泣きそうになった。
和の手は律と違って暖かかった。
ちゃんとそこにいてくれてなんでも受け止めてくれると安心できる手。

私は和に手を引かれ、軽音部の部室へと連れて行かれた。
部室の扉を閉めた途端、予鈴が響いた。

「和、行かなくていいの?」

その頃には何とか落ち着いていた私は心配になって訊ねた。
和はいつも律が座る椅子に腰掛けると「大丈夫よ」と笑った。

「今は澪のことのほうが大事だし」
「和……」
「昨日、唯から頼まれてたのよ。澪が最近大変みたいだから何かあったら
宜しくねって。ほんとあの子って鈍いようで鋭いのよね。唯も、それにムギもね、
すごく澪のこと心配してたわ」

和はそこで一旦言葉を切ると、
「何があったか、教えてくれる?」

私は頷き、話し始めた。
梓に告白されたことから付き合うことになったこと。
そして律の言葉……。
自分の気持ちがわからなくて感情が昂ぶり、支離滅裂な話を和は最後までちゃんと
聞いてくれた。話し終えると、和は「それで?」と言った。

「え?」
「それで澪はどうしたいの?」
「私は……。わからないんだ。だから迷ってる。けど……、律には嫌われたくない、
ずっと隣にいてほしい」
「そう。梓ちゃんのことは?」
「梓は……。梓も大切な後輩なんだ、傷つけたくないし、軽音部を辞めちゃうなんて
ことにはしたくない」

「……けど澪。それは欲張りなことってわからない?」

私は俯いていた顔を上げて和を見た。

「欲張りなことって……。私は二人とも大切だから……」
「澪、律の気持ち、考えたことある?」
「え?」
「澪は律のことを大切な“友達”だって思ってるかも知れない。けどね、
律は……!」

普段の様子からは考えられないような剣幕の和に私が思わず立ち上がりかけると
部室の扉が開いた。

「もういいよ、和!」
「律……」

和が驚いたように部室に入ってきて近付いてくる律を見た。

「和、ありがとな。私の為にさ」
「半分は唯の為でもあるんだけどね。あんた達が雰囲気悪くなるとあの子、
元気なくなるから」

和はずり落ちた眼鏡を直すと苦笑交じりに笑った。

「そっか。やっぱ唯は優しいんだな」

律が目を細めてそう言った途端、私の胸が小さく軋んだ。

「それじゃあ私お邪魔虫だし戻るわね」
「そんなことないって。あ、唯心配してたぞ、和が遅いって」
「ありがと」

和は立ち上がると私に小さく手を振ってから部室を出て行った。
その一連の流れを私は傍観者の立場で見ているしかなかった。
律が音を立てさっきまで和が座っていた椅子に座った。
私は目が合わせられずに視線を泳がせた。
律も机の角を見ている。と、律が口を開いた。

「澪、さっきは怒鳴ってごめんな。皆から泣いてたって聞いて……。怖かった?」
私は無言で首を横に振った。
「そっか」

律はそう言うと、小さく溜息をつき机に肘をついたまま私から目を逸らした。
「律……、あのさ」
「澪。和の言ってたことは気にするなよ。あと、梓とのこともちゃんとわかってるし。
……、澪が決めたんなら応援、するから」


ずきん。
何この胸の痛み、苦しい。

応援、するから。

違う、私が律に掛けて欲しかった言葉は――

何?
私は一体律に何を求めてるんだ?
わからない、わからないよ。この痛みは何なのか、わからないよ。

「律」
「何?」

私の声に律が顔を上げた。
私はどうしようもなく悲しくて寂しくて、悔しくて。

「バカ律!」

思わずそう叫んだ。
律の目が大きく見開かれる。

「なっ……。いきなりなんだよ」

わかんないよ、私にもわかんない。
ただ、言葉が止まらない。

「律のバカ、何で律は……!ずっと隣に居てくれるんじゃなかったのか、
何でだよ……なんで!」


「澪!」

律が大きな声で私を呼んだ。
私は肩を震わせた。律が私を怖い目で見ていた。すごく怒った目で。
律は椅子から立ち上がると私の腕を掴み無理矢理立ち上がらせた。

「律……、私」
「そんなこと言って人の気持ち惑わせて、少しだけ期待したのに裏切られて……
結局澪は私を、どうしたいんだよ!?」

突然強く腕を引かれた。律の唇が私の唇に重なった。少し開いた隙間から律の
舌が私の口内に侵入してきた。それは憧れたような優しいキスじゃなかった。


「ん……っ」

律を押し返そうとしても力が入らない。律の手が私の胸の上をまさぐった。
タイを片手でするりとほどく。漸く離れた唇を、今度は律は首筋に移した。

「……やっ、……律っ……」

律が怖かった。獣のように私を求めてくる律が。初めて律のことが
本気で怖いと思った。
けど、それ以上に自分の中で涌き上がってくるよくわからない感情に私は戸惑った。

「澪先輩!?」

律の手が私のシャツのボタンに触れたとき、梓の声と共に部室の扉が開いた。
律の手が止まり、はっとしたように私を見た。律の顔がみるみるうちに歪んだ。
律は「ごめん」と謝ると私から手を離した。

