「……もうどれくらい経ったかな」
ざわざわと波の音が聞こえる部屋のなか、私は独り言のように憂に尋ねた。
しばらくして返ってくるのは波の音にも勝らない静けさ。
憂は答えたくないのだろう、私はまた窓からの景色に目線を移した。
――広い部屋。ここに連れて来られたのは突然だった。
家に見知らぬお婆さんが訪ねてきて、後ろから出てきた男の人たちに訳もわからないままに
車に押し込められ、意識を失ったあと気付くとこの部屋にいた。
私には、何故だか抵抗する事ができなかった。
その時のことを思い出すと、途端に頭の中がうやむやになってそれは消えてしまう。
ただその時の私は脱け殻のように心が空っぽだったことが記憶の隅に残っている。
――広い部屋。壁の一面はそのほとんどがガラス張りになっていてそこからは外が見える。
この部屋は三階あたりだろうか、建物の立つ地面の方を見ると砂浜が広がっている。
ここから見えるのは窓の端までいっても果てが見えることのない砂浜と、
目の前に地平線まで広がる青い青い……。
この景色を、この波と風の音だけを感じられるこの部屋から、私たちは出られない。
……
スーツを着た男の人が立っていた。
私が目を覚ますのを待っていたらしい。
私は恐る恐る、尋ねた。
「あ、あの……ここは…?」
ぎろりとサングラスの下にある目に睨まれたような気がして体を強ばらせたけれど、
その風体からは意外にも柔和な声が漏れた。
「は、はい」
「突然ですが、あなたはこの部屋から出てはいけません」
本当に突然、私は理解ができずその男の人の次の言葉を待つだけしかできなかった。
「申し訳ございません。これからあなたをここに閉じ込めます。
外出以外の不便につきましてはなるべくご希望に添えるように致しますので何なりとお申し付けください」
決まりきった口上かのようにすらすらと流れていく言葉は私の耳には入らない。
彼はそんな私を見て何も聞かれることはないと判断したのか、扉に向かって歩き出した。
「ちょ、ちょっと待って!」
「……なんでしょう」
「意味がわからないよ!ここはどこ!?私を帰してよ!」
振り向きかけた格好で私の言葉を聞いていた彼は、拍子をおいてサングラスの柄に手をかけた。
「…まだいろいろと落ち着いていないこともあると思いますので、また後ほど」
「やだ!今説明して!」
「……失礼」
私を待たず開けられた扉の前には鉄格子が嵌められていた。
彼はその鍵を手馴れた手つきで開け、部屋から出たあとまた鍵をした。
「何かご希望がごさいましたらこの紙か…」
彼は懐からメモ帳を取りだし扉の前に置き、部屋の奥を指差す。
「お電話で。受話器を取れば私が出ます」
「そんなことより……」
彼は無表情のまま扉を閉めた。
何もできない私の耳に入るのは、遠ざかる足音とそれを覆い隠す波の音。
……
目の前で波打つのは、海じゃなくて毒の沼。そう教えられた。
あんなにも青いのに、きれいなのに触れることはできない。
もしかしたら嘘なのかも知れない。
でも海を見たことのない私たちにはそれが嘘かはわからない。
「ねぇ憂…ここから出たらどうしよっか」
もう何度目かわからない質問。
まだ私たちがなんとかここから出ようと躍起になっていた頃、わたしが憂に
「憂も一緒にギターやろうよ」っていったら憂はなんて答えてくれたっけ。
「わたし、みんなともっと練習したいよ」
私たちが連れてこられたのは、私が軽音部に入ってやっとみんなと馴染んできたところ。
みんなは今どうしてるかな。そう考えたらなんだか急に寂しくなってソファに座りながら憂を抱きしめた。
憂は私が抱きつきすぎたせいか私の匂いがした気がしたけれど
いつもとかわらずとても柔らかかった。
……
部屋は統一性のない雑貨や家具などが多く置かれていた。
どこかの民族の仮面、陳腐な絵画、埃を被ったゴルフバッグ。
しかし散らかっているわけではない。
部屋の隅に追いやられているそれらを除けば、
部屋は比較的きれいにまとめられており不快感は感じない。
「憂、お腹空いちゃったね。電話かければいいみたいだよ」
憂はまだ状況を受け入れられないのか、無言のまま。
でも何かは食べなくてはいけない。
