翌日、私はいつもどおり登校した。いつも律と会う時間帯を避けて少し遅目に
教室へ行く。そんなことしなくても、律だってきっと私を避けているんだろうけど。

律もムギも、私に話し掛けてこなかった。律は休み時間になるたびにどこか
へ出かけていった。ムギも同じだ。



「今日はりっちゃんもムギちゃんもどうしたのかな」

唯が心配そうな顔で空席を見ながら言った。うん、と私は気の無い返事を
する。
放課後、律もムギも部室に来ていない。梓が居心地悪そうに身動ぎする。
私はそんなあずさに気を使わせたくなくて立ち上がった。

「ごめん、今日は帰るな」
「えぇ、澪ちゃんまで帰っちゃうの!?」
「うん、昨日から調子悪くてさ」
「そっかー……」

「梓」

私は梓に向き直る。
梓の両方のツインテールがぴくっとはねた。

「は、い」
「梓、ありがとう」

今日ちゃんと部室に来てくれて。
私を嫌わないでいてくれて。
梓は一瞬、戸惑いの表情を見せた。けどすぐに「いえ……」と言って顔を逸らした。
私は「えー、何の話ー?」と声をあげる唯に手を振り「じゃあ」と言うと、
唯に手を掴まれ引き止められた。

「唯?」
「澪ちゃん。変なこと聞くけど、良い?」
「……うん」
「このまま軽音部、なくなったりしないよね」

ドキッとした。唯だって、わかってたんだ。この軽音部の雰囲気が普段と違う
ことに。いつもより明るく振舞っていたのはきっと、この雰囲気を変えようとして
くれたから。
私は目を逸らした。唯の真直ぐな目が今の私には痛かった。

「……うん」

私は頷いた。嘘になるかもしれないなんて思いながら。
ただ、今の私が唯の為にしてあげられることはこれしかないから。
唯の手がゆっくり離れた。唯はいつもの笑顔で言った。

「そうだよねえ」

私はごめん、と小さく謝った。
そして、その場から逃れるように部室を走り出た。


下駄箱に行くと、私の靴箱の前に手持ちぶさたなムギが立っていた。
ムギは私に気が付くと、ふんわり笑いながら近付いてきた。

「ムギ……」
「澪ちゃん、昨日はごめんね」

ムギはそう言って頭を下げた。
私は慌てて首をぶるぶる横に振った。

「わ、私こそ……!」
「私ね」

私の声を遮り、ふいにムギは言った。

「へ?」
「りっちゃんが好きなの」

「あ、そうなんだ」

突然のムギの告白に、私は腑抜けた返事しか返せなかった。
そっか、ムギは律が好き。

――え?

「私さっき、りっちゃんに『好きです』って言いに行ったの」

ムギは私の返事を気にすることもなく、いつもの口調で続けた。
私の心がまた軋んだ。
ムギが律に告白したのか?律は何て言ったんだ?

「それでね」

ムギは一旦、言葉を切ると俯いた。ムギの肩が小さく震えている。
ムギ、泣いてるのか?

「それでね、言いに行こうとしたんだけどりっちゃん、他の女の子に
『澪の代わりに私と付き合わないか?』って」

そう言って顔を上げたムギは笑顔だった。くすくすとおかしそうに笑っている。

「な、何だよそれ」
「澪ちゃん、落ち着いて」

私は思わず語尾を荒くしてムギに詰め寄った。ムギは悪くないのに。
ムギに頭を軽く撫でられ、私は落ち着きを取り戻した。
けれどさっきムギの言った律の言葉がずっと頭で響いていて、胸が苦しかった。

他の女の子に『私と付き合わないか?』って、何だよそれ。
昨日の茶色い巻き毛の女の子を思い出す。あの子にそう言ったんだろうか。
それとも別の子?

律。
苦しいよ。もう、何もわからない。助けてよ律。

私はその場にへたり込んで頭を抱えた。その時、ムギの暖かな声が
私の上から降ってきた。

「澪ちゃん、私ね、昨日澪ちゃんがもう一回梓ちゃんと付き合おうかなって言った
とき、初めて澪ちゃんに負けたくないって思ったの。けど、もうとっくの昔に私は
負けてたのよね」
「え?」

「りっちゃんね、澪ちゃんを澪ちゃんのファンクラブの子から守ろうとして
他の子と何人も付き合ってるの」

何、それ。

「どういうこと?」

私は尋ねた。心臓が早鐘を打つ。そういえば、と思い出す。
ここ最近、ファンクラブらしい子たちの視線をあまり感じていなかった。
下駄箱にも何も入っていないし机の中にも異常はない。

「りっちゃんね、ストーカー紛いの子が最近頻発してるって和ちゃんから
聞いて、それで自分の悪い噂とかプライドとか、そんなの全部放って澪ちゃん
のファンクラブの子を澪ちゃんから遠ざけようとしてるの」

ムギはそう言って笑った。

「りっちゃんは澪ちゃんを傷付けたくないんだと思う」

だから梓と私のことでも、自分から身を引いた。
昨日あんなこと言ったのも、私にそのことを知られない為に。
自分の痛みを隠して。

「りっちゃん、きっと本当は澪ちゃんを待ってるよ」

ムギはそう言うと、そっと身体を横にずらした。
私は靴を履き替えるのももどかしくて、「ありがとう」とムギに言うと上靴のまま
外に飛び出した。

何一人でかっこつけてるんだ、バカ律。

息が荒い。スカートの裾が翻る。けど私は律の姿を見つける為に走った。
今外にいるかすらわからない。もしかしたらもう家に帰ったのかも知れないし、
まだ校舎の中にいるかも知れない。けど立ち止まったらそこから動けなくなって
しまいそうで、私は走った。