「律先輩……」

梓が呆然と律、そして乱れた服装の私を見た。
律はもう一度ごめんなと言うと梓の横をすり抜け部室を出て行った。

「律、まっ……!」

私は律を引きとめようとして梓がそこにいることを思い出し、追いかけられなかった。

「梓……あの、ごめ」
「謝らないで下さい!」

私の小さな声は梓の大声にかき消された。
私は近付いてくる梓をただただ見詰めることしか出来なかった。

「澪先輩」
「……なに?」
「律先輩に何されたんですか」
「何って……、キ……スされた」
「先輩は、抵抗しなかったんですか」
「抵抗した、よ……。だけど」
「嫌じゃなかった?」
「え?」
「律先輩にキスされて、嫌じゃなかったですか?」

私はさっきのことを思い返した。あの時は吃驚してよくわからなくて、そんなこと
考えなかったけど、今思い出してみると不思議と同性なのに嫌だとか汚らわしい
とか思わなかった。
寧ろ、怖いと感じながらもどこか心の奥底でもっともっとと望んでいた。
突然律の唇の感触を思い出し私は赤面した。

「嫌、じゃなかった」

私は正直に答えた。案の定、梓は傷ついたような顔をした。

「ごめん、梓」
「だから……、謝らないで下さいっ……。よけい、虚しいじゃないですか……」
「うん……ごめん」

私は言うと梓を引き寄せようとした。けれど梓はそれを拒んだ。

「……、最後に一つ、答えてください。澪先輩は、本当は誰が好きなんですか」

私は答えに窮した。よくわからなかった。
梓も好きだし唯やムギ、和だって大好きで。けど私が本気で好きなのは……。

「澪先輩が一緒にいて一番楽しくて、一番悲しくて、一番嬉しい人……。
傍にいるだけで鼓動が早くなったり姿が見えないだけで苦しくなったりする……
そんな人、いるんですよね?」

私はあ、と思った。
そうか、私は律のことが好きなんだ。
なんだか今までのモヤモヤが晴れていくような気がした。

「律先輩、なんですよね?」

私はこくりと頷いた。梓は突然、力が抜けたように泣き崩れた。

ごめん、梓。本当にごめん。
心の中で何度も謝りながら私は梓を引き寄せた。今度は梓は拒まなかった。
梓は私の腕の中で時折嗚咽を漏らしながら静かに泣いていた。
昨日、私が梓にとってあまりにも残酷な言葉を放ってしまったときのように。

どれくらい時間が経っただろう。
気が付くともうすぐ昼休みの時間だった。

「先輩、すいませんでした」

赤い目をした梓はそう言って私から離れた。

「ううん、私こそ……」
「私。……、私、はじめからわかってたんです」
「……え?」
「澪先輩は本当は律先輩のこと好きなんじゃないかって。だから半分は諦める
つもりで澪先輩に告白したんです。けど澪先輩は無理じゃないって言ってくれて……
凄く嬉しくて」
「……、うん」
「嬉しくて……。だけど……、やっぱり心の中ではわかってたんです、澪先輩の
心は私のものじゃないんだって。だから……すっきりしました」
「梓……」

「先輩、行って下さい」
「……っ」
「律先輩のところに。きっと、律先輩、澪先輩のこと待ってますから」

私は小さく頷いた。
そして今日何度呟いたかわからないごめんをもう一度漏らすと私は部室を走り出た。
部室を出て梓の姿が見えなくなった時、声が聞こえた。

「澪先輩、大好きでした!」

ごめんな、梓。
こんな私に大好きをありがとう。

部室を出て教室へ向かう。丁度チャイムが鳴って、教室からたくさんの生徒が
出てくる。自分のクラスの前に着くと、私は深呼吸しようと立ち止まった。
すると扉が開いて唯とムギが出て来た。

「あ、澪ちゃん!」
「澪ちゃん、大丈夫だった?」

二人は心配そうな顔で聞いてくる。
私は声を発したらまた泣き出しそうで、ただこくこくと何度も頷いた。
唯とムギは顔を見合わせると良かったと笑った。

「ごめんな、心配かけて」

なんだか今日は謝ってばかりな気がする。
私が律の姿を探そうと教室を覗こうとすると和が出てきた。

「律なら保健室よ」

和は優しい顔で私に言った。和ちゃーん!と唯が嬉しそうに和に抱きついた。
それを当たり前のように受け入れると和は私に頑張って、と言って笑ってくれた。
私が頷きありがとう、と言ってその場を離れようとしたとき、ムギに呼び止められた。