「じゃあ憂のぶんも私が選んでおくね」
受話器を取るとあの男の人らしき人物が出た。
「なんでしょうか」
「ご、ご飯食べたいんですけど……その……」
「はい、では何がよろしいでしょうか」
彼の口調は相も変わらず淡々としたもので、私は少し苛ついた。
「じゃあ……」
適当に思いついたものを言い、そのまま相手の返事を待たずに切った。
彼は何を言われても動じないのだろうかとかどうでもいいことを考えながらまた憂の隣に腰掛ける。
憂はずっと魂が抜けたようで、私はそんな憂を支えるために出来るだけ気丈に振る舞った。
本当は憂は寂しがり屋だからみんなに会えなくなったことがどうしようもなく悲しいのだろう。
だから私は憂にずっとつきっきりのまま頭を撫でてあげたり、抱きしめてあげた。
……
~~~
今日は雨だ。
あの生きているかのような波打はすっかり機嫌を悪くし、ざばざばと怒っているかのよう。
空も黒い雲に包まれて明るい太陽は身を潜めてしまっている。
「憂、今日は雨だね」
優しく語りかけると憂はゆっくり頷いてくれたような気がした。
「少し寒いけど……こうすれば大丈夫」
私は憂を両の手で包みこんで目を閉じた。
こんな場所でも、憂と一緒なら大丈夫。
一つ深呼吸をしてから、頬に触れたかわからないくらいのキスをした。
~~~
今日は雪。
しんしんと降り注ぐ雪になんだか神秘的なものを感じながらも、私はあまり意識をそちらに向けていない。
こんな日はどうにも孤独を感じてしまう。
「憂、わたしがいるからね」
心配しないでね、とは言わずにまた二人の時間が流れる。
変な物言いだけれどこの時だけは確かに幸せを感じていた。
その日の食事はシチューに決めた。
メモ帳に書いてドアの前に置き、寒いので憂に寄り添った。
凶器や危険物は断られたけれど、頼めばほとんどのものは手に入れることが出来た。
ティッシュペーパー、布団などの生活に使うものからボードゲームなどの娯楽品まで。
しかしテレビやラジオ、雑誌等の外からの情報は一切手に入れることはできなかった。
「憂……あったかい?」
大好きとは恥ずかしくて言えなかったけれど、私の心は満たされていた。
~~~
今日は快晴。
雲は景色の端に少しばかり見える程度で、それがむしろ際立つくらいの青い空。
「憂、あっついねぇ……」
大分蒸し暑くなってこの頃は日がな扇風機を浴びて過ごしている。
憂とくっつけないのは残念だけれど、代わりに一緒にアイスを食べることが私の楽しみだった。
すると、鍵を開ける音がした。
振り向くといつもの男の人。
もう随分見慣れた顔だけれど名前も知らないまま。
別に聞こうとも思わなかった。
「何か頼みましたっけ」
「いえ、用件がありまして」
「用件?」
今まで彼がこんなふうに訪ねてきたことはない。
私は憂の手を握りながら彼に向き直った。
「いきなりですが、もうあなたは自由です」
「……え?」
「ここから出て構いません。どうぞお好きな場所へ」
ここに閉じ込められて何日経ったかわからない。
日付は途中で数えるのをやめてしまった。
一生出られることはないと半ば諦めかけていた私は彼の言葉に問い返した。
「……ほんと?」
「はい」
「どうして?」
「我々の都合で御座います」
「そっか」
外に行ける。
それだけで他のことはどうでもよかった。
私は憂の手を引き、長い間見てきた窓にそっと触れた。
「ねぇ、憂……この景色も最後だよ」
訳もわからず悲しい気分になってしまったので憂と顔は合わせられなかった。
沈黙が流れ、耳にこびりついた波の音がまた、部屋に響く。
その静けさを破るようにまた彼は口を開いた。
「……最後に一つだけ。それは毒の沼などではありません」
「……え……?」
「それが、海、でございます」
海。ずっと見たかった。
当たり前だ。毒の沼なんてあるはずがない。
そうか……私は……
「そうなんだ……」
感傷に浸るようにまた海を眺めた。
憂が所在なさげにしているのに気づいた私は、この部屋を出ることに決めた。
「じゃあ行こっか、憂」
「……それは」
立ち上がった私に向かって再び彼の口から漏れたのは、
「置いていってください」
意味のわからない台詞。
「……え?」