校門を抜けて角を曲がる。目の前が開けた途端、見慣れた背中。

「律!」

私は叫んだ。周りを気にすることなく、大きな声で、律の名前を呼んだ。
律は一瞬びくっと身体を震わせてから振り向いた。律の隣には見知らぬ女の子
の姿があった。

律は横断歩道を渡ったばかりのところで私の姿を見つけ立ち止まった。

「律、そこで待ってて!」

私はもう一度叫ぶと、最後のダッシュ。
律に伝えなきゃ。これが本当に、きっと最後のチャンス。
律に伝えなきゃ。そしてもう一度、みんなと、律と、笑い合いたいんだ。

信号が赤に変わった。それでも私は走った。
クラクションの音。それと同時に急ブレーキのキキーッという耳障りな音も。

「澪、危なっ……!」

律の声が聞こえた気がした。
――あれ?身体がふわりと浮かんだ。
何もわからなくなる前、一瞬だけ律の顔が見えた。律は、泣いていた。

目の前は真っ暗だった。光が恋しくて目を開けようとした。けど目は開いてくれない。
この暗闇が怖くて、誰かに縋りたくて手や腕や足を動かそうとした。けどどれも
動いてくれない。

怖い。怖いのに動けない。
やだよ、誰か……、律、助けて。

「……だろっ!……かるって言ってくれよっ!」

律?律の声だ。ねえ律、早くこの暗闇から連れ出して。
眠くなんてないのに頭がぼーっとして変な感じなんだ。
なあ、律?

「……ちゃん、落ち着いて!」

あれ、ムギもいるのか?ムギ、お願い。早くこの場所から出たいんだ。
律やみんなに謝らなきゃ、それから律に「大好き」って言わなきゃ――

「やだよ、……ちゃん、やだよう!」

唯、唯の声だ。何だ、もしかして皆いるのか?あ、梓の声。
「唯先輩、泣かないで下さいよ、そんなことしたって澪先輩は」
梓、泣いてるのか?その先はよく聞き取れなかった。というより梓が言えなかった
んだ。


「澪、なあ、澪!」

あ、律が呼んでる。律、私はここにいるよ、早く光が見たいんだ。
ちょっと手を引っ張って。

「澪、頼むから……もう、ただの友達でも他人でもいいから……死なないでよ!」


――え?

な、何言ってんだよ律。私、ちゃんと生きてる、よな?
身体が動かないだけで、目が開けられないだけで、ちゃんと律の声聞こえてるよ?
何で私が死ぬんだよ。バカだな律は。
笑いたいのに声が出ない。

突然記憶がフラッシュバックする。
そうだ、あの時。律のところへ走ろうとしたとき、私は。

――車にはねられた。


はねられた、私は車にはねられたんだ。
やだ、じゃあ私は本当に死んじゃうの?
嫌だ、やだよ律、皆、私を助けて。お願い、私はまだ死にたくないんだ!

まだ、皆や律に、伝えなきゃいけない言葉があるのに!



――あ、れ。

突然何もわからなくなった。おかしいな。さっきまで聞こえてた皆の声が聞こえない。
皆?皆って誰だっけ?
変だな、思い出せない。

ああ、何でだろう。凄く眠くなってきた。もう私、充分頑張ったよね。
寝ちゃったっていいよね。凄く疲れたんだもん。
段々、意識が遠くなっていく。お休み、私の大好きな人たち――

「みおちゃん、確りして!」
「みお先輩、目を開けてくださいっ」
「やだよみおちゃん!私たちと軽音部続けようよ!」

私の、大切な人たち――?

「澪!」

手が握られる。いつかの出来事が頭に浮かんだ。真っ暗な保健室。冷たい感触。
大切な、大好きな人の冷たい温もり。

そうだ、私はまだ生きなくちゃいけない。
律や皆がこんなに私の名前を呼んでくれている。
私は冷たい手を自分の大きな手で包み込むように握った。力が入らない。けど、
精一杯の力を込めて。私はここにいるよ、大丈夫だよって、そんな想いを込めて。


重い瞼を開ける。真っ暗だった世界に光が差す。皆がいる、暖かな世界。
私の顔を覗きこんでいたらしい律と目が合った。
律の瞳が濡れている。泣いてたんだ。

そんな顔、律には似合わないよ。
だから笑ってよ、律。私はちゃんと生きてるよ。

「澪……」

律が驚いたように目を見開いた。その途端に溜まっていた涙が私の頬に一粒落ちた。
それはまるで私の涙みたいで。


「律」

私は律の名前を呼んだ。囁くような声しか出てくれない。けれど構わない。
ちゃんと律に伝われば、それでいいんだ。
動かない手を必死に動かし、律の腕を引いた。バランスを失った律の唇が
私の唇に触れた。

「律、笑って?」
「……ん」

律は一瞬私から目を逸らすと、引き攣った笑みを見せてくれた。
変な笑い方。私は笑った。すると、律も、そして皆もつられたように笑った。

良かった。これで私たちの軽音部は元通り。
安心したらまた、眠気が襲ってきた。私は最後にもう一度律の腕を引っ張ると
耳元で囁いた。それは殆ど声にならなかった。けど、きっと、ちゃんと律に
伝わったよね。

「         」

 (律、大好きだよ)

終わり。



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最終更新:2010年10月05日 21:39