「なに?」
「澪ちゃん、今度はちゃんと、澪ちゃん自身が決めたのよね?」

私は大きく頷いた。
ムギは全部わかってたんだ。梓のことも、私のことも。
そして、自分でさえ気付かなかった律への想いさえ。
ムギはふんわりと笑うと「そっか」と言った。私も笑い返すと、和に教えてもらった
律がいる場所へ今度こそ走り始めた。

保健室の扉をノックする。そういえば昨日もここに来たっけ。
その時の暗くて不気味な部屋を思い出して私は小さく身震いした。

「律?いるんだろ?」

中から返事はない。けどその変わり、微かに物音が聞こえた。
扉に手を掛けると、鍵は空いていた。私は返事しない律が悪いんだからなと
心の中で言い訳しながら中に入った。そのまま後ろ手で鍵を閉める。
その音に吃驚したのか、「澪!?」と小さな声が聞こえた。
部屋の中は暗くて何も見えない。
ただ、暫くすると一つだけカーテンが閉まっているベッドを見つけた。そこから
微かな息遣いも聞こえる。

「律」

私が近付くと呼びかけた。そして、カーテンに手を掛けようとしたその時、
「開けるな!」という律の大きな声が響いた。

「り、律?」
「澪、お願い。帰って。お願いだから」
「……律」

律の必死の懇願。
律にこれ以上嫌われたくない。けどこのまま帰るわけにもいかない。
自分の気持ちを素直に伝えられるのはきっと今しかないから。

「ごめん、律」

私は謝ると、カーテンを開けた。


「……え」

目と目があった。律と、じゃなく他の誰かと。
タイは赤。二年生だ。茶色い巻き毛の女の子。彼女は私と目が合うと何も言わずに
ベッドから飛び降りるとさっき私が閉めた鍵を空けると保健室を出て行った。

「あっ……!」

そんな彼女を見て、律もベッドを降りると追いかけようとしてか私の隣を擦り抜けた。
去り際、律は呟いた。
「何で来るんだよ」と。


携帯が鳴ってる。頭ではわかってるのに身体が動かない。
あの後、体調が悪いと早退させてもらった私は家に帰るとベッドに倒れこんだ
まま動けなくなった。身体が重い。もう何もかもどうでもよくなっていた。
ただ、このまま消えてしまいたいと思った。
携帯はまだ鳴り続けている。
私は涙で濡れた枕からのろのろと顔を上げた。
すぐ傍にあった携帯を手にとると、『ムギ』という文字が見えた。

「ムギ……?」
『澪ちゃん?』

電話越しに聞こえたムギの優しい声。ムギは私の泣き濡れた声で何か
察したのか向こうで少し息を呑んだのがわかった。

『澪ちゃん……、あの』
「ムギ、私……、もうどうすればいいかわかんないよ」

誰でもいいから助けて欲しかった。行き場のない想いは募るばかりでぶつける
場所もない。

『……りっちゃんと、上手くいかなかったの?』

ムギは静かに聞いてきた。
私はうん、と小さく頷いた。その途端、とっくに決壊していたはずのダムから
枯れたはずの涙が溢れ出てきた。
一体私の中にどれだけ涙があるんだろう、なんてどうでもいいことを考える。

「律、もう私と一緒にいてくれないんだ。私、本当に律に嫌われちゃった」
『澪ちゃん……』

もう、律と昔みたいに仲良く出来ないのかなあ。“友達”のままでいい。ただの
“幼馴染”でいい。なのに、もう律と話せないのかなあ。
そう考えるとたまらなく辛くて、私は泣きながら乾いた笑みを浮かべた。

「いっそ、もう一回梓と付き合おうかな」

ふいに口をついて出た言葉。
勿論本気なわけない。
けどムギは、突然押し黙った。

「む、ムギ?」
『澪ちゃん、そんなの最低よ』

怒りを押し殺した様な声。
その声が聞こえた途端、電話は切れた。

「ムギ!?」

私は慌ててかけなおそうとムギのアドレス帳を引っ張り出した。
けどやっぱりやめた。

これ以上、誰かに嫌われるのが怖かった。
ムギの冷たい声が耳に蘇る。
私は最低だ。自分でも笑っちゃうくらい。

「律……」

律の名前を呼んだ。けど返事は返ってこない。
虚しいだけなのに、何度も何度も「律」と「ごめん」を繰り返した。
胸に穴がぽっかり空いたような気がした。
大切な人が、だんだん私から離れてく。だって、私は最低な女だから。
仕方ないんだ。そう、仕方ないんだ。もう私は、みんなと笑い合う資格すら
ないのかも知れない。


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最終更新:2010年10月10日 09:16