間を開けず私は聞き返した。
そして男は機械のように、同じ言葉を繰り返す。
「ここで手に入れたものは全て置いていってください」
私が腕に抱き抱えるのは愛しい妹の憂だけ。
だから、また聞き返す。
「何ももってません」
彼はいつかやってみせたようにゆっくりと腕を持ち上げ、指を指す。
「それ、でございます」
男の指先には、私の大事な憂。
ふつふつと怒りが沸いてきてそれをなんとか抑えた。
「憂になんてこと言うの?」
「それは、この家のものですので」
あくまでも冷静にものを言う男が気にくわなかった。
「憂はものじゃない!ふざけないでよ!」
そして、男が言った言葉を、何故か私の耳は通さなかった。
聞こえるのは、波の音だけ。
「……何いってるの?」
「あなたの抱き抱えるそれはこの部屋に置いてあった人形です」
また「それ」って言った。
憂を馬鹿にした。憂を侮辱した。
許せない。
許せない。
許さない。
私は傍のゴルフバッグからクラブを抜き取った。
男は、私をずっと見ていた。
「憂はずっと私といるんだよ」
「それは人形です」
「憂は、人形なんかじゃない…」
「平沢憂様は……」
男が言い切るのなんか待たずに、私はクラブを振りかぶった。
こんな失礼な男、
「わああああっ!」
いなくなっちゃえばいいんだ。
男は臥したまま動かない。
床は男から流れだす赤い水で滲んでいった。
でも、そんなのはどうでもいい。
私は憂を連れて部屋を飛び出した。
長い廊下を駆け、半円を描く階段を二回降りた。
一回は大きな広間になっていて、見渡すとそこには椅子にもたれたお婆さんがいた。
しかし、よく見るとその人は俯いたまま呼吸の様子すら見られない。
首をもたげ、まるで部屋の一部かのようにひっそりと佇むお婆さんは何処かでみたことがあった。
「……はやく出よう」
そんなことは頭の外に放り出すように、正面の仰々しい玄関を開けて外に出た。
~~~
「はっ、はっ……」
いつの間にか、夜。
ずっと見るだけだった砂浜を、憂を抱えながら走る。
足にまとわりついてくる細かい砂は進む体を重くさせた。
「憂、わたしがいるからね」
返事がないのは慣れっこだ。
「どこに行こっか?憂の行きたい場所に行こ」
それでも憂は私に焦点を合わせないで虚空を見つめたまま。
「憂……」
気づくと足は止まっていた。
どのくらい走ったのかはわからない。
長い間私たちを閉じ込めてきたあの大きな家はとっくに見えなくなり、家の方向すら今はわからない。
「ねぇ、憂……」
喋らないけれど、憂は人形じゃない。
確かめるように手に意識を移す。
息遣いも、温かさも感じないのは私がおかしくなったからかな。
「一回だけでいいから……」
ぎゅう、っと抱きしめるとやっぱり憂は柔らかかった。
憂は、ちゃんとここにいる。
「一回だけ、返事……してよぉ……」
目からは海からする匂いと同じ何かが出て、視界を滲ませた。
「……憂……」
憂は、それでも黙ったまま。
私は、憂と二人きり。
その場に座り込んで、まだ真円にはなっていない月の浮かぶ空を見た。
空は私たちなんかお構い無しにゆっくりと時間が流れてる。
だから目線を落として私の心のように静かな海に目をやる。
「……憂、これが海だって」
心臓の音が聞こえるくらいの静けさ。
「憂だって、ずっと一緒に見てきたよね」
憂の息遣いすら聞こえない。
「あの部屋の、同じ窓から」
私の声は、どこに届くかわからない。
「憂、わたし、もう疲れちゃった」
動かない憂をそっと地面に座らせて、私は立ち上がった。
「……ごめんね」
ゆっくりと波の中に足を入れると、ひんやりしていて目が冴えた。
一歩ずつ体を進めて、軽くなっていく体。
心の重荷が外されていくよう。
憂に振り返ると、じっと海を眺めてた。
憂は優しいから、私を止めたりしないんだ。
「憂……ありがとね」
次第に冷たさが伝わる体を海が受け入れてくれた気がした。
私の心に満ちるのは、久しぶりに感じる充足感。
ここで、終わりにしよう。
冷たい冷たいこの海で。
静かな静かなこの海で。
あの部屋の、同じ窓から
「……憂と眺めたこの海で」
―終わり。
最終更新:2010年10月06日 18:32